天気雨
――例えば、こんな話がある。
春先のある日、天気雨が降った。狐の嫁入りとも呼ばれる、空は晴れているのに雨が降るあの現象のことだ。通りを歩いていた男は、初めのうちは気のせいか、昨夜の雨が街路樹から落ちてきているのだろうと思っていたが、あまりにもしつこいのでようやく顔を上げた。頭上は青く、雨雲らしきものは欠片もなかった。予報だと晴れだったじゃないか、ついさっき見たのに、と思いながら彼は早足になった。
男は近場の古本屋へ本を売りに行く途中だった。部屋が本まみれでそろそろ鬱陶しかったし、暑くなる前に処分しようと思い立ったのだ。古本屋までは徒歩で三十分近くかかるので、できるだけ気温が低くて天気のいい日を選んだのだが、このザマだ。男はイライラ歩きながら、確認するように何度も空を見上げた。それで雨が止むわけもないことは分かっていたが、そうすることで自分の正当性を少しでも主張したかったのだ。
なかなか雨は止まなかった。霧のような小雨ではなく、そこそこ大きい雨粒が一拍子間隔で降っていた。これが頭に落ちてくると、頭皮をナメクジが這うような心地がして気持ち悪かった。体温を吸ってぬるくなった水滴が、やがて額から鼻の脇を伝ってアゴに垂れていくのだが、それも不愉快だった。男は不快感に耐えかねて、ハンカチで顔をぬぐった。なんだか負けたような気持ちになったが、苛立ちは幾分まぎれた。本が入っている紙袋にハンカチをかぶせると、気を取り直して先を急いだ。
空は晴れていたが、やはり雨は降っていた。かれこれ十分以上続いている。男は傘を持ってこなかったことを後悔しそうになったが、すぐに打ち消した。あくまで非は天気予報と天気自体にあって、自分は何も悪くない、それどころか正しくさえある、と彼は自らに言い聞かせていた。
そのように苛立ちを抑えこみながら歩いていると、反対の歩道の角からカップルが曲がってくるのが見えた。ひょっとしたら男より年下、二十二とか二十三かもしれない。二人とも手に傘を持っていたが、まだ差してはいなかった。彼らを見て、男は少し嫌な気持ちになった。その次の瞬間、若い女性の方が傘を開いて恋人に寄り添った。
男はすぐに視線をそらして俯いた。そして、最近読んだ本や作家のことを糞味噌にこき下ろしながら、大急ぎで対向歩道のカップルとすれ違った。
「俺は傘を持っていないし、傘を差し出してくれる人もいない。俺は傘を持っていない……」
我慢しきれなくなった咳の発作のように、生ぬるい水滴がいっせいに額から垂れてきたが、男は気づかないふりをした。
本は合わせて1500円くらいで売れた。
――そんなお話。




