神託の聖女アイテル
ソルフィーユの演説が終わると、余韻がまだ残る中でアルヴァスがゆっくりと立ち上がった。
そのまま神託の書の前へ進む。足音は小さく、それでも場にいる者たちの意識を確かに引き寄せていた。
「百年前の神託の記録には、真なる聖女の誕生が示唆されておりました」
穏やかな声が、神託の間に染み渡る。
「そして十年前の女神降臨祭において、聖女エスターシャは、黙示供犠を成功へ導く聖女の誕生について、神託を受けたのです」
空気がさらに深く沈む。
誰も言葉を挟まない。衣擦れの音さえ遠ざかったように、神託の間はアルヴァスの次の言葉を待っていた。
「いまだ解明されていない神託はございます。ですが、世界の変化を――我らの世代で目にすることになるかもしれません」
その瞬間、低いどよめきが広がった。
おお、と押し殺した歓声が、石壁に触れて返ってくる。
それは希望か。
期待か。
あるいは、自分たちだけが特別な瞬間に立ち会っているという昂揚か。
その熱が広がりかけたときだった。
「質問、よろしいですかね?」
二段目の席から、よく通る声が落ちた。
視線が一斉に向かう。赤茶の長髪を揺らしながら、スエルテが席を立っていた。
「私どもの情報網をもってしても、『真なる聖女』、そして『黙示供犠』については十分な情報を得られませんでした」
口調は丁寧だが、声には商人らしい探る響きがある。
「聖王国ディオールは、我々に何か隠しておられるのではありませんか?」
ざわめきが再び起こる。
だが、各国の指導者たちは動かない。表情も崩さず、ただ成り行きを見ている。
その中で、ミハエルだけが薄く笑っていた。
「もちろん、外部へ漏らせない内容はございます」
アルヴァスは動じることなく答える。
「ですが、ここにおられる選ばれた方々にも、それぞれ表に出せぬ事情はあるでしょう?」
そこで視線を横へ流す。
「ねぇ、ナフティアル王子」
「……」
ナフティアルは静かに見下ろすだけで、言葉を返さない。
その沈黙は否定ではなかった。むしろ、知っているからこそ語らない者の間に近い。
人族より遥かに長い時を生きる森王国ならば、何かを掴んでいても不思議ではない。
「ふむ。仲間外れとは、少々寂しいものですね」
スエルテは肩をすくめるが、目は笑っていない。
「スエルテ」
低い声が割って入った。
「黙って見てりゃ、お前の知りたい情報がタダで手に入るんだ。少しは落ち着いたらどうだ」
ジータスだった。
苛立ちを隠さない声に、スエルテは一瞬だけ目を細め、それから大げさに顔を覆う。
「ジータスに落ち着けと言われるとは……私も焼きが回ったようですね」
軽く笑いながら席へ戻る。その動きに合わせて、ざわめきも徐々に沈んでいった。
場が再び整うのを待ち、アルヴァスは神託の書へと向き直る。
「女神降臨祭における神託は、これから起こり得る出来事の中でも、極めて高い確度を持つものです」
その声は、先ほどよりもわずかに響く。
「そして私は、聖女ソルフィーユであれば、その未来をより良きものへ導けると信じております」
視線が、静かにソルフィーユへ向けられる。
期待。信仰。利用。
そのすべてが混じった視線の中で、神託の書だけが、何も語らずそこに在った。
「それでは、聖女ソルフィーユ。神託の書へ手を入れ、神力を流し込んでください」
「はい」
ここまでは台本通りだった。
この場にいる誰もが、これから降りる神託を待っている。だが、その内容を正確に予測できる者はいない。
ソルフィーユは、神託の書と呼ばれる器の前に立った。
書という名に反して、それは本の形をしていない。青白く発光する液体が満たされた器。その水面には、読めない文字列がゆらゆらと泳ぎ、光の筋が幾重にも重なっていた。
周囲の席から、いくつもの視線が注がれる。
期待。
好奇。
疑念。
それらを背に受けながら、ソルフィーユはゆっくりと手を伸ばした。
指先が水面に触れると、冷たくはなかった。
むしろ、思っていたよりも温かい。水というより、神力そのものの中へ指を沈めているような、内側に触れてくる温度だった。
恐る恐る、手首まで沈める。
青白い光が掌を包み、文字が肌の周りを泳ぎ始めた。
胸の奥に意識を向け、神力を引き出す。細く、慎重に、掌から神託の書へ流し込んだ。
「――っ!?」
次の瞬間、何かが逆流してきた。
それは神力ではない。
情報と記憶。
あるいは、誰かの残響。
意識の奥へ、無理やり流し込まれる。
『神託の聖女アイテル。神託は降りましたか?』
声が聞こえた。
水の中で響くようにくぐもっていて、輪郭は掴めない。だが、どこか聞き覚えがある。記憶の底を撫でるような声だった。
『はい。私の神託は、後世においても力を発揮し、人々を導くでしょう』
別の声が答える。
女の声。
穏やかで、祈るような響き。
『貴女の名は、この国の発展と共に、これから生まれる聖女たちの礎となるでしょう』
男と女の会話。
聖女と、何者か。
音だけではない。景色も流れ込んでくる。
古い石造りの部屋。
淡い光。
白い衣をまとった女性。
その胸元に、ゆっくりと影が伸びる。
そして、景色が急激に歪んだ。
『――ゴフッ……な、ぜ……?』
聖女の胸が、赤く染まっていた。
背後から突き出した手が、その胸を貫いている。白い衣に血が広がり、神託の聖女アイテルと呼ばれた女性の瞳から、光が急速に失われていく。
男の手が、ゆっくりと引き抜かれた。
その掌には、淡く輝くものが握られていた。
それは魔物から抜き取られた魔石に酷似したもの、人の中にある物は器と呼ばれる物だった。
『――美しい』
男は血に濡れた手で、それを眺めていた。
『ふふ……ははは……。この器で作れば、もっと効率よく、もっと扱いやすいものになる』
笑い声が広がる。
狂気が、音になって染み出していた。
床に崩れ落ちたアイテルが、かすかに唇を動かす。
『……様……どうして……』
命の灯が消えかけている。
声は掠れ、体温が引いていく感覚までが、ソルフィーユの中に流れ込んでくる。冷たさが指先からではなく、胸の内側から広がっていく。
『私は、この世界の先に興味があるのです』
男の声は優しかった。
だからこそ、ひどく歪んで聞こえた。
『大丈夫。安心してください。貴女の命はこの器に宿り、初代聖女として、永遠に生き続けます』
男は微笑む。
『それでは、ゆっくりお休みなさい』
『……』
アイテルの声は、もう返らなかった。
その瞬間、景色が砕ける。
膨大な記憶が濁流となって押し寄せ、ソルフィーユの意識を呑み込んだ。
(っ……!?)
息ができない。
水の中に沈んだわけではないのに、喉が塞がる。胸が押し潰され、肺が動かない。
上下の感覚が消える。
右も左も分からない。
視界は黒く染まり、耳の奥で水音のような轟きが鳴り続ける。
もがいても手応えがなく、抵抗しても何も掴めない。
深い海の底へ落ちていくように、意識だけが沈んでいく。
(このまま……)
飲み込まれる。
そう思った瞬間だった。
「――ファ」
闇の底に声が聞こえる。優しくて、懐かしい声。
「サイファ」
その名が、黒い水底に沈む意識を引き上げた。
「……ソル……フィーユ?」
闇の奥で一筋の光が揺れる。
遠い。――けれど確かにそこにある。
ソルフィーユは、残る力を振り絞って手を伸ばした。
指先が、光へ届きかける。
「サイファ!」
呼ぶ声が、今度ははっきりと響いた。




