神託の書の前にて
――神託院。
石段を踏み上がる足の裏に、以前とは違うざわめきが伝わってくる。ここを訪れるのは二度目だが、前回の張り詰めた警戒は影を潜め、今日は人の熱が建物そのものを包んでいた。
周囲には屋台が並び、焼けた油の匂いと甘い香りが入り混じって流れてくる。色とりどりの布や飾りが風に揺れ、巡礼者や見物客が絶えず行き交う。遠方からの者も多いのか、衣装や言葉の調子が微妙に異なっていた。
「女神降臨祭……これほどの規模なのですね」
視線を巡らせながら呟くと、隣のリュミエルが静かに頷く。
「十年に一度の祭事です。今年がちょうどその巡りに当たります」
手元の資料に目を落とす。数日前、アルヴァスから渡されたものだ。進行手順と、祈りを捧げるタイミングが細かく記されている。
紙の上では整然と並んでいる流れも、この人の波の中で本当にその通りに運ぶのか、わずかな現実味の薄さが残る。
「名前の通り……過去に女神が降臨した、その再現という形なのでしょうか」
「そのように伝えられています。ですが、一般の者は神託院の奥――神託の書の前までは立ち入れません。詳細な儀式の中身は、ほとんど知られていないのが実情です」
人の喧騒とは裏腹に、核心の部分は閉ざされている。
「神託の書が、特別な神託を降ろす……と」
「はい」
頷きはあるが、確信というよりは伝承をなぞる響きだった。
「興味はありますが……前回の神託は、少々不可解でした」
思い出すだけで、胸の奥にわずかな違和感が残る。
あれは未来を『言い当てる』ものではなく、そうなる方向へ、わずかに傾ける力のように見える。
だが絶対ではない。時間のずれもある。結果として現れるのは、数ある可能性の中で最も確率の高いものに過ぎない。
(ならば――それをどう使うか、か)
神託院の役割が、ぼんやりと輪郭を持つ。
「その後も、神託は続いていたはずです」
リュミエルが淡々と補足する。
「ですが内容については、ほとんど外に出ておりません。意味を持たないものだったのか、あるいは解読できなかったのか……」
「あるいは――」
言いかけたところで、別の声が軽く割り込んだ。
「あるいは〜、隠された神託があったりして?」
空気がわずかに揺れ、姿の見えない気配が隣に寄る。
「コレット」
名を呼ぶと、くすりと笑う気配だけが返る。
「神託の書の部屋はね、さすがに私でも入れなかった。でもさ、あれが本物なのは確かよ。あれ使って、この国をここまで大きくなったんだから」
見えないまま、声だけが少しだけ低くなる。
「戦争を避けて、災害を抑えて、疫病の薬まで作って……聖女の出現だって当ててきた。そうやって、この国は崩れずに、むしろ広がってきたの」
喧騒の向こうで、鐘がひとつ、澄んだ音を落とした。波のような人のざわめきがわずかに引き、空気の層が切り替わる。
その境目に立っていたのは、見覚えのある神官だった。以前、院内を案内してくれた神官だ。姿勢は整い、場に似つかわしい穏やかさを保っている。
「お待ちしておりました、聖女ソルフィーユ様。本日は、いつも以上にお美しい」
儀礼としては過剰な言葉が、さらりと差し出される。
「あ、ありがとうございます」
返した声がわずかに遅れる。胸の奥で小さく脈が跳ね、すぐに抑え込む。視線を整え表情を平らに戻すと、ソルフィーユは何事もなかったように歩き出した。
神官の背を追う。
扉をくぐった瞬間、外の熱は嘘のように薄れ、空気はひやりと沈んでいた。エントランスホールは祈りの場へと変えられているらしく、声は抑えられ、衣擦れと呼吸だけが静かに重なっている。遠くの喧騒が、壁の向こうでぼやけている。
跪き、祈りを捧げる人々の間を気配を崩さぬように、さらに奥へ進む。
封印の施された扉をいくつも越えるたび、空気は一段ずつ重くなる。足音が吸われ、音が消える。外界から切り離されていく感覚が、ゆっくりと体に沈む。
やがて辿り着いたのは、神託の書の間。
中央を囲むように、すでに人影が揃っていた。
聖王国ディオール国王レオナール。アルヴァス教皇。外相メルドラ。そして国庫大臣シャティカ。いずれも動かず、ただそこに在るだけで場の重心を形作っている。
「各国の要人も、すでにお集まりのようですね」
小さく呟き、視線を上へと滑らせる。
段差を設けた席に、各国の代表たちが並んでいた。神託の書を見下ろす位置取りで、どこからでも、見られるようになっていた。
その中に、見慣れた金色が混じる。
ミハエル。
視線が交わる前に、わずかに逸らす。だが、見られている感覚は消えない。
上から、下から。
神託の書を中心に、全ての視線が交差している。
祝祭の外とは別の、静かな緊張が、この場を満たしていた。
「さて、皆さまお揃いのようですな。聖女ソルフィーユ――こちらへ」
メルドラの声は低く、感情の温度を削ぎ落としたまま場に広がる。向けられた視線は冷ややかで、言葉以上に距離を突きつけていた。
ソルフィーユは何も返さず、リュミエルの側を離れる。背に残る気配を感じながら、指定された位置へと歩を進めた。床に吸われる足音だけが、やけに大きく聞こえる。
所定の位置に立った瞬間、空気が一段沈んだ。
「これより、女神降臨祭を執り行う。まずは、聖王国ディオール国王陛下より、お言葉を頂戴する」
メルドラの進行の声に合わせ、中央の席からレオナールが立ち上がる。翻るマントが光を弾き、視線が一斉に集まった。
「十年の時を経て、再びこの祭を執り行えること、まことに喜ばしく思う」
響きのある声が、静まり返った空間を満たしていく。
「今回の儀は、これまでにない精度で神託を得るものとなるだろう。我らはその導きに従い、各国の安定と発展へと繋げていきたい」
一度言葉を切り、視線がゆっくりと巡る。
そして――
「真なる聖女、ソルフィーユの力によって、新たな奇跡がもたらされると、私は信じている」
名を呼ばれた瞬間、視線がこちらへ寄る。
逃げ場はない。ただ立っているだけで、期待と評価が押し寄せてくる。
やがて拍手が起こる。
最初は控えめに、次第に広がり、壁と天井に反響していく。規則正しい音の波が、神託の書の間を満たした。
その中心で、ソルフィーユは微動だにせず、ただ静かにそれを受け止めていた。
「続いて、アルヴァス教皇」
メルドラの声が静かに落ちると、アルヴァスは席を立った。柔らかな微笑を浮かべたまま、わずかに周囲へ視線を巡らせる。その仕草だけで、場の緊張がほんの少し和らぐ。
「世界はいま、混乱の渦中にあります。それは聖王国に限ったことではなく、隣国もまた同様でしょう。ですが、この状況もまた――神託に記された通りでございます。すなわち必然であり、同時に、この困難を越える術が示されているということ」
語気は強めず、視線をソルフィーユに向ける。
「本日、『神託の儀』は、聖女ソルフィーユの神力によって執り行われます」
ソルフィーユを取り囲む視線が、一斉にこちらへ向く。
「我らの未来を――明るく照らすために」
締めくくられた言葉に、拍手が湧き上がる。波のように広がり、壁に反響して空間を満たしていく。
段上に並ぶ要人たちは、それぞれに期待の色を浮かべていた。希望、打算、あるいは祈り――その混じり合った視線が、一斉にソルフィーユへと集まる。
その中で、ただ一人。ミハエルだけが、手を打たない。
椅子に深く腰掛けたまま、わずかに口元を緩め、静かにこちらを見ている。
拍手の波から切り離されたその姿が、かえって強く印象に残った。
「それでは、最後に聖女ソルフィーユ」
名を呼ばれ、ソルフィーユは席を立つと、周囲を軽く見渡して、やがて、ゆっくりと語りかけるように話す。
「本日は、女神降臨祭という尊き場にて、祈りを捧げる機会を賜り、深く感謝申し上げます」
静かに言葉を置くと、空気が整うのが分かる。
「我らはこれまで、神託の導きのもと、幾多の困難を乗り越えてまいりました。戦乱を避け、災いを退け、命を繋いできた歴史は、紛れもなくこの神託の賜物でございます。しかし――」
ほんのわずかに間を置くと、ソルフィーユは視線をメルドラに向ける。
「神託は、未来を『示すもの』であり、すべてを決めるものではございません。与えられた道を歩むのは、我ら自身であり、その選択こそが、未来を形作るのだと……私は考えております」
アルヴァスは、口元に浮かべた笑みを隠そうともせず、肩をわずかに揺らしている。愉しんでいる――それも、予定調和が崩れたことそのものを。
対照的に、メルドラの顔は凍りついていた。
視線は鋭く、わずかに歪んだ眉間に、抑えきれない苛立ちが滲む。声こそ発さないが、その沈黙が、かえって強い圧となって場へ広がっていた。
ソルフィーユは目を伏せたまま確信する。
渡された原稿は読むためのものではなかった。
女神レイディアを讃え、聖王国の庇護のもとに各国の意思を束ねる――そのための言葉が、過不足なく並べられていた。
神託を絶対とし、従わせるための文章。
だが今、この場に残っているのは、それとは異なる空気だ。
統一ではなく、解釈の余地。
従属ではなく、選択の余白。
わずかに外しただけのはずの言葉が、意図していた流れを確かに歪めている。
そして――段上から、ただ一人。
拍手もせず、動きも見せなかったミハエルが、ゆっくりと口元の笑みを深める。
その視線が見透かすように、まっすぐにソルフィーユへ降りてくる。
あるいは――同じ側に立つ者を見つけたかのように。




