三人のトップと聖女
ジータスの放つ圧が、場の温度を一気に引き下げていた。言葉を挟む余地はなく、周囲の者たちも距離を保ったまま、ただ様子を窺うしかない。
リュミエルが一歩前へ出て、ソルフィーユの前に立つ。だがその背越しに感じる視線は、すでに彼を捉えていなかった。
ジータスの意識は、最初から最後までソルフィーユにだけ向けられている。
張り詰めた空気が、さらに軋むそのときだった。
「お取り込み中、申し訳ない。私も少し混ぜていただけるかな」
軽やかな声が割り込むと同時に、背の高い男が、まるで散歩の途中にでも立ち寄ったかのような自然さで、その輪へ踏み込んできた。
「……なんだよ、邪魔すんな。スエルテ=ジノン」
ジータスが露骨に眉を寄せる。
「つれないな。君はなかなか会ってくれないし、今日は聖女様に森王国の王子まで揃っている。これだけの場だ、私にも少しくらい商機を分けてくれてもいいだろう?」
穏やかな口調のまま、言葉の端に鋭さが混じる。
「お前と話すと、言いくるめられるから嫌いなんだよ」
吐き捨てるように言うと、ジータスは肩を鳴らした。
「……気が逸れた。またな、聖女」
最後だけは最低限の礼を残し、そのまま背を向けると、ジータスが発していた圧がほどけた。
ジータスはそのまま、酒の並ぶテーブルへと歩いていく。
(……苦手、というよりかは、避けている)
ソルフィーユは去っていく背中を見送りながら、割り込んできた男へと視線を戻した。
「ああ、また振られてしまったか」
どこか芝居がかった嘆息を一つ。
「初めまして。ソルフィーユと申します。商業国家連合の総合代表、スエルテ様でお間違いありませんか」
形式を整えると、男はすぐに姿勢を正し、丁寧に一礼する。
「これはご丁寧に。スエルテ=ジノンでございます」
柔らかな笑みの奥で、瞳だけが油断なく動いている。
赤茶色の髪は長く、一挙一動は商人よりも貴族に近い。
「聖女様には、我が商業国家連合より、いくつか贈呈品をご用意しております。後ほどお納めくださいませ」
「あ、ありがとうございます」
「どのような品でも手配可能でございます。いつでもお声がけを」
そう言って、懐から一枚のカードを取り出し、自然な動作で差し出してきた。
ソルフィーユは受け取ると、それは名刺のようなものだった。
「こちらを商業ギルドで提示いただければ、無利子での貸付、手数料なしの取り寄せ……加えて、我々が運営する宿泊施設も、すべて私の負担でご利用いただけます」
言葉が並ぶほどに、その条件は現実離れしていく。
にこやかな笑顔。だがその裏にある計算は、隠そうともしていない。
利益にならない取引を、商人の国の代表たるこの男がするはずがなく、ソルフィーユは無意識に警戒を一段引き上げる。
「さて――ハイエルフの王子ともご挨拶を……どうもどうも、私はこういうもので」
同じようにカードを差し出しながら、今度はナフティアルへと歩み寄る。
流れるように言葉を重ね、交易の可能性を提示し、条件を引き出していく。
その手際に、迷いはない。
断られる前提で動き、断らせない位置まで詰める。
その一連を眺めながら、ソルフィーユはふと息をついた。
(……なるほど、商人とはこういう生き物か)
場にあるすべてを機会へと変え、躊躇なく手を伸ばす。
ヨアンとは違う商人のタイプではあった。
スエルテはナフティアルとの交渉をあっさりと断られると、崩れることもなく、そのまま柔らかな笑みを保ったまま戻ってきた。
「聖女様、明日の女神降臨祭――楽しみにしておりますよ」
それだけを告げると、踵を返し、今度は迷いなく貴族たちの輪へと入り込んでいく。すでに次の商機へと意識が切り替わっているのが、その背中からも分かった。
言葉を交わし、距離を詰め、何かを売り込む。
その一連が、まるで呼吸のように自然だった。
「人族は、お金の話ばかりですね」
スエルテの背を見送りながら、アルシェルが呆れたように呟く。その声音には、軽い嫌悪が混じっていた。
ナスターや奴隷商を間近で見てきた彼女にとって、それは無理もない感想だった。
「お金に興味のない方も、ここにはいらっしゃいますよ」
リュミエルの視線が、静かにソルフィーユへと向けられる。
だがソルフィーユは何も言わず、ただ一度だけ目を閉じると違法奴隷オークション地下で二人の姿が脳裏に戻った。
それと同時に、まだ終わっていない名前が一つ浮かぶ。
「そういえば――ナスターが生きているらしいです」
「なんですって? それは本当?」
アルシェルの声が低くなる。
ソルフィーユは軽く咳払いをし、周囲に聞こえないよう声を落とした。
短く、要点だけを伝える。
ナスターの生存。
そして、その正体。
「――そう。魔族、ですか」
アルシェルは小さく息を吐いた。
「強力な暗黒魔法を使う時点で、疑うべきだった。情報、感謝します」
「いえ。私も放置するつもりはありません。何か動きがあれば対処しますので……ナフティアル王子のことは、お願いします」
「それは任せてください」
短く、しかし確かな返答だった。
その後は、張り詰めた空気を緩めるように、話題は自然と変わっていく。アルシェルとナフティアルを交え、エルヴァシア森王国の暮らしや風土の話へと移り、穏やかな会話が続いた。
異なる文化、異なる価値観。
それでも言葉を交わせば、理解できる部分もある。
そんな時間が静かに流れていく。
そして――明日は女神降臨祭。
すべてが動き出す日が、すぐそこまで迫っていた。
▽
――前夜祭の熱がまだ空気に残る朝、ソルフィーユはミラーナたちに囲まれながら、女神降臨祭の支度へと身を預けていた。
差し出された聖衣に袖を通すと、薄くしなやかな布が肌に沿い、肩から腰へと無理なく馴染んでいく。動かしても引っかかる感覚はなく、膝を軽く曲げても違和感は出ない。軽さの中に、確かな計算が仕込まれているのが分かる。
布地が空気を含んで揺れ、普段の重いローブとはまるで別物だった。
「うひょ〜、やっぱ似合ってるじゃん」
ミラーナの弾んだ声が上がる。鏡の前で髪飾りが整えられ、淡く化粧が施されていくたびに、視界に映る自分の輪郭が少しずつ変わっていく。
その様子を見つめるリュミエルは、胸元で手を重ねたまま、小さく息を呑んでいた。普段は崩さない表情が、今だけははっきりと緩んでいる。
「普段はローブで全てを覆っていますから……このように軽やかな装いは、少し落ち着きませんね」
布の裾がわずかに揺れるたび、視線がそこへ引き寄せられる。露出が増えたわけではないのに、隠れていたものが外へ出たような感覚だけが残る。
「ソルフィーユ様、とてもお似合いです」
リュミエルの声は柔らかく、それでいて揺るがない確信があった。
「いいんじゃない? 私らから見れば、そのローブの方がよっぽど暑苦しいけどさ」
軽口を挟むコレットの声が、どこからともなく混ざる。
「本日の女神降臨祭で着用すれば、しばらくは仕舞われることになるでしょうが」
現実を付け足すようにリュミエルが続けると、ミラーナはすぐさま顔をしかめた。
「へへ〜ん、でもさぁ、もう流れ来てるんだよ。お貴族様から普段着用の注文がわんさか来ててさ〜。あの着るの面倒なドレスとかコルセット抜きで動きやすい服がいいってさ」
指先で布をつまみ、ひらひらと揺らしながら、ミラーナは満足げに頷く。
「そのうちソルフィーユ様の聖衣もさ、もっとおしゃれで動きやすいのに変わるよ。もうすぐだって」
「昨日の余興を見る限り、その兆しはありますね」
思い返せば、確かに変化の気配はあった。
貴婦人たちの会話の端々から、ミラーナの衣装を歓迎する声が確かに聞こえていた。
「私の装いは選択肢が限られておりますので……普段着や新たな聖衣には興味があります」
言葉にすると、ミラーナの目が一気に輝く。
「任せて〜! いくらでも作るから! あ、そうだコレット! 採寸させて――」
しかし、振り返った先に姿がない。
つい先ほどまでそこにいたはずの気配だけが、薄く残っている。
「……コレット?」
呼びかけても返事はない。
だが、消えたわけではないとソルフィーユは分かる。
すぐ側の空気の密度がわずかに歪んでいる場所がある。
視線を凝らせば、そこにいることだけは感じ取れるのに、輪郭が掴めない。意識から外れた瞬間に、すり抜けてしまいそうなほど希薄だった。
「ちっ……逃げられたか!」
ミラーナの舌打ちが軽く響くが、その視線はすでに別の獲物を探すように泳いでいる。
「ミラーナの目が怖いのですよ。その……獲物を狙うような視線が」
リュミエルが淡々と指摘すると、間を置かずに返事が飛ぶ。
「だってさ〜、あのサイズで可愛い服とか絶対似合うじゃん? 想像したら止まんなくてさ〜」
両手を広げて見せる仕草に、まるで完成図が見えているかのような熱が宿っている。
「それでは、ただの着せ替え人形です。だから逃げるのです」
ぴたりと切り捨てる言葉に、ミラーナは頬を膨らませた。
「ちぇ〜」
不満は隠さないが、改める気配もない。その様子に、空気のどこかで小さく気配が揺れた。
姿は見えない。それでもコレットの気配だけは、部屋の隅でじっと距離を保っていた。
(……しばらくは、あのままでしょうね)
誰にも気づかれないように潜むその在り方に、ソルフィーユはわずかに視線だけを向ける。
「さて、そろそろ時間になりました。神託院へ向かいましょう」
リュミエルの声で、空気が切り替わる。
「え〜、もうそんな時間か。もう少し眺めていたかったのに」
「行ってきますね」
ミラーナが名残惜しそうに手を振る。
部屋を出る瞬間、背後の気配がふっと動き、誰にも触れられないまま静かに追従してきた。
聖女専用の馬車へ乗り込むと、厚い扉が閉じられ、外界の音が遠ざかる。内装は過剰なほどに整えられているが、その静けさはどこか閉じ込められたようにも感じられた。
やがて、ゆっくりと車輪が軋み、馬車が動き出す。
大聖堂の影を離れ、朝の光の中へと進む。
揺れに合わせて衣の裾がわずかに触れ合い、その軽さが改めて意識に浮かぶ。普段の重さとは違う感覚が、妙に落ち着かない。
向かう先は神託院。
ただの移動のはずなのに、胸の奥に沈んだ違和感だけが残っている。各国の要人が集まる場所、あそこで何が起こるのか。
流れていく街並みの向こうで、神託院の尖塔が朝日に白く浮かび上がる。
そこへ近づくほど、胸の奥に沈んだ違和感は、かすかな痛みに変わっていった。




