不可解なまぼろし
意識が、一気に浮上した。
闇の底から引き上げられるように視界が開き、神託の間の光が戻ってくる。石壁、雛壇、青白く光る神託の書。そして、自分へ注がれる無数の視線。
その全てを認識した瞬間、ソルフィーユは反射的に手を引き抜いた。
青白い液体が指先から滴り、床へ落ちる前に光となって霧散する。掌には温もりだけが残っていた。だが、指先の震えは止まらない。
(あの光景は……何? 誰かの記憶? それとも、神託の書の奥に残された記録……?)
胸の奥がまだ冷えている。
あのまま沈んでいたら、戻ってこられなかった。
そう確信できるほど、あの闇は深かった。もがいても届かず、声も出せず、意識だけが削られていくような感覚が、まだ身体の内側に残っている。
だが、最後に声が聞こえた。
自分を呼ぶ声。
サイファと呼ぶ懐かしい声が。
(……あれはソルフィーユだったのか?)
そう思った瞬間、胸の奥にわずかな熱が灯る。
しかし、それを確かめる暇はなかった。
「――女神レイディアの神託が降りました」
アルヴァスの声が、静まり返った神託の間に響く。
彼はソルフィーユの横へ進み出ると、神託の書に浮かび上がった文字へ目を向けた。青白い水面には、先ほどまでなかった文字列が淡い光を帯びて揺れている。
周囲のざわめきがぴたりと止まる。
「セントゥーリアに既に二つの門は開かれた」
アルヴァスは静かに読み上げる。
……セントゥーリア。ソルフィーユの記憶では、この世界の名だとわかる。
「残るは二つ。北に神具を携えし者。西に理の外より来たりし異邦人。四つの門が開かれる時、世界は世界であることをやめる。交わるは地ではなく、時。崩れるは国ではなく、理」
誰かが息を呑む音がした。
「終わりは始まりとなり、始まりは神を産む。降臨の儀は、いずれ成る。新たなる神は、いずれ目覚める。だが、その御前に立つ者は二人にあらず。三人にあらず」
アルヴァスの声が、わずかに低くなる。
「ただ、一人」
最後の言葉が落ちたあと、しばらく誰も動かなかった。
ソルフィーユも神託の書へ視線を落とす。そこに刻まれた文字は確かに読める。だが、意味は掴めない。
二つの門。
北の神具。
西の異邦人。
世界が世界であることをやめる。
言葉は並んでいるのに繋がった瞬間、形を失う。見えているはずのものが、すり抜けていく。
隣に立つアルヴァスの顔を窺うと、彼は微笑んでいた。
穏やかで揺るがない微笑だったが、その表情から読み取れるものは何一つなかった。
やがて、周囲に低いざわめきが広がる。驚きに顔を見合わせる者。沈黙したまま思考を巡らせる者。隠しきれない野心を瞳に宿す者。
そして――笑う者。
雛壇の一角で、ミハエルが薄く口元を緩めていた。
神託の内容を理解しているのか。
あるいは、理解しているふりをしているだけなのか。
どちらにせよ、その笑みは無関係な者のものではなかった。
(……私が動いた場所で、門が開いている?)
神託そのものの意味は分からない。
だが、それだけは分かる。
既に開かれた二つの門。
その言葉に重なる記憶がある。
監獄塔での儀式。そして、悪魔が現れたあの場所。
胸の奥に冷たい確信が沈んでいく。
(アルヴァスは知っていた。知らなかったはずがない。だから自分を大聖都の外へ出した。だからあの場所へ向かわせた。だから今、この場で神託を降ろさせた)
全てが偶然のように並べられ、結果だけが神託として示されている。
ソルフィーユは濡れた指先を握り込んだ。
まだ震えは止まらない。
だが、今はそれを隠すしかなかった。
神託の間に集う全ての者が、こちらを見ている。
聖女として。
真なる聖女として。
そして、これから起こる何かの中心に立つ者として。
「では、ソルフィーユ。別室で休憩していてください。後ほど、私も伺います」
アルヴァスの声には、神託の間に残る者たちへ向けた配慮が滲んでいた。ここで問い詰めるべきではない。そう判断したのだろう。
ソルフィーユは小さく頷き、リュミエルに付き添われながら神託の間を後にした。
重厚な扉が背後で閉じると、神託の間に満ちていた張り詰めた気配が薄れ、廊下の空気が肌に触れる。だが、胸の奥に残った冷えは消えなかった。神託の書に触れていた指先には、まだ誰かの記憶の残滓がこびりついているようだった。
「ソルフィーユ様、顔色がよろしくありません。神力を使い過ぎたのですか?」
リュミエルが隣を歩きながら、声を落として問いかけてくる。普段よりも歩調を緩めているのは、ソルフィーユの足取りに気づいているからだろう。
「神力はそれなりに消費しました。けれど、問題はそこではありません」
答えながら、ソルフィーユは廊下の壁に並ぶ燭台へ視線を向けた。炎は揺れているのに、あの闇の底で見た光景だけは、瞼の裏に焼き付いたまま離れない。
「神力そのものが、神託の書の力を最大限に引き出すための鍵になっていた……そんな感覚がありました」
「鍵、ですか」
「はい。私が神託の書を読み解いたというより、神託の書が、私の神力を使って何かを見せたのだと思います」
神託の間の横にある休憩室へ入ると、室内には薄い香が焚かれていた。来賓を迎えるための部屋なのだろう。磨かれた低いテーブルと、柔らかそうな長椅子。壁際には水差しと杯が用意され、窓から差し込む光が床の紋様を淡く照らしている。
ソルフィーユはソファーへ腰を下ろした。身体を預けた瞬間、思っていた以上に力が抜け、指先が膝の上でかすかに震える。
神託の聖女、アイテル。
未来を読む力。
いまの神託の書に似た、未来の断片を見通す奇跡。
そして、何者かによって命を奪われ、器を抜き取られた女性。
(人の器を抜き取る……それを、一体何に使うのでしょうか)
魔物ならば、魔石という形で力の核を残すことがある。だが、人の器とは何なのか。魂なのか。神力の器官なのか。それとも、聖女という存在そのものに関わる何かか。
考えれば考えるほど、胸の奥に嫌な重さが沈んでいく。
そのとき、何の前触れもなく空間が揺らぎ、コレットがソルフィーユの前に姿を現した。
小さな身体がふわりと宙から降り、テーブルの上へ音もなく着地する。普段ならば気まぐれに現れるその姿も、今はどこか硬い。コレットの瞳は、ソルフィーユの顔色ではなく、その内側に残る何かを覗き込むように細められていた。
「ソルフィーユ。神託の書に触れて何を見たの?」
リュミエルがわずかに身構える。だが、コレットの声音には責める響きはない。ただ、見過ごせない異変を感じ取った者の鋭さがあった。
「神託の聖女、アイテルと思われる人物の追体験をしていました」
ソルフィーユは、言葉を選びながら答えた。
「彼女は、未来を見る奇跡の持ち主だったのだと思います。神託の書に触れた時と同じ感覚がありました。確定した未来ではなく、これから起こり得る断片を拾い上げるような……」
「アイテル……」
コレットの表情が変わった。
ほんの一瞬、記憶の底を探るように視線が揺れる。彼女にしては珍しく、すぐに言葉が出てこなかった。
「たしか、私の記憶が正しければ……初代聖女の名前だったはずよ」
「初代聖女」
ソルフィーユはその言葉を繰り返した。
幻の中で聞いた男の声が、脳裏に蘇る。彼もまた、アイテルを初代聖女と呼んでいた。
「それは、原初の聖女と同じ存在なのでしょうか?」
「呼び方が違うだけで、同じじゃないのかな。初代聖女。原初の聖女。どちらも、最初に女神の奇跡を宿した聖女を指す言葉としては不自然じゃないもの」
コレットはそう言ったが、ソルフィーユの中ではすぐに納得できなかった。
同じ存在を指しているのなら、なぜ呼び名が二つあるのか。
神殿に伝わる歴史と、神託の書が見せた記憶。その間には、何かが意図的に抜け落ちているように思える。
「幻の中で、男がアイテルを初代聖女と呼んでいました」
ソルフィーユは膝の上で指を握る。
「あの言い方には、ただの敬称とは違う響きがありました。まるで、初代聖女であること自体に、何か別の意味があるような……」
室内の香の匂いが、急に濃く感じられた。
未来を読む聖女と抜き取られた器。
そして、初代聖女という名。
それらは別々の欠片のはずなのに、見えない糸で繋がっている。
ソルフィーユは窓から差し込む光へ目を向けた。そこにあるのは穏やかな午後の光景のはずなのに、あの闇の底で見た女性の最期が、影のように重なって見えた。
神託の書は、未来だけを映すものではない。そこには、誰かが隠した過去まで沈んでいる。




