トロールの渓谷 正当な対価
「ソルフィーユ! リュミエル! 助けに来たニャーーン!!」
「ヒヒィィィーーン!!」
轟音と嘶きとともに、二頭のバーバリアンホースが肉の空間へ飛び込んできた。
そして、その背にいたのは――ガルドとナナイだった。
「遅れてすまねぇ! 迎えに来たぞ!」
バーバリアンホースに跨ったガルドが叫ぶ。
「ガルド? 応援を呼びに行ったのでは?」
突然の出来事に、ソルフィーユが目を見開く。
「ナナイ殿も……なぜここに?」
リュミエルも戸惑いを隠せない。
「話は後ニャ。早く馬に乗るニャ」
ナナイが手綱を引きながら言う。
その時、バーバリアンホースが、ぶるるる、と鼻を鳴らした。
視線はまっすぐソルフィーユへ向いており「早く乗れ」と言っているかのようだった。
ソルフィーユは頷くと、ガルドの背後へ飛び乗った。
同時に、リュミエルもナナイの後ろへ身を滑り込ませる。
救出は成功した。
だが――それを見ていた存在がいる。
四つの目を持つ悪魔のその表情が、はっきりと歪んだ。
「まさか……」
肉の壁に反響するかのような重圧な声が響く。
「外部から侵入されるとは。やはり、幽体のままでは――」
四つの瞳が細められ、唇がわずかに歪んだ。
「この世界に干渉するのにも、限界があるわね」
四つ目の悪魔が、ゆっくりと掌を掲げた。
その瞬間だった。
肉の壁が蠢き出す。
まるで意思を持つ生き物のように、ぐにりと形を変え――無数の触手が、ソルフィーユたちへ伸びた。
「ソル! 振り落とされるなよ!」
ガルドが叫び、同時に、バーバリアンホースの腹を強く蹴った。
「ヒヒィィィン!」
バーバリアンホースが高く嘶き、地面を蹴ると、一気に駆け出した。
蠢く肉の斜面を駆け上がる。
迫る触手をすり抜け、さらに、その触手の上すら踏み台にして駆け抜けた。
バーバリアンホースは怯まない。
ただ一直線に、先ほど開いた脱出口を目指す。
だが、後方から再び触手が迫る。
鋭くしなる肉の鞭。
「ハッ!」
閃光のような一撃。
リュミエルの剣が振るわれると、迫る触手を真っ二つに断ち切る。
続けて進行方向の肉壁が、大きく裂けた。
そこから触手が開き、口のように広がる。
まるで、こちらを丸呑みにしようとする捕食者の顎のようだ。
「俺たちを!」
ガルド唸りを上げて吠える。
「誰にも止められねぇ!」
片刃の大剣が唸りを上げた。
振り抜かれた刃が、迫る触手を叩き斬る。
それでもバーバリアンホースは怯まない。
馬身をぶらすことなく、確かな足取りで駆け続ける。
悪路を引く馬車にも文句ひとつ言わず、息が詰まるような瘴気の中でも恐れない。
肉の断崖でさえ、速度を落とさず駆け上がるその姿は、勇敢で強靭な暴れ馬――。
ガルドの大剣が次々と触手を薙ぎ払う。
そしてついに、開いた穴へ飛び込んだ。
「……おのれ、どいつもこいつも……邪魔ばかり……やっとこの世界に戻って、アルヴァスに会えると思ったのに……」
背後からソルフィーユだけに声が届く。
「『真なる聖女』よ」
四つの瞳がそれぞれ別の色を放ち、最後に細められる。
「――また会いましょう」
悪魔の姿が黒い霧へと崩れ、霧は空へ溶けるように消えていく。
それと同時に肉の壁もまた、形を保てなくなった。
黒く腐敗し、どろりと崩れ落ちる。
程なくして、異形の空間は静かに瓦解していった。
「……これは?」
足下に小さな箱が落ちていた。
拾ってみると、何やら中に入っているようで、蓋を空けてみると、そこには綺麗な緑色に輝く指輪が入っていた。
「……誰かの遺品かもしれませんね」
ソルフィーユはそっと袖の中に仕舞うと、荒地の渓谷を後にした。
▽
ソルフィーユたちが、あの異様な空間から脱出して――およそ一刻。
森へ散っていた冒険者たちも次々と戻り、事態の把握のためギルド職員の陣地へと集められていた。
負傷者した者のうめき声。
担架で運ばれる冒険者。
辺りには重苦しい空気が漂っている。
やがて、ギルド職員が前に出た。
「本件につきましては、単なる魔物災害として処理できる案件ではありません」
緊張した声が、静まり返った場に響く。
ギルド職員は周囲を見回した。
「ギルド本部へ正式に報告いたします。また、ギルド本部から聴取された場合、ご協力をお願いいたします。そして、報酬の件につきましては、共同討伐依頼に参加され、生き残った皆様には――報酬の山分けと、回収された素材の分配を、グラン=テルムにて行います」
共同討伐に参加した冒険者の――八割が死亡した。
その事実は誰もが理解している。
だからこそ、報酬が増えると言われても、喜ぶ者は一人もいなかった。
……ただ一人を除いて。
「ニャハハハ〜。取り分が増えて良かったニャ〜」
場違いな笑い声が響く。
ナナイだった。
「ナナイ、不謹慎ですよ」
すぐに、ソルフィーユが小声で諫める。
「亡くなった冒険者にも家族がいるでしょう。これから報告に帰る身にもなってください」
「死んだ人間を嘆いても仕方がないニャ」
尻尾をゆらゆらと揺らしながら、ナナイが肩をすくめる。
「そもそも、この森に入った時点で様子はおかしかったニャ。警戒を怠って自滅したなら、そいつの責任ニャ。そして、戦場ニャら尚のこと――一瞬の油断が命取りニャ」
その言葉は鋭かった。
だが、誰も反論しない。
ここにいる全員が、同じことを胸の奥で感じていたからだ。
沈黙がテントの中を包む。
やがて、ギルド職員が咳払いをした。
「聖女様」
ギルド職員がソルフィーユに向き直り、少しだけ頭を下げる。
「大変申し訳ないのですが、怪我人の治療と、ギルド本部への報告書作成のため……お力をお借りできないでしょうか?」
「かまいません」
ソルフィーユは表情は崩さず、すぐに頷いた。
「近くにまだトロールが残っている可能性もありますし、すぐに出発するわけではないのでしょう?」
「はい」
職員も頷く。
「現地調査も行いますので、少なくとも一週間はここで待機となります」
周囲の冒険者たちの表情が曇る。
誰もが、早く街へ帰りたい。
だが――ここを離れるわけにはいかない。
生きてグラン=テルムへ戻らなければ、報酬は受け取れない。
そして何より、この森で何が起きたのか。
それを確かめずに帰ることもできなかった。
――それから、三日をかけて渓谷とその周辺の森を探索した。
渓谷の底には、大量のトロールの死骸。
そして――冒険者たちの亡骸。
だが、それ以外は何も残っていなかった。
装備も、遺品も、まるで、そこに存在していた痕跡だけが置き去りにされたかのようだった。
あの異様な空間。
人の理を遥かに超えた存在。
そして、そこに現れた四つ目の悪魔。
もしかすると――あれは、女神レイディアと並び立つ存在なのかもしれない。
「今帰ったわ」
ソルフィーユが思考の海に浸っていると、不意に声がした。
振り向くと、セレナがいつの間にか馬車の荷台に入り込んでいた。
彼女はさらに南下し、エルフの国の国境線まで様子を見に行っていたのだ。
「様子はどうでしたか?」
ソルフィーユが問いかけに、セレナは軽く溜息を吐いた。
「トロールだけじゃないわ。ヒュドラやバジリスクみたいな化け物まで現れてる」
少しだけ顔をしかめ、綺麗な顔に皺が寄る。
「エルヴァシア森王国は、かなり混乱してるみたいね」
「……祖国が大変なのでしょう? それにしては、セレナは随分と落ち着いていますね」
セレナは苦笑した。
「エルフは精霊魔法が得意よ」
軽く腕を組む。
「森の中なら、やりようはいくらでもあるわ」
視線を外へ向け、気持ちトーンが下がった声で話を続ける。
「それに、私が手助けしても大して変わらない。あと、何人か知り合いにも会えたし、私の用事も終わったから満足よ」
そう言って、羊皮紙を差し出した。
「はい。国境線の状況」
指先で軽く叩く。
「ギルド本部に報告するんでしょ?」
ソルフィーユはそれを受け取る。
「ありがとうございます。助かりました」
小さく頭を下げた。
これがあれば、任務の大半は終わったも同然だった。
「それにしても、聖女様、エルヴァシア森王国で有名なんだんだけど、何かした?」
「え? これといって何も」
「聖女ソルフィーユ様は、世界樹の衛人の命の恩人だとか、そんな話よ」
過去に、エルフの奴隷とハイエルフの子供を助けたことがあるが、同一人物とも限らない。
「私はつい最近まで大聖都ミレニアから出たことがなかったので、誰かの勘違いかと」
「それもそうよね。――それじゃ、私は仲間と合流するから後は宜しくね」
セレナはそう言うと、颯爽と馬車から飛びて行った。




