トロールの渓谷 四つ目の悪魔
渓谷の底を見下ろす、その瞳を目にした瞬間だった。
空気が、押し潰されたように重くなる。
肺に流れ込むはずの風は鈍く喉の奥で絡みつき、息を吸っているのに吸えていない。
やがて、渓谷を覆う森から色が抜け落ちた。
草は一斉に萎れ葉は黒く縮む。
木々は軋みを上げながら、急速に枯れ朽ちていく。
生命そのものが、吸い取られているかのようだった。
必死に逃げ戻ってきたトロールたちも例外ではない。
巨体が次々と崩れ落ちる。
まるで糸を断たれた操り人形のように、ばたばたと地面に伏せた。
そして、すでに息絶えていたはずの死骸が、不意に蠢き始める。
トロールたちの肉が脈動する。
骨も、皮も、肉も。
区別なく溶け合い、絡み合う。
どろりと崩れたそれらは、ゆっくりと地面へ広がっていくと、渓谷そのものと同化していく。
血肉が大地に染み込み、脈打つように膨れ上がる。
渓谷の下の流れる川は赤黒く染まり、まるで血が上流から流れるようで、また生きているかのように流れが不規則だ。
そして渓谷は、次第に形を変えていく。
生き物の内臓のように蠢く、不気味な空間へと。
ソルフィーユとリュミエルは、息を呑みながら武器を構える。
その時だった。
上空の巨大な瞳から、ひとしずくの黒い涙が落ちた。
ぼとり。
重たい音を立て、肉と化した地面へ落下する。
黒い液体は弾けるように広がり、ミルククラウンの形でぴたりと静止した。
そして、その黒い縁から細い腕が一本、ぬるりと伸びる。
指先は黒く染まり、空を掴むように天を仰ぐ。
まるで、何かが這い出ようとしているかのように。
「……こ、これはいったい?」
リュミエルの声は小さい。
だが、はっきりと震えていた。
ソルフィーユも、目を逸らせない。
「……トロールなんか、比べ物にならない魔物が出てきそうですね……」
言葉にした瞬間、その予感は形を取る。
黒い液体の中から、ゆっくりと上半身が現れた。
肩、胸、そして、頭。
それは人の形をしていた。
だが、決して人間ではないのは明白だった。
顔には四つの目。
それぞれの瞳が落ち着きなく別々の方向を睨み、絶えず忙しなく動いている。
黒く美しい長い髪。
滑らかな肌と、豊満な肢体。
体のラインが強調される黒いドレス。
背には、黒い羽が四枚。
さらに、尾てい骨の先からは、鱗に覆われた長い尾が伸びており、それは、美と禍々しさが奇妙に溶け合った存在だった。
その姿を見たリュミエルが、掠れた声で呟く。
「悪魔……? 悪魔が地上に再降臨したの……?」
悪魔。
聖典に記される禁忌の名。
かつて聖王国ディオールに現れ、国を揺るがす災厄をもたらした存在。
聖女に率いられた大勢の聖騎士が、命と引き換えに討ち果たしたと伝えられている。
その悪魔が――今、目の前に立っていた。
「二つ目の門が開き、霊体化できたと思えば……」
艶を帯びた声が、肉に覆われた空間へ静かに落ちる。
「これは、なかなか興味深い」
得体の知れない存在。
もし、目の前のそれが本当に悪魔ならば、無策で踏み込めば確実に命を奪われる。
「この時代の聖女は二人もいるかしら?」
ソルフィーユとリュミエルは、互いに視線を交わした。
そして同時に理解する。
今は、動くべきではない。
二人はあえて動かないという選択を取った。
「無視されるのは、悲しいわ」
悪魔はゆっくりと掌をこちらへ向けた。
その瞬間。
ソルフィーユの体が、見えない力に引き寄せられる。
「うっ!」
「ソルフィーユ様!?」
足が地面から離れ、一瞬で喉元を掴まれる。
悪魔の鋭い指が首を締め上げた。
咄嗟にナイフを振るう。
狙いは腕。
そのまま切り落とすつもりだった。
だが――刃は皮膚の上で止まった。
一ミリほど食い込んだだけで、それ以上進まない。
「随分と好戦的な聖女ね?」
悪魔は、くすりと笑う。
「聖女たるもの、常に淑女であれって教わらなかったかしら?」
言葉と同時に乱暴に腕を振られる。
細い体のどこにそんな力があるか、ソルフィーユの体が投げ飛ばされた。
地面を滑るように転がり、受け身を取って着地する。
首元を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。
もし本気で殺すつもりなら――
さっきの一瞬で、首の骨を折れていたはずだ。
それに、悪魔ははっきりと言った。
聖女と。
つまり、こちらの正体を理解している。
おそらく、ソルフィーユとリュミエルの内にある神力を、見抜いているのだ。
「貴女は、何者ですか?」
ソルフィーユの問いに、悪魔は小さく首を傾げた。
「何者?」
その言葉を舌の上で転がすように繰り返す。
「そうね……考えたこともなかったわ」
顎に人差し指を当て、思案する仕草を見せる。
その挙動はあまりにも自然で、人間とほとんど変わらない。
だからこそ、彼女は不気味だった。
「そうね」
やがて悪魔は、ふっと微笑む。
「『堕ちた者』」
指先をひとつ立てる。
「あるいは『理の外』」
もうひとつ。
「……それとも『神』や『悪魔』かしら」
四つの瞳が、それぞれ違う角度から二人を見下ろす。
「結局のところ」
四つの目が怪しく光る。
「人間から見れば、人知を超えた存在は――」
ゆっくりと言葉を綴る。
「全部、そのあたりの言葉に収まるのよ」
仮に目の前に存在を『悪魔』と仮定しよう。
悪魔が語る言葉一つひとつ、理解ができないが説得力がありすぎる。
この現象を引き起こし、触れられない存在。
もし、女神レイディアが存在していれば、このような圧倒的な存在なのだろう。
ここので、ソルフィーユは女神について質問することにした。
「一つ、質問をよろしいですか?」
ソルフィーユの凛とした声が響く。
「時間が無いけど……一つだけならいいわよ」
「貴女と、女神レイディアとは――どんな関係なのですか?」
その瞬間だった。
「プッ……」
悪魔の肩が震える。
「うふふ……あははは」
やがて堪えきれないように笑い出した。
ソルフィーユの問いが、よほど可笑しかったらしい。
「女神レイディア……そう、女神レイディア」
悪魔は笑いながら呟く。
「すっかり忘れていたわ」
四つの瞳が、ゆっくりとソルフィーユを見下ろす。
「そうね。聖女って、レイディアと密接な関係だったものね」
その背で、四枚の翼が静かに広がり、黒い羽が空気を裂く。
その表面は星屑のように輝き、満天の夜空のような光を放っていた。
禍々しいのに、目を奪われるほど美しい。
「私とレイディア?」
悪魔はくすりと笑う。
「昔は繋がっていたわ」
細い指をソルフィーユへ向ける。
「貴女みたいにね」
その言葉に、ソルフィーユの目が鋭く細まった。
「でも――」
悪魔の声がソルフィーユたちの鼓膜に響く。
「『真なる聖女』である貴女は、ここで終わり」
「真なる聖女!? 何を知っている!」
思わず踏み出すソルフィーユ。
だが、悪魔は指を一本立てた。
「質問は終わり」
にやりと笑う。
「時間切れよ」
ぱちん、と悪魔が指を鳴らす。
その瞬間、渓谷を覆っていた肉の壁がゆっくりと蠢いた。
ぐにり、と音を立てながら内側へ迫ってくる。
逃げ場を削るように、空間が狭まっていく。
「真なる聖女の体――」
悪魔の四つの瞳が愉しげに細まる。
「私が貰うわ」
唇が、ゆっくりと弧を描いた。
「『門』を新たに開くのは――私よ」
誘うような悪魔の声が聞こえる。
「ソルフィーユ様! ここは危険です!」
リュミエルが叫ぶ。
「しかし、逃げ道がありません……」
渓谷の肉壁は、じりじりと迫っていた。
音を立てながら蠢き、二人を包み込もうとする。
悪魔の四つの瞳が、楽しげに細められる。
逃げ場はない。
このままでは、ソルフィーユの体が奪われる。
万事休す。
そう思われた、その瞬間だった。
――バキィッ!!
肉壁に、大きな亀裂が走る。
次の瞬間、外側から爆炎と共に何かが突き破ってきた。




