トロールの渓谷 死の嵐
トロールたちの王――大型トロールが、腹の底から咆哮を放った。
その瞬間、群れが動く。
雪崩のように、トロールの波が押し寄せた。
足元には無数の死骸が転がっている。
血と臓物に濡れた地面は滑りやすく、巨体の足が次々と取られる。
もし転べば終わりだ。
後続のトロールたちに踏み潰され、骨ごと砕かれる。
それでも、群れは止まらない。
目の前の二人の人間を、一刻も早く殺さなければならない。
そんな焦燥が、群れ全体に広がっていた。
「トロールたちの動きが、直線的になってきましたね」
ソルフィーユは淡々と言いながら、迫るトロールの懐に入り、急所へ刃を走らせる。
喉、腋、眼窩。
確実に命を断つ場所だけを狙う。
大型トロールの咆哮は、恐怖による支配だ。
群れを無理やり前へ押し出している。
おかげで動きは単純になった。
倒すだけなら、むしろ楽だ。
だが――死を恐れず突っ込んでくる巨体の群れは、それでもなお脅威だった。
リュミエルのいる方向から、大技が放たれるのが見えた。
真っ直ぐに伸びた剣技の衝撃波が、大型トロールへと走る。
次の瞬間、爆音。
巻き込まれたトロールたちが左右へ吹き飛び、巨体が宙を舞った。
ばらばらになった肉塊が空から降り注ぐ。
その下を、ソルフィーユは縫うように駆け抜け、転がるトロールの死骸を踏み台に、一気に跳躍した。
落下するトロールの影から――ぬるりと、音もなくソルフィーユが現れる。
そのまま大型トロールの懐へ潜り込み、ナイフを胸に突き立てた。
「ギャゥゥゥッ!」
「浅かった?」
刃は確かに肉を裂いた。
だが、手応えが足りない。
ナイフの刀身が短く、心臓まで届かなかったようだ。
激昂した大型トロールが拳を振り回す。
巨岩のような拳が唸りを上げて迫るが、軌道は大振りだ。
ソルフィーユは身をひねり、容易くそれを躱す。
「流石に図体がでかいとタフですね」
軽口を叩きながら、刃を走らせる。
腕、脇腹、腿。
だが――思ったより刃が通らない。
肉を断っている感触が鈍い。
ソルフィーユはすぐに理由を悟った。
「……身体強化ですか」
魔力を扱うのは、なにも人間だけではない。
魔物もまた魔法を使う。
身体強化も、その例外ではない。
自然界に生きる魔物の中には、環境に適応するため、身体の一部だけを強化している個体も珍しくない。
だが、目の前の大型トロールは違う。
全身だ。
筋肉、骨格、皮膚。
そのすべてを魔力で底上げしている。
その結果、攻撃力、防御力、瞬発力のすべてが、通常のトロールとは別物になっていた。
「魔力制御は粗いですね」
ソルフィーユは冷静に観察する。
「無駄が多い……とはいえ」
これほどの強化を維持できる理由は一つしかない。
「総魔力量が多いせいで、ポテンシャルが高い」
荒削りな魔力操作でも、力で押し切れてしまう。
厄介な相手だ。
リュミエルのように『技』があれば話は早い。
だが、生憎とソルフィーユは大技を持たない。
使えるのは神力による『奇跡』だけだ。
もっとも――気の利いた攻撃用の奇跡など、私の知識にはない。
一般に知られている攻撃の奇跡といえば、三大奇跡の一つ『神の炎』くらいのものだ。
だが、それも簡単には使えない。
発動には複数の条件があり、準備も必要。
即座に発動できる代物ではなかった。
「地道に切り刻んで、体力を削るのが定石ですが……」
ソルフィーユは大型トロールとの距離を測る。
少し離れれば、周囲からトロールが雪崩れ込んでくる。
群れが壁となり、動線がすぐに塞がれる。
そして、その瞬間を狙うように、大型トロールの拳が振り下ろされる。
味方などお構いなしだ。
巨体の拳がトロールごと叩き潰し、肉片が飛び散る。
しまいには、掴んだトロールをそのまま投げつけてきた。
即席の投擲武器だ。
ソルフィーユはそれを躱しながら、小さく息を吐く。
「……どうやら」
視線を大型トロールへ向ける。
「私とは、相性が悪いようです」
決定打となる一手が見つからない。
ソルフィーユが大型トロールの動きを見極めながら立ち回っていると――
「ソルフィーユ様!」
少し離れた場所から、声が飛んできた。
「リュミエル?」
視線だけを向ける。
トロールの群れの向こうで、リュミエルがこちらを見ていた。
「大型トロールの動きを止められますか!」
短い問い。
だが、それだけで十分だった。
何か策があるのだろう。
「わかりました!」
ソルフィーユは即座に答える。
「私が、動きを止めてみます!」
返事と同時に、足を踏み出した。
再び、大型トロールへ向かって駆ける。
大型トロールの巨大な手が迫る。
掌が閉じ、ソルフィーユを鷲掴みにしようとした。
だが――
刃が閃く。
人差し指と中指を、一瞬で断ち切った。
開いた隙間へ体を滑り込ませる。
そのまま腕を駆け上がった。
巨体の腕を伝い、一気に顔面へ迫る。
「はあぁぁぁぁ!」
ナイフが閃き、左右の眼を同時に切り裂く。
「ギャウウウウウウ!!」
絶叫。
視界を奪われた大型トロールが、その場で暴れ狂う。
腕を振り回し、足を踏み鳴らす。
「リュミエル!」
「はい!」
リュミエルが剣を上段に構えた。
刃に魔力が集中する。
圧縮された魔力が刃となり、剣身から伸びていく。
「破ッ!」
振り下ろされた一閃。
伸びた魔力剣が、大型トロールを袈裟斬りに断った。
「ア゙ァァァァッ!!」
だが、大型トロールはまだ生きていた。
ソルフィーユは、リュミエルが切り裂いた胸の傷口へ跳び込む。
空中で体を捻り、ナイフを一本、投げ放った。
刃は吸い込まれるように飛び、露出した心臓へ深々と突き立つ。
手応えは確かだった。
だが。
裂けた肉が、ゆっくりと盛り上がる。
筋肉が蠢き、皮膚が寄り合い大きく開いた胸の傷が塞がり始めていた。
「再生?」
その瞬間。
ふと、視線が合う。
「――治ってる」
大型トロールの片目が、こちらを睨んでいた。
怒りの炎が、瞳の奥で揺らめく。
そして、巨大な拳が振り上げられた。
ソルフィーユの頭上へ、まっすぐ落ちてくる。
空中では、回避は不可能。
このままでは直撃する。
挽肉になる――死。
そう脳裏を過った。
だが、大型トロールの動きが唐突に止まった。
次いで、全身から血が噴き出す。
「ウババ……ギャ……ギャ……」
巨体が痙攣し、膝を折り、腹が溶け、腐った臓物が地面に零れ落ちる。
その光景を見て、ソルフィーユはゆっくりと深く息を吐いた。
「効かなかったらどうしようかと思いましたが……」
小さく肩をすくめる。
「取ってきて正解でしたね」
ナイフの刃の根本には、一本の黒い毛が結びつけられていた。
それは毛玉トロールから回収していた――毒毛だ。
鎧トロール、毛玉トロール、そしてトロールの王――大型トロール。
三体が倒れた瞬間だった。
それまで死に物狂いで襲いかかってきたトロールたちが、ぴたりと動きを止めた。
渓谷に、不気味な静寂が落ちる。
正確な数は分からない。
だが、周囲にはまだ数百匹のトロールが残っている。
しかし、恐怖による支配から解放されたのだろう。
群れは統率を失い、次第にばらばらに散り始めた。
「ソルフィーユ様。トロールたちが逃げて行きます。このままでは周辺に被害が広がる可能性が」
リュミエルが険しい顔で言う。
「……ですが、この数を私たちだけでどうにかできるとも思えません」
ソルフィーユは周囲を見渡す。
生き残っている冒険者の姿は見当たらない。
「地上に向かった月下の牙が、ギルド職員へ応援要請を済ませていれば――」
言いかけた、その時だった。
渓谷の景色が唐突に変わる。
ここは日が届きにくい場所だ。
それなのに、辺りが急に鮮明に見える。
まるで、上空から強い光が差し込んだように。
そして、散り散りになっていたトロールたちが、一斉に引き返してくる。
「……様子がおかしいです。リュミエル、警戒を」
「はい!」
互いに疲労は隠せないが、二人は構えを崩さない。
「あ、あれは……」
リュミエルが空を指さす。
「とてつもなく……大きな目?」
ソルフィーユも顔を上げる。
渓谷の裂け目の向こう。
空が、黒く染まっていた。
そして――
巨大な瞳が、ぎろりとこちらを見下ろしていた。




