トロールの渓谷 渓谷の獣鬼
「リュミエル」
「はい」
ソルフィーユは静かに呼びかける。
「どうやら……私も戦わないと、この状況は切り抜けられないようですね」
腰に差していた二本のナイフを抜き取る。
刃がわずかに光を返した。
リュミエルも盾の留め具を確かめ、剣を握り直す。
すぐに動ける態勢だ。
「トロールはただの獣ではありませんね」
ソルフィーユは周囲を見渡しながら言う。
「少なくとも、人間に近い知能があります」
実際、トロールたちは武器を扱っている。
防具のようなものを身につけている個体もいる。
もし――
単発的にトロールを配置し、ここまで誘導していたのだとすれば。
私たちは、まんまと罠に誘い込まれたことになる。
そして、この空気。
森に入った時から感じていた、あの不快な感覚。
普通の人間の感覚を鈍らせ、判断力を狂わせる。
それが、この渓谷で決定的に作用した。
――非常に危険な状況だ。
ソルフィーユはナイフを構えた。
刃の先には、まだ終わりの見えないトロールの群れが蠢いている。
「グルアアァ!」
咆哮が渓谷に轟いた。
次の瞬間、トロールの塊が爆散する。
肉片と血飛沫が宙に舞い、岩壁を赤く染めた。
その中心にガルドがいた。
しかし、彼は両膝をつき、俯いている。
灰色の毛並みは血で濡れ、赤黒く変色していた。
背後から、トロールがこん棒を振り上げる。
間に合わない。
誰もがそう思った、その瞬間――
弾丸のような小さな影が飛んだ。
ゴッ。
鋭い衝撃音。
影はトロールの側頭部に直撃し、巨体を大きくよろめかせた。
「ふう……」
静かな声。
「ガルド、正気に戻ってください」
影の正体はソルフィーユだった。
他の月下の牙が驚く中、構わずソルフィーユはすぐさまガルドへ手をかざす。
――『治癒』
神力の光がガルドを包む。
ガルドは目を瞬かせ、周囲を見回した。
「あ、あれ? 俺……なんでこんなに汚れてるんだ?」
「説明は後です」
ソルフィーユは短く答える。
「状況が、かなり悪いので」
困惑するガルドの横で、ソルフィーユは周囲を見渡した。
渓谷の入口。
さっきまで降りてきた場所は、すでにトロールの群れで埋め尽くされている。
松明の光も、冒険者の姿ももう見えない。
おそらく、生き残っているのは、ここにいる者たちだけだ。
「どうする。ワシらだけで、あの数を殺れるとは思えんぞ」
「川に飛び込む手もあるけど」
セレナが渓谷の底を流れる水を見た。
川の流れは早く、岩も水面から覗かせており、飛び込むにしても岩に体を打ちつける可能性が高い。
「精霊の補助が効かない。サポートできても一人が限界よ」
精霊魔法は、この森ではほとんど機能しない。
数は圧倒的に不利。
逃げ道も、ほぼ塞がれている。
残された選択肢は二つ。
力で押し切るか。
――背後の川へ飛び込むか。
ソルフィーユは素早く周囲を見渡した。
少しでも時間を稼げる場所。
この包囲から抜け出すための、わずかな隙。
その時――
川の向こう側に、岩場が見えた。
流れの上に突き出した岩が連なり、かろうじて渡れそうな足場になっている。
「皆さん」
ソルフィーユが短く声をかける。
「あの岩場を渡りましょう。川の向こうへ移動し、脱出ルートを探します」
トロールたちも渡れないわけではない。
だが、巨体の連中が全て渡りきるには時間がかかる。
「最悪、渡ってきた個体を迎え撃つことも可能です」
ソルフィーユは冷静に続けた。
「ですが、この数を正面から相手にするのは現実的ではありません」
判断は一瞬だった。
月下の牙の面々も、それを理解している。
この状況で取れる手段は、ほとんど残されていない。
ソルフィーユの提案に、誰も異を唱えなかった。
――乗るしかない。
ほんの一瞬、判断が遅れれば。
ここで誰かの命が潰えてしまう。
そんな圧迫感が、渓谷の底に満ちている。
「殿は俺に任せろ!」
ガルドが大剣を振り上げた。
刃が唸り、迫ってきたトロールを薙ぎ払う。
その一振りに躊躇はない。
ガルドの一言で、行動は決まった。
ソルフィーユたちは走り出す。
川の流れを跨ぐように並ぶ岩を、次々と飛び移っていく。
一番に対岸へ到達したのはセレナだった。
「援護する!」
背中の矢を素早く抜き取り、弓に番える。
そして狙い、放つ。
鋭い矢が空気を裂き、リュミエルへ飛びかかろうとしていたトロールの側頭部へ突き刺さった。
巨体がよろめき、そのまま川へ転落する。
同時に、ソルフィーユへ伸びる不潔な槍。
だが刃の軌道はすでに読んでいた。
体をひねり、軽業師のように回避すると、そのまま踏み込んで、ナイフを一閃。
トロールの両目が裂け、絶叫が渓谷に響いた。
「ここから先は通さねぇぜ!」
ガルドが中腹で踏み止まり、迫るトロールを次々と切り落としていった。
数は多い。
だが足場も悪い。
巨体のトロールたちは一度に押し寄せることができず、後ろの群れに押されて川へ落ちる個体まで出ていた。
その隙に――
ライナーが渡る。
続いてバロック。
そして、ソルフィーユとリュミエルが最後の岩へ飛び移ろうとした、その瞬間。
頭上から何かが落ちてくる。
巨大な影だ。
二人は反射的に身を翻し、岩を蹴り、かろうじて着地する。
だが、そこは月下の牙が待っている対岸ではなかった。
月下の牙から大きく離れた、孤立した岩の上。
「……伏兵がいましたね」
ソルフィーユが低く呟く。
「ソルフィーユ様。あの大きなトロール……やる気ですね」
リュミエルが剣を構えた。
目の前のトロールは、他の個体より数倍大きい。
鼻を鳴らし、にやついた目でこちらを見下ろしている。
そこへ――
背後からガルドが突っ込んだ。
空を切り、轟音を靡かせ首筋を狙う必殺の一撃。
だが。
トロールはそれを読んでいのだ。
腕が振るわれ、ガルドの体が弾き飛ばされた。
ガルドは月下の牙の側へ、叩きつけられる。
完全に――分断された。
「ぐっ……! ソル! リュミ!」
ガルドが叫ぶ。
「私たちは大丈夫です!」
ソルフィーユが即座に返した。
「地上に残っている部隊へ援護を要請してください!」
「しかし――!」
「時間がありません!」
対岸には、上へ登れそうな細い道がある。
今もなお、続々と周囲の岩場から、トロールたちが次々と跳び移ってくる。
孤立した岩へ。
獲物を囲むように。
「神力には魔物避けの力もあります! さあ、早く!」
ソルフィーユの声が渓谷に響く。
「……絶対に持ち堪えろよ! 必ず援軍を呼ぶ!」
ライナーは歯を食いしばり、背後から迫るトロールを切り伏せながら、上へ続く道へと駆け出した。
ガルドとバロック、セレナも続く。
やがて彼らの背中は、岩壁の向こうへ消えていった。
「……彼らだけでも助かってもらわないといけませんね」
ソルフィーユは静かに呟く。
「ソルフィーユ様」
リュミエルが剣を構えたまま問いかけた。
「なぜ、あんな嘘を言ったのですか?」
「嘘ではありません」
ソルフィーユは肩をすくめる。
「やり方を知らないだけです」
神力には、癒し以外にも様々な奇跡がある。
魔物を退ける力。
圧倒的な破壊をもたらす奇跡。
そして、あらゆる攻撃を防ぐ結界。
ノワレ司書長からも、その存在は聞いていた。
だが――
肝心の使い方が、どこにも残っていない。
聖典や文献に記されているのは、治癒と「三大奇跡」と呼ばれるものだけ。
それ以外はほとんど失われている。
「それでも」
リュミエルが静かに言った。
「ここで死ぬ気はありませんよね?」
「もちろん」
ソルフィーユは微笑む。
「せっかくです。少し、ひと暴れしましょうか」
「はい」
リュミエルの声に迷いはなかった。
ソルフィーユは両手のナイフを回転させ構え、刃の先が大きなトロールへ向けられた。
周囲には、次々と岩を渡ってくるトロールたち。
逃げ場はない。
だからこそ――
「さあ」
ソルフィーユの瞳が静かに細められる。
「始めましょうか」




