トロールの渓谷 違和感
森を裂くように渓谷が現れた。
地面は突然途切れ、深い谷が口を開けている。
底は見えないほど暗く、下からは水が流れる音だけが響いていた。
「行方不明になった斥候の女性は……下へ降りたのでしょうか」
リュミエルが隣のソルフィーユへ問いかける。
谷底から吹き上げる風が、ソルフィーユの髪を大きく揺らした。
「わかりませんが、可能性はあります」
深い森の中では太陽の光も届かない。
まるで闇そのものが口を開け、こちらを誘い込んでいるようだった。
「それにしても……彼ら、大丈夫でしょうか」
先に降りていく冒険者たちの背を見ながら、リュミエルは眉をひそめる。
「大丈夫だって。あいつらもそれなりに動ける連中だ。リュミは心配性だな」
ガルドが軽く笑う。
「一人行方不明なのですよ? 皆さん、あまり気にしていません。慎重に動かないと、何か起きてからでは遅いかもしれないのに……」
「心配すんなよ。俺たちがいれば何とかなる」
「そうじゃ。ワシらの力は知っておろう?」
「所詮、おとぎ話に出てくる雑魚敵よ」
月下の牙の面々は、意気揚々と渓谷を下りていく。
だが、その目は、どこか異様にぎらつき、わずかな狂気が混じっている。
ソルフィーユはそれを見逃さなかった。
「リュミエルは……平気ですか?」
「ソルフィーユ様も何か感じているのですか?」
「ええ」
ソルフィーユは静かに答える。
「この不気味な森に足を踏み入れた瞬間から、体にまとわりつくような不快感があります。まるで、私たちの感覚を狂わせているような……」
リュミエルも頷き、胸に手を添える。
「私も同じです。器の中にある『神力』が……それに抵抗している感覚があります」
彼女救う為に私が背負った罪。
器に宿ってしまった『神力』はリュミエルとって力にもなるし枷にもなる。
今回は抵抗だけで済んではいるが『消費』してしまうと何が起きるかわからない。
――リュミエルは神力を使ってはいけないのだ。
見えない何かが、森の奥から滲み出している。
それはゆっくりと、確実に――人の心を侵していた。
――渓谷とは名ばかりだった。
大地が裂け、その亀裂の底を川が流れているだけの、険しい地形だ。
両側の岩壁はごつごつと張り出し、足元の岩は水で濡れて滑りやすい。
人が滅多に足を踏み入れない場所――魔物が巣を作るには、これ以上ない環境だった。
「先行していた冒険者たちが戦闘を始めたようですね」
リュミエルが崖下を見ながら言う。
渓谷の奥で、松明の灯りが忙しなく揺れていた。
その光に照らされ、トロールの巨体が岩壁に影を映す。
歪んだ影は何倍にも膨れ上がり、まるで巨大な怪物が蠢いているかのようだった。
ソルフィーユたちも谷底へ降り立つと、すぐ足元には数匹のトロールの死骸が転がっていた。
胸元にはぽっかりと穴が開き、魔石を抜き取られた跡が残っている。
「おいおい、獲物を先に取られちまう」
ライナーが舌打ちする。
「そうじゃ。儂らの取り分が減ってしまうぞい」
バロックも不満げに鼻を鳴らした。
二人の視線は、奥から聞こえてくる戦闘音へ向けられている。
早く合流したい。
その焦りが、隠しきれずに滲んでいた。
そのとき。
「待って……何か聞こえる」
セレナが急に足を止めた。
「……なんか近くにいるな」
ガルドも同じ方向へ視線を向ける。
二人は周囲をゆっくり見渡した。
渓谷の暗闇の奥で――
何者かの吐息が聞こえた。
「……」
かすかに、弱々しい声。
幻聴か。
風か。
それとも、谷底を流れる水の音か。
すべてが混ざり合う中で、確かに声だけが残っていた。
「……けて……」
誰かが助けを求めている。
「……人の声だ」
ライナーが小さな声で呟いた。
先行していた冒険者たちが進んだ方向とは、逆側。
そちらへ足を向けると、人の気配と――魔物の気配が交じっている。
ライナーは岩陰へ身を寄せ、慎重に覗き込んだ。
そして、松明をわずかに掲げる。
その光が、闇を切り裂いた。
見えたのは、地面に横たわる裸の女性。
そして、その頭上に振り上げられた石斧が、振り下ろされる瞬間だった。
「――ぎゃ」
鈍い破砕音。
水っぽい音。
何か柔らかいものが潰れる、生々しい感触が耳に残る。
次の瞬間。
石斧を握ったトロールが、ゆっくりとこちらへ振り向いた。
口の端が裂けるように歪む。
――笑っている。
「ギャッギャッギャッ!」
「この糞トロールめ!」
ライナーが岩陰から飛び出した。
間合いを詰めると、握っていた松明をトロールの口へ力任せに押し込と、炎が顔面に燃え移った。
「ギャアァアァ!」
焼けただれた皮膚の臭いが広がる。
トロールは苦悶の声を上げ、暴れ回った。
「死ね! トロール!」
ライナーの剣が閃く。
鋭い刃が、そのまま喉元へ突き刺さった。
暴れる巨体。
だが、ライナーは剣を深く押し込み、さらに捻る。
ゴリッ――
鈍く嫌な音が喉の奥から響くと、トロールの体が大きく痙攣し、やがて崩れ落ちる。
そして、完全に動かなくなった。
「ちっ……行方不明の斥候か?」
ライナーが地面に倒れている女へ視線を向ける。
松明に照らされていた岩壁が――ゆっくりと動いた。
「おい、ライナー」
ガルドの焦りが混ざった声が響く。
「そこから離れるのじゃ」
バロックも一歩後ろへ下がった。
ライナーが顔を上げる。
松明の光に照らされた壁。
そこに――
無数の目が並んでいた。
闇の中で、ぎらりと光りこちらをじっと見ていたのだ。
「走って、ライナー!」
ソルフィーユの声が鋭く響く。
「ソルフィーユ様! 後退します!」
リュミエルが即座に叫んだ。
ボロボロと岩壁が崩れ落ちる。
いや――違う。
壁に擬態していたトロールたちが、一斉に動き出したのだ。
岩肌と見分けがつかないほど体を押し付け、息を潜めていた巨体が、次々と剥がれ落ちる。
「ギャッギャッギャッ!」
渓谷の闇が動く。
十数体どころではない。
数えきれないトロールが、上から雪崩のように飛びかかってきた。
「くそっ……何で気づかなかった!」
ライナーは歯を食いしばる。
盾を振り抜き、トロールの顔面を殴りつけた。
鈍い衝撃音と共に巨体がよろめく。
だが、ライナーの表情は苦く歪んでいた。
これは明らかに、自分の判断ミスだった。
「森に入ってから空気がおかしいわ」
セレナが矢を番える。
弓弦が鳴り、矢が放たれる。
次の瞬間、迫ってきたトロールの眉間に深々と突き刺さった。
「精霊もいないし、感覚が狂わされてたのかも!」
矢が連続して放たれる。
次々とトロールの顔面へ吸い込まれていった。
「土の精霊が反応せん! 大きな精霊魔法は使えんぞ!」
バロックが戦鎚を振り回す。
轟音とともに数体のトロールがまとめて吹き飛んだ。
だが、その顔にははっきりと焦りが浮かんでいる。
状況は明らかに悪い。
その混乱の中――
一人だけ、逆に突き進んでいく影があった。
「オラァァァ!」
ガルドだった。
「皆殺しだァ!」
片刃の大剣を棒切れのように振り回す。
振るたびに、トロールの体が砕け散る。
骨が砕け、内臓が飛び散り、肉片が宙を舞った。
まるで暴風だ。
「ガルド! 先行し過ぎだ! 戻れ!」
ライナーが叫ぶが、届かない。
いや――聞こえていない。
ガルドはそのままトロールの群れへ突っ込み、巨体の波に飲み込まれていく。
その目は――
すでに正気ではなかった。
だが他の仲間たちは違う。
この異常な状況の中で、ようやく冷静さを取り戻し始めていた。
先ほどまで漂っていた奇妙な高揚感は、もうない。
ガルドの退路を確保するため、全員が動こうとした、その瞬間、背後から悲鳴が上がった。
ソルフィーユとリュミエルが振り返る。
そこに広がっていたのは、トロールの大群に飲み込まれ、次々と倒れていく冒険者たちの姿だった。




