トロールの森 探索
――獣鬼トロール。
おとぎ話では、人の姿をした魔物として語られる存在だ。
夜更かしをする子供を攫いに来る怪物として知られ、この大陸では誰もが一度は聞かされる話らしい。
「ガキの頃は、お袋に散々脅されたっけな」
ガルドが犬歯を見せながら笑う。
「ワシも鼻水垂らしとった頃、親父によう言われたもんじゃ。さっさと寝んとトロールが来るぞっての。ま、今思えば夜の酒席に子供は邪魔だっただけかもしれんの」
バロックも肩を揺らして笑った。
二人の昔話を聞き流しながら、ソルフィーユたちは森の奥へと進む。
光はほとんど届かない。
地面は湿り、空気は重く、まとわりつくような湿気が肌に張りつく。
奇妙なことに、鳥の声も虫の羽音も聞こえない。
森が、沈黙している。
その時だった。
「――魔物だ!」
先行していた冒険者の叫び声が響いた。
隊列は崩さないまま、慎重に前へ進む。
やがて視界に入ったのは地面に血を流し、絶命している魔物の姿だった。
「……初めて見たが、これがトロールか」
誰かが低く呟く。
トロールの死骸からは、まだ新しい血が地面へ染み込んでいた。
唇はなく、むき出しの歯は乱雑で黄ばんでいる。
体は異様に大きく、鍛え上げられた人の腕よりさらに太い腕を持っていた。
その側には、粗末なこん棒が転がっている。
どうやら原始的な武器を扱う魔物らしい。
「接敵した際の対応と、トロールについて分かったことを共有してほしい」
ライナーが、トロールを倒したと思われる冒険者たちへ声をかける。
グループの中から、一人の男が前へ出た。
「トロールは察知能力が低いらしい。俺たちがかなり近づくまで、存在に気づいていなかった」
男は足元の死骸を顎で示す。
「だが戦闘になると厄介だ。動きは意外と速いし、力も強い。感覚としては――ゴブリンチャンピオンと同じくらいだな」
「リュミエル。ゴブリンチャンピオンとは、どのような魔物ですか?」
ソルフィーユが小声で尋ねる。
「ゴブリンの亜種です。戦闘に特化した個体で、体格は成人男性ほどあります」
リュミエルは簡潔に説明する。
「さらに身体強化を使うため、通常のゴブリンとは比べものにならないほど危険な相手です」
ソルフィーユは死骸へ視線を落とす。
もし、このトロールがゴブリンチャンピオンと同程度の戦闘力を持つのなら――。
数が揃えば、それだけで十分な脅威になる。
情報は即座に周囲の冒険者たちへ伝えられた。
それに合わせて、隊列もわずかに組み替えられていく。
「ソルフィーユ様。斥候がさらに前へ出るようです」
リュミエルが小声で告げる。
視線の先では、軽装備の冒険者や小柄な獣人たちが、森の奥へ音もなく入り込んでいた。
先に敵を見つけ、各個撃破で被害を抑えるつもりなのだろう。
「まだ始まったばかりですが、時間がかかりそうですね」
リュミエルは斥候たちの背を見送りながら、探索速度を気にしている様子だった。
「ええ。この緊張を、どこまで維持できるかが鍵ですね」
ソルフィーユは森の奥を見つめたまま答える。
その後、斥候がトロールを発見するたび、小規模な戦闘が起きる。
数匹のトロールが、静かに処理されていった。
月下の牙も同様だった。
発見したトロールを慎重に仕留め、ライナーが深く息を吐く。
「結構時間がかかってるな。まだ一キロも進んでない」
「そうね。固まってても三匹くらいだし、聞いてた話より楽勝じゃない?」
セレナが肩を回しながら言う。
「だな。思ったより強くねぇ。欠伸が出るぜ」
ガルドも鼻で笑った。
「酒でも持ってくれば良かったわい」
バロックがぼやく。
――緊張が、わずかに緩み始めていた。
月下の牙の面々にも、戦い慣れた者特有の油断が、少しずつ顔を出し始めていた。
▽
「この先、血の匂いがする。トロールも数匹いるわ」
斥候の一人が低く告げた。
森の奥に、渓谷が口を開けている。
光の届かない暗い底から、わずかな血の臭いと、トロール特有の腐臭が漂っていた。
鋭い嗅覚を持つ彼女の鼻腔を、その異臭が強く刺激する。
「……下の様子を見てからでも遅くないわね」
谷底へ続く細い道を見つけると、斥候は息を殺して降り始めた。
自然に削れた岩の段。
足場は不安定で、踏み外せばそのまま谷底へ叩きつけられる。
一歩。
また一歩。
足元を確かめながら、慎重に進む。
やがて、谷底へ降り立った。
その瞬間、奥の闇から悲鳴が響く。
「……人?」
斥候は音の方向へと足を向ける。
岩陰からそっと覗き込むと、そこにいたのは複数のトロール。
そして、地面に倒れた一人の人間の女性だった。
「――嫌……誰か……助けて……」
「グルルル」
「ギャッ、ギャッギャッ!」
喉を震わせる不気味な声。
トロールたちは女を取り囲み、玩具のように弄んでいた。
人の苦痛を楽しむかのように。
その光景は、あまりにもおぞましい。
まるで、人間が弱者に対して行う残酷な行為を、そのままなぞっているかのようだった。
助け出さなければ。
斥候の女は、迷いなくショートソードを抜いた。
岩陰から飛び出そうとした――その瞬間。
背後で、石を踏む音がした。
嫌な予感が背筋を走る。
振り向いた時には、もう遅かった。
トロールが、こん棒を振り上げていた。
視線が合う。
濁った瞳。
そこに浮かんでいたのは、明確な――蔑みだった。
ゴッ。
鈍い衝撃が頭蓋に叩き込まれると、彼女の視界が白く弾けた。
意識が飛び、ショートソードが手から離れ、甲高い音を立てて地面に転がる。
体の力が抜け、冷たい地面に崩れ落ちる。
音を聞きつけたのか、奥にいたトロールたちがゆっくりと集まってきた。
「ギャッ、ギャッ!」
意識が朦朧とする中、トロールたちが笑っている。
そんな声に思えた。
太く汚れた指が、彼女の装備に伸びる。
革紐が引きちぎられ、鎧の留め具が乱暴に外されていく。
トロールの唾液が皮膚の上に垂れると、生温い温度が伝わってきて、鳥肌が立つ。
そして、股下に潜り込むトロールの体温を感じる。
頭を強く打ったせいで、意識は霞んでいる。
視界は揺れ、音も遠い。
それでも――理解できた。
自分が、今なにをされているのか。
ほんの数分前。
岩陰から見たあの光景。
あの女が受けていた仕打ち。
次は、自分だ。
そう悟った瞬間。
谷底の闇が、底なしの穴のように広がっていくのを感じた。
▽
斥候の女が姿を消してから、すでに一刻ほどが過ぎていた。
戻るはずの時間を過ぎても報告はない。
ようやく異変に気づいた冒険者の一人が、慌ててギルド職員のもとへ駆け込んできた。
状況から考えれば、接敵し、そのまま退却できなくなった可能性が高い。
「この先に渓谷がある」
ギルド職員は、周囲の冒険者たちを数名集めて説明を始めた。
「トロールたちは、そこに巣を作っている可能性がある」
集められた中には、ライナーの姿もあった。
「斥候に出た冒険者が、まだ生きている可能性もある。渓谷に到達次第、トロールを駆逐する」
その言葉に、冒険者たちの間から歓声が上がる。
ここまでの討伐は、正直なところ拍子抜けだった。
小規模な戦闘ばかりで、稼ぎも少ない。
緊張よりも退屈が勝ち始めていた。
「なんだ、最初から巣を叩けば良かったじゃねぇか」
「俺たちのパーティーだけでも楽勝だったんじゃないか?」
そんな声も聞こえる。
ギルド職員自身も、どこか気が緩んでいたのかもしれない。
「各パーティーの判断で行動してくれ」
その一言が出た瞬間、冒険者たちは隊列を崩し始めた。
渓谷の方向へと、次々に歩き出していく。
警戒も、陣形も、すでに形だけになっていた。
まるで――
待ち受けるものを、誰も想像していないかのように。




