トロールの森 前夜
急に立ち上がったのはリュミエルだった。
「ニャ?」
ナナイが首を傾げる。
どうしたのか、と不思議そうな眼差しだ。
しかしリュミエルの胸は、ざわつきを抑えきれずにいた。
「ナナイ、それは過去の話でしょう? リュミエルも落ち着いて」
ソルフィーユが柔らかい声色で声をかける。
「しかし……」
言葉を飲み込むリュミエル。
ソルフィーユにも思うところはある。
タイガー商会の件。
その頂点には、タイガー=ブラッドファングの存在があった。
事情がどうであれ、ガルドは今、月下の牙の一員としてグランデル商会を守っていたのだ。
「俺はガルドが元傭兵だったことを知ったうえで、月下の牙に勧誘した」
ライナーが焚き火に薪をくべながら言う。
赤い炎がゆらゆらと彼の顔を照らした。
「過去なんて気にしない」
その声には迷いがない。
「先の事件で獣王傭兵団は聖王国から指名手配されておる。猫娘、お主は今も獣王傭兵団に所属しておるのか?」
バロックが酒を片手に問いかける。
薪が弾ける音に混じって、その声がナナイへ届く。
「いんにゃ。アタイの部隊は全滅。敗走して、そのまま逃げたニャ」
ナナイは焚き火を眺めながら、あっさりと答えた。
「向こうはアタイを死んだと思ってるか、もう忘れてると思うニャ」
ソルフィーユはリュミエルへ視線を向け、静かに座るよう促す。
もしタイガーの差し金でないのなら、ここで無用に敵対心を煽る必要はない。
「タイガーは、今どこにいるか知っていますか?」
ソルフィーユが静かに問いかける。
「ボスに興味あるのかニャ? ボスなら、商業国家連合のどこかニャ」
ナナイは焚き火を見つめながら答えた。
「どうしてそう思うのですか?」
「傭兵団を増強してるニャ。もちろん、バックには商業国家連合の資金が流れてるニャ。だから――どこかと戦争するつもりかもニャ〜」
国崩。
タイガー=ブラッドファングが口にしていた言葉が、ソルフィーユの脳裏に蘇る。
彼は、本当に戦を始めようとしているのか。
いつ、どこで――。
「……東の亜人領の統一だろうよ」
ぼそりと呟いたのはガルドだった。
その一言に、焚き火を囲む全員の視線が集まる。
「商業国家連合は、資源と人材を集めている。亜人の力は戦で重宝されるし、土地は未開拓で宝の山だ」
ガルドは掌に拳を叩きつける。
「問題は、獣王傭兵団だ」
青い瞳が炎を映す。
「タイガーは、人に使われるのを嫌う男だ。誰かの下で動くような奴じゃねぇ。何か理由があって動いてるに違いない」
重い空気が焚き火の周囲を覆う。
誰も口を開かない。
――ただ一人を除いて。
「この串肉、いただきだニャ!」
「あ! それ、俺が焼いてた肉だ! 返せ!」
「んニャ〜、美味いニャ〜!」
「ブチ殺す!」
ガルドの大剣が振り下ろされる。
刃はナナイの鼻先をかすめた。
だが、ナナイは慌てる様子もない。
ただ数センチ後ろへ下がっただけで、その一撃を避けていた。
瞬きすらしていない。
近くで見ていたソルフィーユは、思わず目を細める。
――見切りが鋭い。
反射も、距離感も、異常なほど正確だ。
単なる身軽さではない。
戦闘の勘が研ぎ澄まされている。
「バカガルド! 竈が!」
次の瞬間。
焚き火兼用の竈が、ガルドの一撃で粉砕され、夕食は地面へと散らばる。
ほとんどは食べられなくなった。
だがソルフィーユは、空中に舞い上がった串肉を二本キャッチすると、その一本をリュミエルへ手渡した。
「死ね! ナナイ!」
「ニャはは〜。ガルドは相変わらず短気だニャ〜」
「てめぇみたいに呑気にしてたら、命がいくつあっても足りねぇ! あの時だって――」
ガルドの剣が竜巻のように振り回される中、ナナイは軽やかに避け続ける。
まるで舞っているかのようだった。
「仕方ない。ワシは馬車からつまみを取ってくるかの」
バロックが立ち上がる。
「俺は周りの冒険者に事情を説明してくる」
ライナーも腰を上げた。
「私は後片付けするわ」
セレナがため息をつきながら散らばった食器を拾い始める。
「セレナ」
ソルフィーユがセレナを呼び止める。
「なに?」
「もし、万が一、月下の牙に危険が及ぶようでしたら、私たちを置いて逃げてくださいね」
「何よ、縁起でもない」
「あくまで護衛は契約なので、失敗することもあります。ですが悔やまなくても大丈夫。次がありますから」
「本当にヤバかったら逃げるけど。でも、聖女様は死ぬ気なんてないでしょ?」
「ええ。勿論。切り札がありますか、最悪、私たちを置いて逃げてくださいね」
「期待に応えられるか分からないけどね」
セレナは後片付けをすると、その場から離れていく。
結果として――
騒ぎの中心だけが、その場に残された。
▽
翌朝。
トロールの目撃情報があった地点へ、討伐隊は到達した。
森の空気は重い。
奥から流れてくるのは、鼻を刺すような腐臭だった。
腐敗と血の混じった、不快な臭い。
森全体が、何かに侵されているような気配がある。
「各自、準備を整えろ。危険と判断した場合は、速やかに退避しろ。撤退先はキャンプ地だ」
ギルドから派遣された職員が、集まった冒険者たちへ声を張る。
誰も返事はしない。
だが、全員の目にはすでに戦いの火が宿っていた。
「ソルフィーユ様。戦闘は月下の牙に任せてください。私たちは情報収集に専念しましょう」
リュミエルが小声で告げる。
「はい。手筈通り、深追いはしません。状況を見て臨機応変に」
今回は戦闘を想定している。
ソルフィーユは静黒聖衣を着用していた。ただしマスクは付けていない。
リュミエルも灰黒色の軽鎧を身に着けているが、顔は隠していない。
周囲に聖女がいることを周知させる最低限の装備だ。
「……なんかおかしいわ」
準備が整ったところで、セレナがぽつりと呟いた。
「どうしました?」
ソルフィーユが隣に並ぶ。
「この辺り、精霊が全然いない」
セレナは眉を寄せ、周囲を見渡す。
そして軽く手を振ると風の精霊が呼び出され、森の中へと散っていく。
「精霊魔法は使えるのですか?」
「精霊結晶があるからね」
セレナの耳元で、緑色の宝石が埋め込まれたピアスが光る。
「これがあればしばらくは使える。でも長くは保たないし、大規模な精霊魔法は無理」
肩をすくめる。
「まあ、保険みたいなもんよ」
ソルフィーユは小さく頷いた。
この森の奥には――
精霊の声すら届かない場所がある。
「……あまり詳しくは探れなかったけど、この奥に十数匹いるわ。たぶん――トロール」
セレナの言葉に、その場の空気が一瞬で張り詰めた。
周囲の冒険者たちが息を呑む。
百年以上、まとまった目撃例のなかった魔物。
それが、すぐそこにいる。
トロールと戦った経験のある者など、ほとんどいない。
実戦の中で弱点を探り、手探りで数を減らすしかない。
ざわつき始める冒険者たち。
その横を、月下の牙の面々が前へ進み出た。
「俺たちはソルフィーユ様を守りながら行動する」
ライナーが低い声で告げる。
「今回の目的は、魔物災害――トロールの大量発生の調査だ。原因があるなら、それを突き止め、可能なら排除する」
昨夜の時とは違う。
全員の表情が引き締まっていた。
誰も言葉は発さない。
ただ静かに頷く。
「危険だと判断したら無理はしない。即座に後退する。他の冒険者たちと連携して討伐を進める。以上だ」
短い指示だったが、それで十分だった。
同じ頃、ギルド職員が冒険者たちへ号令をかける。
討伐隊は隊列を整え、順に森の奥へ踏み込んでいく。
異変の中心へ向かって。




