尾行
「……つけられていますね」
ソルフィーユがごく小さな声で告げる。
足音は複数。
間隔を保ち、一定の距離を崩さない。
首筋にチリチリとした気配を感じる。
「……ギルドからでしょうか」
リュミエルも気配を探る。
「目的は不明ですが――挨拶くらいはしておきましょう」
そのまま歩調を速める。
喧騒から離れ、路地を抜け、人目の少ない区画へ。
太陽は傾き、空気が冷え始めている。
白い息が、走るたびに揺れる。
やがて、崩れかけた石造りの建物が点在する一角へ辿り着いた。廃墟群。足場も悪く、視界も開けている。
「……この辺りでよいでしょう」
ソルフィーユが立ち止まる。
逃げ場はない。
隠れ場も限られる。
ならば、出てくるしかない。
静寂が、ゆっくりと周囲を包む。
崩れた石垣の陰から、一人の男が姿を現す。
顔は覆面で隠している。
だが、装備は実戦向き。剣の手入れも行き届いている。冒険者を装ってはいるが、動きは洗練されている。
「私たちにご用ですか?」
穏やかに問う。
「……お前、聖女だな?」
男の手が腰の剣の柄へ伸びる。
尾行し、正体を確認し、そして抜刀の構え。
疑う余地はない。
男からの敵意が明確に伝わってくる。
「私が聖女なら、どうなさるおつもりですか?」
声色は変えない。
「悪く思うなよ」
刹那。
男は剣を抜き放ち、地を蹴る。
石畳が砕け、脚力が爆発する。
その加速は鋭い。ガルドにも匹敵する速度。
だが――。
ソルフィーユは半歩前へ出る。
それだけで意図は伝わる。
リュミエルは即座に動きを止め、後方で構えを取った。
これは、自分の役目だと理解したのだ。
冷たい空気を裂き刃が迫る。
左手の中指に、静かに魔力を流し込む。
『静黒聖衣』
次の瞬間、漆黒が彼女を包んだ。
衣は闇のように揺らめき、気配を吸い込む。
シャドウアウルの羽根が織り込まれ、足音も呼吸も、存在そのものの輪郭さえ薄れていく。
迫る男の表情が凍りつく。
聖女の姿が消えた。
いや、変わった。
虹色に光を返していた銀髪は、深く濃い紫へと沈む。
目元は黒のマスクに隠れ、感情は読み取れない。
一瞬、男の脳裏を疑念がよぎる。
影武者か。
罠か。
釣られたのか。
だが、その思考はすぐに塗り潰される。
目の前の存在が放つ圧が、理屈を超えて警告を鳴らす。
これは獲物ではない。
――捕食者だ。
ソルフィーユは、ナイフを握る。
力を隠し、役割を抑え、聖女として振る舞う。
それは必要なことだが、身体は正直だった。
抑え続けた緊張が、今、解放される。
刃が閃く。
止まらない。
無駄のない軌道で、間断なく振るわれる。
「……あなた、暗殺者ですね?」
「!?」
男の動きがわずかに乱れる。
「隠さなくて結構です。足運び、間合いの詰め方、そして――」
視線が腰元へ落ちる。
「そのナイフ。『陰』が使うやつですね」
男の腰に差された刃。
装飾も刻印もない、どこにでもある無銘のナイフ。
だが、ソルフィーユにとっては違う。
この世で初めて握った刃の匂いがする。
忘れようのない感覚。
「……我々を知っているなら話は早い」
男の目が細まる。
構え直し、剣を握り直す。
「確実に死んでもらう!」
踏み込みが鋭くなる。
だが、その殺意はもう通じない。
闇を知る者に、闇は効かない。
隙のない突きだった。
一直線に、心臓を貫く軌道。
だがソルフィーユは、わずかに体を傾けるだけでそれを外す。
刃先は胸元をかすめることなく、虚空を裂いた。
そのまま一歩。
一瞬で、男の鼻先まで間合いを詰める。
冷え切った瞳が、至近距離で絡む。
マスクの奥、銀に光る瞳。
その奥に浮かぶ紋様を見て、男の表情が変わる。
「聖女ソルフィーユ……! 噂は本当だったか!」
男は剣を捨てる。そこに迷いはない。
腰のナイフを抜き放ち、距離を殺す。
超近接。
「神力と魔力を併せ持つ聖女……!」
刃と刃が火花を散らす。
金属が擦れ合い、甲高い音が響く。
互いのナイフが、ほとんど呼吸の間隔で交錯する。
一瞬の遅れが死に直結する距離。
だが、ソルフィーユの動きは滑らかだった。
闇が揺らめき、闇より速く、闇から放たれる刃を返す。
金属音が耳に届くより早く、男の左足が踏み込んだ。
低い体勢からの逆手へ握る。
刃がソルフィーユの喉を狙う。
間合いを読み、ソルフィーユは首を半寸だけ傾けると、刃先が髪を掠め、数本が宙に舞った。
同時に右足を軸に半回転。
男の肘を左手で叩き落とし、懐へ滑り込む。
近い。
近すぎる距離。
互いの息が混じる。
男は即座に膝を跳ね上げ、腹部への打撃を放つ。
ソルフィーユは肘で受け、衝撃を逃がしながら体を密着させると、右手のナイフを逆手に返し、男の脇腹へ刺突――。
だが読まれていた。
男は肘で軌道を逸らし、額を打ち込んできた。
ゴン、と鈍い音。
ソルフィーユの視界が揺れる。
だが足は止まらない。
ソルフィーユは額が触れた瞬間、後ろへ下がるのではなく、さらに踏み込んだ。
頭突きを“接点”に変え、体重を前へ。
肩を差し込み、男の重心を崩すと、男の視界から突如ソルフィーユの姿が消える。
足払い。
男の踵が浮かぶが強引に踏みとどまり、空いている左手でソルフィーユの手首を掴んだ。
力が強い。握力で骨を砕くつもりだ。
ソルフィーユは抵抗しない。
力を抜き、掴まれた腕ごと体を回転させる。
男の腕を支点に、身体を翻す。
関節の可動域を越える角度。
――鈍い音。
それは男の肩が外れる音だった。
「ぐああっ! クソっ! 肩がっ」
呻き。
その瞬間を逃さない。
ソルフィーユは空中で体勢を戻し、着地と同時に地面を蹴る。
低空からの斬り上げ。
男は咄嗟に後退するが、刃が胸元を裂く。
血が散るが浅い。
男は距離を取らず、逆に踏み込んできた。
突進。
体重差を押しつける。
ソルフィーユは真正面で受けない。
半歩ズレると男の腕を取る。
肘関節を固定。
膝裏に蹴り。
すると、重心が完全に崩れ、今度こそ男は倒れる。
地面に叩きつけられる寸前、ソルフィーユは首筋へ刃を添える。
喉仏に冷たい金属が触れると、男の呼吸が止まる。
そして、崩れた石垣の周囲は、嘘のような静寂に包まれていた。
昼下がりの木の下で、男の瞳がわずかに揺れる。
ソルフィーユの刃は、脈打つ喉元を正確に捉えていた。
「……さて」
淡々と告げる。
「あなたの負けですが、何か言い残すことはありますか?」
男は何も言わない。
死を受け入れたような目。
だが同時に、わずかな隙を探している。
その視線の動きすら、ソルフィーユは見逃さない。
目を逸らさず、刃先へ意識を集中させる。
ほんのわずかな動きでも、喉を裂ける距離だ。
――次の瞬間。
男の様子が急変した。
口元から泡が溢れ、白目を剥く。
「……毒。自害ですか」
静かに呟く。
神力を使えば毒を無効化することはできる。
だが、死を覚悟して服毒した暗殺者から情報を引き出すのは容易ではない。
拷問でもしない限り、口は割らないだろう。
「ソルフィーユ様。他の追手の気配がありません」
背後からリュミエルの声。
「……そのようですね」
尾行は複数いた。
だが現れたのは、この男だけ。
先ほどの戦闘を見て、深追いは無意味だと判断したのだろう。
ソルフィーユは静かに魔力を解く。
闇の衣が霧のようにほどけ、静黒聖衣が消える。
やがて、見慣れた聖衣の姿へと戻った。
▽
――ソルフィーユとリュミエルが去ってしばらく。
崩れた廃屋の陰から、ひょこりと影が顔を出した。
頭の上の耳が忙しなく動く。
尻尾は、楽しそうに左右へ揺れていた。
「ニャ〜? あれが噂の聖女ニャったのか〜」
姿を現したのはナナイだった。
ナナイは、先ほどの戦闘を途中から見ていた。
男の動きは鋭かった。
足運びも、間合いも、刃の出し入れも洗練されている。並の冒険者ではない。
だが――。
聖女は、それを圧倒した。
聖女といえば、温室育ち。
儀式と祈りに囲まれ、短命に終わる存在。
それがナナイの持つ印象だった。
最初に会ったときもそうだ。
ソルフィーユはどこか隙だらけで、隣にいたリュミエルに守られているように見えた。
「……興味が湧いたニャ」
ナナイはにこにこと笑うと、足元に転がる男へ視線を落とす。
ギルドからソルフィーユを尾行していた冒険者風の男。
すでに息はない。
ナナイはしゃがみ込み腰のナイフを引き抜くと、刃をくるりと指先で回す。
猫の瞳が愉快そうに細められた。




