35話 新たな決意
「んー……今日の大和は浮かない表情をしているなぁ」
「そうか? ……いつもこんなもんさ」
食事を終えた後、俺は参考書とのノートを開いてペンを走らせていた。
雫はそんな俺の様子をスケッチブックに描写していく。
「やっぱり大和は凄いなぁ……」
「なにがだよ? 俺なんて、なにも凄くないぞ」
スケッチブックを閉じて参考書を凝視していた俺の顔を強引に覗き込んできた雫が言葉を続けた。
「だって大和は学校で一番成績良いじゃんか」
「それは……俺が以前いた学校が今の学校よりも偏差値が高かったからで……当然というか。いや、べつに蔑む意味ではないぞ」
「そんなことわかってるよ、大和は優しい奴だし。私が言いたいのはそんな偉い学校に入るぐらい凄い奴ってことだよ」
俺は……本当に凄くないんだよ。
雫は知らないから、そう思うのも無理はないのか。
最近の雫は学校でクラスメイトと頑張って会話をしている。
今の、目の前の雫は……あきらかにその時の表情とは……違う。
それは多分、雫が俺のことを少なからず信頼してくれているからだと思う。
学校にいる時よりも表情が柔らかい。
声が弾んでいる。
よく笑う。
でも俺は……。
「クラスの皆も言ってるよ。大和に勉強教えてもらう方が先生よりもずっとわかりやすいって。優しいし」
そんな明るい雫を見ていると胸が締め付けられるような気持ちになる。
とても……苦しかった。
♢
「雫、そろそろ帰らないと……もう遅いし」
「あー……うん、この番組が終わったら……」
椅子に座りテレビをぼーっと見つめている。
雫のお母さんが急な夜勤で帰ってこないため、俺たちは一緒に晩飯を食べた。
それから、俺は勉強をしたり、雫は絵を描いたり。
その後、風呂に入ると言った雫は隣の自宅に帰ったのだが、入浴を終えてからまた戻ってきて、しばらくこちらに居座っている状態だ。
もう23時を過ぎている。
いくら自宅がすぐ隣だからって、このまま一緒にいるのは高校生の分際でよろしくない。
母さんには釘を刺されているし……。
「明日も学校だし、これ以上夜更かしするのはよくないぞ」
俺がそう声を掛けても、雫は黙ってテレビを見つめている。
「その番組が気になるのか? 一応録画することもできるけど……」
「べつに……テレビは、興味ない……」
興味ない?
もう結構な時間テレビを眺めているのに……。
「私は……大和と……一緒にいたいだけ」
「え……あ、あぁ……でも……」
俺と一緒にいたい?
明日になればまた会えるじゃないか。
学校だって最近は一緒に通っているし。
自宅も隣同士だし。
「一人は……さ、寂しい……よ」
雫の目から涙がこぼれていた。
そのまま俯いて泣いていた。
胸が張り裂ける思いだった。
「……雫」
俺は雫の傍まで歩み寄り、頭を撫でた。
無意識だった。
顔を上げた雫は少し驚いたような表情で、俺を見つめていた。
今日仕事に出掛ける前に言っていた母さんの言葉の意味がわかった気がした。
「大和……一人は、怖い。寂しい。……帰りたくないよ」
鼻を啜りながら、涙を流しながら、縋るような眼差しで、目の前にいるか弱い女の子を俺は放ってはおけなかった。
♢
広くはない一室。
俺と雫は敷布団を二つ少し距離を開けて並べた。
「雫、いいか?母さんは朝7時には帰ってくると思うから、それまでにちゃんと起きて帰るんだぞ」
「うん、わかってる」
寂しそうな表情で俺の枕を優しく抱きしめている。
「あの……それ、俺の枕……返してくれない?」
「やだ」
即答で拒絶の言葉を口にすると、その枕を力強く抱きしめた。
意地でも返さないという意思表示なのか。
「はぁ……まあ、いいか。じゃあ、雫は母さんの布団を……」
こちらが話し終わるのを待たずに、雫は俺の布団の中へと潜り込んでしまった。
「おい、それ俺の布団なんだけど」
「大和ママの布団、他人の私が勝手に使ったら悪いし」
俺のを使うのは悪くないのか?
これ以上言っても聞く耳を持つとは思えないので、諦めて俺も母さんの布団を被って眠る大勢に入る。
「雫……電気消すぞ」
「…………」
返事はない。
さっきの様子から見ても今の雫は精神的に不安定なのだろう。
明かりを豆電球に切り替えた。
普段は真っ暗で眠っているが、こんな状況だし少しでも明かりがある方がいいだろう。
(……眠れない)
いつもと違う薄暗い空間で、隣には年頃の女の子がいて、俺は変に緊張してしまい眠れそうにない。
母さんにこんな状況を見られたら、きっと大目玉だ。
寝過ごすわけにはいかない。
目を瞑って眠気がやってくるのを待つしかない。
「大和……もう寝た?」
隣の布団に入っている雫に背を向ける形の俺は体制を変えずに言葉を返す。
「……寝てないよ」
「……そっか。私……今日は眠れないかも」
「いや、寝ろよ。明日は早く起きないといけないんだから」
「わかってるよ。でも……大和が……誰か傍にいてくれると凄く安心して、嬉しくて」
「いつも……寂しいのか?」
「うん……私には、お母さんしかいないし。今日は帰ってくると思ってたから……」
俺も似たような気持ちになったことがある。
離婚前の母さんは深夜のバイトに入ることも少なくなかった。
親父は家にいないことも多いし。
「お母さんは仕事だし……学校では一人……私には友達なんていないし……」
俺も……学校で孤立して、放課後はバイトして、帰宅したら飯を作って、眠るギリギリまで勉強をして。
「強がってる時って……案外大丈夫だったりするんだ。でも……眠るときとか、一人の時……凄く怖くなる」
怖くなる……か。
「学校で私が浮いてることなんてわかってる。気にしていないふりをしても、家で一人になると、その日あったことを思い出して、自己嫌悪ばかり繰り返すんだ。クラスメイトに悪口言われてるんじゃないか?とか……いつか嫌がらせやいじめの標的になるんじゃないか?とか……それに、これからの、進路とかも……」
一抹の不安が、大きくなっていって、自分の中で消化することができなくなってしまうんだ。
「ははっ……メンタル……弱すぎだよな。わ、わたしって……こ、こういうやつなんだよ……」
雫がまた泣いている。
大丈夫だよ……って言ってやればいいのか?
大丈夫……その言葉に俺は少し前に救われた。
でも……俺はあの人みたいに気の利いた言葉を掛けることなんてできない。
「雫……」
俺は横になった状態のまま、雫の方へと体勢を変えた。
薄暗い視界の中、雫の顔が見えた。
悲しそうに、悔しそうに、泣いていた。
俺は布団から片手を出して、雫の方へ伸ばす。
雫は迷うことなく俺の手を取って強く握ってきた。
「雫は臆病なんだなぁ」
「うん……ごめん」
「謝ることじゃない。雫は臆病だけど、勇気を出したんだよ」
俺に弱みを見せることは本当に勇気が必要だったと思う。
「大和……そっちに、いってもいい?」
雫の手が震えていた。
「ああ、いいよ」
なにかやましいことをするわけじゃない。
寂しい時や怖い時は誰だって助けてほしいはずだ。
心の拠り所がほしいはずだ。
雫はゆっくりと俺の布団の中に入ってきた。
俺の胸に顔を埋めた。
まだ、彼女は泣いている。
「俺はさ、雫みたいに勇気は出せなかったよ」
俺は口下手だし、口先だけの言葉ではこいつの心には響かないだろう。
だから……俺も弱さを見せてやればいいだけなんだ。
「俺って、転校してくる前、学校の成績随分悪かったんだ」
語りだした俺の言葉に雫がピクリと反応したのがわかった。
「どうしても大学に行きたくてさ、家が貧乏だったから、バイトして、勉強して、疲れて、学校で嫌な態度とって、孤立気味になって、休み時間は寝てばかりして」
俺の身の上話なんてしても、仕方がないかもしれないけど……。
「や、大和……ごめん。辛いこと……」
「いや……俺は雫ほど辛くはなかったと思うよ。だって俺には……幼馴染が、いたから」
「幼馴染……?」
「あぁ……その幼馴染が俺の原動力だった。頑張る理由だった。だけど……俺はなにもわかってないバカで、体現できもしない理想を夢見たガキだったんだ」
今になって振り返ると、少し前の自分は本当に滑稽だ。
バイトばかりして学校の成績が落ちても、俺ならいつでも巻き返せる。
そんな過信と自惚れがあった。
幼馴染が言ってくれた約束は俺だけじゃなくて、幼馴染にとっても特別なものだと、勝手に勘違いしていた。
あいつにとって、俺は特別な存在なんだと。
学校で幼馴染と親友の恋人関係の噂が耳に入った時に認めなければいけなかった。
俺はとっくに蚊帳の外。
とっくに……?
いや、違うな。
最初から……か。
「その幼馴染って…………もしかして、女の子……?」
「うん……そうだよ」
雫が俺の胸元から少し離れて、顔を上げた。
目にはまだ涙が溢れている。
俺は雫の頭に手を置いて優しく撫でる。
こいつの顔を見ていると、こっちが辛い。
その理由はわかってる。
雫の表情が、雫の弱った心が、昔のあいつ……幼馴染と……葵と……そっくりなんだ。
『似てると思うな。雫ちゃんも、葵ちゃんも』
確かに……そう見える。
「大和は……その、幼馴染のことが……」
雫は一度言葉を飲み込んだ。
俺は口を挟まない。
彼女の言葉を静かに待つ。
どんなことを聞かれても、俺は逃げないし、誤魔化さない。
「その子のことが……す、好き……だったの?」
消え入るような声だった。
「あぁ……そうだよ」
それにつられたのか、俺も少し掠れ声になってしまう。
「俺は……なにもわかってなかったんだよ。勝手に期待して、勝手に過信して、現実なんてなにも見えてなかったんだ」
もう一度俺の胸に顔を埋めた雫が、また泣いている。
こんな話を聞かせるべきではなかったのかもしれない……。
「雫……ごめんな、こんな話して……お、俺って本当に大したことなくて……おまえにしてやれること、なんて……なにも……」
そう……なにもない。
俺が雫にしてやれることなんて……。
こうやって一緒にいてやることぐらいしか……。
「大和……」
次の瞬間、顔を上げた雫は俺の後頭部に両手をゆっくりと回した。
そして俺の顔を優しく抱き寄せて自身の胸に押し当てた。
「し、雫……なに、してるんだよ……?」
すぐに雫の胸元から離れようとした。
でも……なぜか力が抜けて、動けなかった。
「大和……ありがとう。話をしてくれて。辛かったんだね」
雫の涙が頬をつたり、俺の髪の毛を濡らす。
「お、俺は……べつに……い、今は辛い、わけじゃなくて……」
「うそ」
なんだろう、これ……。
「だって、大和も……泣いてるじゃない」
雫の温もりが、俺の渇いた心を、そっと包み込んでくれている。
「ごめんね、私自分のことしか考えてなくて……。大和に甘えてばかりで」
俺を抱きしめる雫の力がギュッと強くなった。
「私なんかじゃ、なにもできないけど……大和は偉いよ、凄いよ、頑張ってるよ、優しいよ」
溢れてくる感情の正体はわからない。
……嬉しいのか。
……悲しいのか。
……悔しいのか。
……怒りなのか。
「大丈夫……きっと大和は大丈夫だよ」
大丈夫……?
その言葉はよく耳に残っている。
俺は励ましてくれたあの人も……先輩も……そう言っていた。
「雫……あり、がと……うっ……」
雫の息遣いが耳元で聞こえる。
雫の胸は温かくて、とても心地良い。
「大和……ありが、とう……」
今まで思い出さないように目を逸らし続けてきた苦い記憶と、俺は今日初めて戦えたと思う。
俺を優しく抱きしめて離さない雫は今も泣いている。
互いの心の傷を舐め合うように、蓋をしていた感情を解放した俺は、涙を堪えるのをやめた。
♢
「大和は泣き虫だなぁ」
「それはおまえだろう? いや……俺もだけど……」
結局二人で泣き続けて、それから目が冴えて、眠れなかった。
特に会話もなく、目を閉じて、朝がやってくるのを待った。
「外、明るくなってきたな」
俺は立ち上がり朝日が差し込む窓を開けた。
早朝の澄んだ空気がとても心地良かった。
「大和、私さ、少し前から考えてたんだけど……真剣に絵の勉強をしてみたいと思う」
「……そっか」
昨夜とは雫の顔つきがどこか違って見える。
「美大とか芸大……なんて簡単には言えない。私の家は裕福じゃないし、試験だって簡単じゃないだろうし。でも短大でも専門学校でも……挑戦したい」
自己肯定感が低かった雫が自分のしたいことを口にした姿が俺は嬉しかった。
「俺は応援するよ。そのことを真知子さんに相談して、これからよく考えればいい」
「うん、ありがとう」
何度も大きな一歩を踏み出す雫を見て、俺は自分に問いかける。
俺はどうしたいんだ?
「雫……俺は……」
これは決して意地を張っているわけではない。
過去に縛られていると言われれば、そうかもしれない。
でも、俺は……。
「俺も挑戦するよ。大学を受ける。レベルの高い大学に合格するかはわからない。受かったとしても大学には行かないかもしれない」
俺は逃げてきた。
それでも、どんな過去があったとしても、これから先、逃げ続ける人生なんて送りたくはない。
そうだ……挑戦するんだ。
自ら一歩踏み出す雫に置いて行かれないように……。
雫を一人にしないように……。
「うん、そうしなよ! 絶対大和なら受かるよ! って私なんかが言ってもなんの説得力もないなぁ、ははっ」
「そんなことはないよ。雫……一緒に頑張ろうな」
「うん! 頑張ろう! 一緒に頑張ろう!」
雫、本当にありがとう。
俺になにができるかはわからないけど。
もしもおまえが困った時やつまずいた時は、俺が力になるから。
おまえが……一人で自分の人生を歩いて行けるように。
それまでは。
その時までは。
……一緒にいるから。




