34話 大きな一歩
転校してきて数か月が経ち、俺は高校3年生になった。
新しいクラスになっても、周囲にいるクラスメイトたちは気軽に話しかけてくれていた。
大学受験に向けてなのか、授業や課題の質や量もハードになっていき、生徒たちの意識も変わっていく。
自習の時間や休み時間を多くの生徒はテキストやノートを見返している。
「相沢、少し教えてもらってもいいか?」
近場の席のクラスメイトが俺にそう尋ねてくるのも珍しくはない。
「ああ、いいよ」
転校してきた頃の俺のままなら、周囲と距離を取るような立ち振る舞いをしていたと思う。
心が病んでいたと言って良いかはわからないけど、それぐらい俺は自分の殻に閉じこもっていた。
「ねえ、私も教えてもらってもいいかな?」
「あっ、俺もいい?」
こうやって俺の周囲には少しずつ人が集まるようになってきた。
皆がこんなふうに話しかけてくれるのは俺が周囲よりも勉強ができるから。
もしも俺が勉強ができない生徒だったら……。
もしも俺の成績がここから急降下したら……。
この人たちは俺に一ミリの興味も示さないのだろう。
きっとそうだろう。
そうに違いない。
少し前までそんな考え方をしていた。
でも、最近は少し違うんだ。
「うん、もちろんいいよ。 皆で頑張ろうな」
「あ、ありがとう、相沢くん!」
「本当に助かるよ!」
「それでどこかわからないんだ?」
俺が勉強を教えると、クラスメイト達は喜んでくれた。
「相沢くん、いつもありがとな」
感謝の言葉を聞くと、こっちも嬉しい気持ちになる。
この様子を見ていると、思い出すんだ。
俺が転校する前の学校……海明学園高校に入学した時のことを。
当時のクラスメイトだった人たちは今目の前にいる彼らと何ら変わらないことに気が付いたんだ。
あの時も、首席で合格した俺にクラスメイト達は話しかけてきてくれた。
定期考査で俺が学年1位の成績ではなかった時、励ましの言葉を掛けてくれていた。
文化祭準備の時だって最終的に煙たがられれていたけど、最初は優しく誘ってくれていた。
その他にも、彼らの優しさや気遣いが節々には確かにあったんだ。
それを俺自らが冷たく距離を取っていたんだ。
当時、俺は必死だったから、そのことには気づけていなかったし、気にもしていなかった。
汚い好奇心から成績が落ちていった俺のことをあざ笑っていた連中もいただろうけど……。
「相沢くんって趣味とかって……あ、いや、ごめん。 こういう話は好きじゃなかったよな」
そう……こんなふうに俺に歩み寄ってくれていた人たちは少なからずいたんだ。
偏見があったと思う。
「いや、大丈夫だよ。 俺は最近漫画とかハマっていてさ」
「私も漫画よく読むよ! なに読んでるの?」
俺が勉強ができるからこの人たちは話しかけてくれる。
それは凄く良いことだと今は考えている。
それは俺の個性だし、なにも悪いことじゃない。
そして彼らも俺が勉強以外にどんな側面を持っているのか知りたいだけなんだ。
話が合えば仲良くすればいいし、かみ合わなければ無理をする必要はない。
お互いに歩み寄らなければ本物の関係はきっと築けない。
転校前の俺なら絶対に気付けなかった。
この小さな一歩を踏み出せなかった。
少し変われたと思う。
なぜ俺は変わることができた?
それは……。
「あ、あの……私もまぜてもらっても、いいか?」
俺たちが集まって勉強をしているその場所に徐にやってきた一人の少女。
そう……俺が変われたのは彼女のおかげなんだ。
「ああ、ここに座れよ、雫」
俺は椅子から立ち上がり、彼女が……雫が座れるように席を開けた。
雫は俺の席に静かに腰を下ろすと、目の前のクラスメイト達を見渡した。
「……よ、よろしく」
雫の言葉にクラスメイト達はクスクスと笑った。
彼女をあざ笑ったり、中傷する意味では決してない。
「うん、今日もよろしく、斎藤さん」
「斎藤さんって意外とシャイだよね」
3年生になってから雫は一歩踏み出した。
俺がなにかを言ったわけではない。
自ら勇気を出して行動したんだ。
俺の小さな一歩とは違う。
雫の大きな一歩に俺は勇気をもらった。
「雫、今度のテストも頑張ろうな」
「お、おまえに言われなくても、頑張るって……」
皆の前で恥ずかしいのか、少し頬を赤く染めながら雫はテキストとノートを開いた。
♢
「大和、晩御飯冷蔵庫に入ってるから」
「ああ、気を付けてね」
これから母さんは仕事だ。
今日は夜勤のため、日が沈みかけているこの時間から職場に向かう。
「ん? 母さん、スマホ鳴ってるよ」
「あ、うん」
母さんは掛かってきた電話をとって、誰かと話しをしている。
「えっ? これから夜勤に入るんですか?」
仕事関係の電話のようだ。
1分にも満たないやり取りを終えた母さんは持っていたカバンを置いて口を開いた。
「雫ちゃんのお母さん、今日日勤だったんだけど欠員が出たからこれから夜勤にも入るみたいなの」
「それって、ほとんどぶっ通しで働くってこと? 体調悪くするんじゃ……」
「うん、夜勤は22時からだから少し仮眠と取るって言っていたけど……。真知子さん、少し前から様子が変だから……大丈夫なのかしら」
雫の母親である真知子さんは俺もここに越してきた時に少し話をしたけど、お淑やかで優しい人だった。
そういえば最近は真知子さんに会っていない。
夜勤終わりで帰ってきた真知子さんを少し前は何度か見かけたりして、軽く挨拶をすることが結構あったんだけど……。
「雫ちゃんって、今家にいるよね?」
「ああ、いるだろうな」
母さんは玄関を出てすぐに隣の部屋のインターホンを鳴らした。
すると、そこの住人である雫がすぐに玄関扉を開けて姿を見せた。
「あっ、大和ママ。こんばんは」
大和ママ……?
雫は母さんのことをそんな呼び方してるのか……。
「こんばんは、雫ちゃん。真知子さん…お母さんね、これから夜勤に入ることになっちゃったの」
「えっ!? そう、なの?」
雫は驚いていたが、すぐに寂しそうな表情へと変わった。
「ごめんね、最近欠員が多いから。私もこれからお仕事なの。雫ちゃん、ご飯はある?」
「あっ……その……」
言葉を飲み込んだ雫は何か言いにくそうに右手で頬をかいた。
その右手の小指球が黒く汚れている。
大体の状況が伺えた。
「雫、絵を描くのに夢中になって飯の支度を忘れたんじゃないのか?」
「うっ……そ、そうだよ。でも今日は私一人だし、コンビニでカップ麺でも買うからべつに問題ないし!」
上ずった声だった。
なにを強がっているんだか。
「雫ちゃん、迷惑じゃなかったらうちで晩御飯食べない? いつも多く作ってあるから」
「えっ、いいの!? ……でも」
遠慮しているんだな。
「雫、うちで食べればいいよ。俺も……一人じゃ寂しいし」
この言い方なら雫は必ず乗ってくる。
「し、仕方ねぇな。大和がそういうなら……お、お邪魔します」
「ふふっ、雫ちゃん、大和をお願いね」
「は、はい! 戸締りしてから伺います」
雫が一旦自宅に戻ると、母さんはホットした表情をした。
「雫ちゃん、明るくなったわね」
そうだ、雫は殻を破った。
俺が初めて雫に出会った時、あいつは凄く短気で他人を寄せ付けないようにしていた。
今まさに精神的に成長しているんだ。
「ねえ、大和。雫ちゃん、凄い美人さんね」
「え……うん……それは否定しない」
「雫ちゃんを見ているとね、大和が小さい時から仲が良かった……あの子を思い出すわ」
あの子……。
きっとそれは幼馴染のあいつのこと……。
「雫と……あいつは……似てないと思うけど……」
「そうかな。ほら、二人とも美人さんだし」
まあ……それも否定はしない。
「でも、やっぱり似てると思うな。雫ちゃんも、葵ちゃんも、大和を見ている時の表情が凄くよく似ているわ」
雫と……あいつの、表情が……?
俺にはわからない。
俺を見る二人の目が本当に似ていたとしても、それが何を示唆しているのか全くわからない。
「じゃあ大和、もう行くわ。雫ちゃんをお願いね」
「あ、うん。気を付けて」
母さんは駅の方へと歩を進めようとしたが、こちらを振り返った。
「大和、あまり遅くならないうちに雫ちゃんを帰すのよ。貞操がないことしたらダメだからね」
「そ、そんなことするかよ!」
険しい顔で何を言い出すのかと思えば……。
俺はそんなに信用がないのか?
「ほら、早く行けよ。遅刻するぞ」
「はいはい。そうね、大丈夫よね。雫ちゃん凄く気が強そうだし」
母さんは雫のことをわかってるようでわかっていないと俺は思う。
「あれ? 大和ママ行っちゃったの?」
職場へ向かった母さんを見送った刹那、雫がちょうど姿を見せた。
「ああ。じゃあ、飯にしようか」
「大和、みてみて! 今日はこれ描いたんだ!」
雫は持っているスケッチブックを広げて、満面の笑みでそれを俺に見せてくる。
そこに描かれていた絵は建築画で……その絵を見て、俺は思わず目を見開いた。
「…………」
「や、大和……?」
「ん、あぁ……なに?」
「もしかして……あまり上手じゃ、ない?」
「……そんなわけないだろう? クオリティが高すぎて、言葉が出なかっただけだ。本当に凄いよ、雫は」
「ほ、本当に?」
「ああ、俺は雫の絵が好きだぞ」
「あ、ありがとう、えへへっ」
嬉しそうに照れながら笑う雫を最近よく見るようになった。
「雫……なんで、その建物を描こうと思ったんだ?」
「うん。この建物って昔、母さんが働いてた場所なんだ。何度か行ったことがあって……」
そう言葉を発した雫はなぜか俺のほうをジッと見つめながら、なにか言いたげだった。
「……そうか。まるでモノクロ写真を見ているみたいで……感動したな。晩飯を食べ終わったら、もっとよく見せてくれよ」
「うん! そのかわりに今日も大和を描かせてもらうからな!」
俺は雫を部屋に入れて、晩御飯の準備を始めた。
「晩御飯肉じゃが!? やったぁ! 私の大好物なんだ!」
「……そうか」
テンションが高い雫に俺は素っ気なく返事をした。
「大和も好きなの!?」
さっき見せてもらった雫が描いた絵。
「……ああ……好きだよ……」
その絵が……俺は頭から離れなかった。




