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第9話 聖女は空を割る

飛竜を倒した翌朝。


町の空気が変わっていた。

昨日まで板で塞がれていた窓が開き、通りに人が出ている。子供の声も聞こえる。


守備兵たちが飛竜の死骸を解体していた。

鱗は防具に、骨は武器に、肉は保存食になる。飛竜一体の素材は、この町の半年分の物資に匹敵するらしい。


「旅人さん! ありがとうよ!」

「あんたのおかげで安心して眠れたよ!」


通りを歩くと、住民たちが声をかけてくる。

昨夜の戦闘を柵の上から見ていたらしい。話が広まるのは早い。


「……ああ」


返事が短すぎるのは分かっている。

だが、感謝されるのは居心地が悪い。王国にいた頃は、感謝の直後に次の命令が来た。


「駄犬。顔が怖い。愛想笑いくらいしなさい」


隣を歩くエリスが、小声で言った。“表”モードで住民たちに微笑みを返しながら。


「できない」


「知ってる。だから私がやるのよ。役割分担」


役割分担。

俺が殴り、お前が笑う。確かに分担されている。


「頬の傷、どう?」


「塞がった」


昨夜、エリスの治癒魔法で頬の傷は完全に消えた。

浅い傷に対して、異常なほど精密な魔法だった。細胞一つ分の精度で組織を修復する。国の結界を維持していた女の魔力制御は、こんな些細な場面でも桁が違う。


「……あの治癒魔法、すごかったな」


「当然でしょ。私よ?」


謙遜という概念が辞書にない女だ。


朝食を済ませ、出発の準備をしていた時だった。


守備兵の一人が、血相を変えて宿に飛び込んできた。


「た、旅人さん……! 隊長が……来てくれと……!」


嫌な予感がした。


---


北門の上。


隊長が遠眼鏡を覗いていた。

表情が、昨日の安堵から一転している。


「……見てくれ」


遠眼鏡を受け取る。

北の山脈の稜線に、レンズを向けた。


息が止まった。


影がある。

昨日と同じ、翼を持つ影。


一つじゃない。


二つ。三つ。四つ――


「飛竜が……群れで……」


隊長の声が震えている。


数えた。七匹。

昨日倒した一匹と同程度の翼長のものが四匹。それより小さいのが二匹。

そして――一回り大きいのが、一匹。


「あの大きいのは」


「母体だと思う。昨日倒したのは、おそらく群れの偵察個体だった。偵察が戻らないから、群れごと降りてきた」


最悪だ。


偵察を倒したことで、本隊を呼んでしまった。


「あいつらが降りてきたら、柵なんか紙切れだ。町ごと潰される」


隊長が遠眼鏡を下ろした。手が震えている。


「……旅人さん。あんたは強い。昨日見た。だが、七匹は――」


「分かってる」


一匹なら勝てた。

二匹でも、なんとかなる。

七匹同時は、物理的に無理だ。体は一つしかない。


「避難は間に合うか」


「年寄りと子供がいる。全員は無理だ。街道を使えば町の半分は逃がせるかもしれんが、残りは……」


残りは、間に合わない。


欠片を握った。

考える。考えろ。


一匹ずつ引き離して各個撃破。時間はあるか。群れが降りてくるまで――夕方。半日もない。

足止めに回って、住民が逃げる時間を稼ぐ。それなら。だが七匹を一人で足止めし続けるのは――


「……面倒ね」


背後から声がした。


振り向く。


エリスが北門の階段を上がってきていた。

ローブのフードは被っていない。銀髪が朝日を受けて、白く光っている。


「お前……」


「うるさかったの。朝から騒がしくて」


嘘だ。

守備兵が宿に来た時、隣の部屋で聞いていたのだろう。


エリスは隊長の横に立ち、北の稜線を見た。遠眼鏡は使わない。この距離でも魔力で知覚できる。


「七匹。うち一匹が母体クラス。魔力総量は……うん、まあまあね」


「まあまあ」


「私の全盛期に比べたら、蝋燭と太陽くらいの差よ」


比較対象がおかしい。


エリスが腕を組んだ。

紫の瞳が細くなる。何かを計算している目だ。


「……あんた一人じゃ無理でしょ」


「正直、厳しい」


「でしょうね。物理馬鹿は多数戦に向かないのよ」


反論できない。事実だ。


「避難も間に合わない。柵の強化も意味がない。守備兵は論外。……つまり、選択肢は一つしかないわけ」


エリスの声が変わった。


“表”でも”裏”でもない。

もっと奥。もっと冷たい。

国の結界を一人で維持していた頃の、あの声だ。


「……エリス」


「勘違いしないでよね」


エリスが振り向いた。


「あの国のためじゃない。この町のためでもない」


「じゃあ何のためだ」


「安眠のためよ。昨日からろくに寝てないの。あの羽虫どもに叩き起こされるのは御免だわ」


安眠。


飛竜の群れを「羽虫」と呼び、殲滅の理由を「安眠」と言い切る女。


隊長が目を丸くしている。守備兵たちも固まっている。

この銀髪の少女が何を言っているのか、理解が追いついていない。


「隊長」


アルレンが言った。


「町の人間を全員、建物の中に入れろ。窓も閉めろ。外に出るな」


「な、なぜ……?」


「この女が本気を出すと、巻き添えになる」


隊長の顔に困惑が浮かぶ。


エリスが微笑んだ。“表”の方の笑みだ。


「大丈夫ですよ、隊長さん。すぐ終わりますから」


笑顔が、怖い。


---


北門の外。


アルレンは柵の前に立っていた。

エリスは柵の上――門の最上部に座っている。足をぶらぶらさせている。緊張感がない。


町の住民は全員、建物の中に退避した。隊長の指示は迅速だった。余計な質問をしなかったのは、あの男の勘の良さだろう。


稜線の影が、動き始めた。


翼が開く。一匹、二匹、三匹。次々と。


群れが降りてくる。


「……来るぞ」


「見えてるわよ」


エリスは座ったまま、右手を軽く持ち上げた。


指先から、光が漏れた。


淡い紫の光。空気中の魔力が凝縮されていく。

風が変わった。温度が下がった。町全体の空気が、エリスの指先に吸い込まれるように動いている。


これは。


「……結界の時と同じ魔力か」


「結界は”守る”魔法。これは違う」


エリスの目が光った。


紫の瞳が、文字通り発光している。虹彩の奥から魔力が溢れ出している。


「壊す方が、ずっと簡単なの」


飛竜の群れが、急降下に入った。


七匹同時。翼を畳み、爪を突き出し、悲鳴のような風切り音を立てて落ちてくる。


アルレンは欠片を構えた。

最低でも母体だけは――


「動かないで」


エリスの声。

静かだが、空気ごと縫い止めるような声だった。


「邪魔よ、駄犬。三秒で終わるから」


右手を空に向けた。

指先に凝縮された紫の光が、一点に収束する。


小さい。

あまりにも小さい。指先に灯る蝋燭の炎ほどの光。


だが、その密度が異常だった。

空気が震えている。地面が震えている。柵が軋んでいる。


アルレンの全身の毛が逆立った。

本能が警告している。これは、やばい。


エリスが息を吸った。


「――散りなさい」


指を弾いた。


光が、空に昇った。


一瞬の静寂。


そして――空が、割れた。


紫の閃光が天蓋のように広がり、北の空全体を覆った。

光の中に、無数の魔法陣が浮かび上がる。一つ一つが街を覆えるほどの規模。それが幾重にも重なり、回転し、収束し――


飛竜の群れに向かって、降り注いだ。


轟音、ではない。

音を超えていた。空気そのものが魔力に変換され、衝撃波として放射された。


飛竜が一匹、消えた。

文字通り消えた。鱗も骨も残らない。魔力の奔流に呑まれて、分解された。


二匹目。三匹目。四匹目。


光の雨が、一匹ずつ正確に貫いていく。群れが散る暇もない。逃げる暇もない。


母体が咆哮を上げた。

翼を広げ、反転しようとする。


遅い。


紫の光が母体を包んだ。繭のように。

そして、握り潰すように、収縮した。


閃光。


音が戻った時、北の空には何もなかった。


雲すら吹き飛んでいた。

稜線の上に、満天の星が見えた。朝なのに。


魔力の余波で大気が裂けたのだ。雲が消えて、その向こうの深い蒼が剥き出しになっている。


アルレンは、立ち尽くしていた。


知っていた。

この女が強いことは、知っていた。

国の結界を一人で維持していた天才。それは知識として持っていた。


だが、これは。


「…………」


振り向くと、エリスが柵の上でふらついていた。


足がぶらぶらしていたのは、力が入らなくなっていたからだ。


「――っ」


駆け寄る。柵の上から落ちかけたエリスの体を、両腕で受け止めた。


軽い。

肩揉みの時にも思ったが、信じられないほど軽い。


「……離しなさい、駄犬」


声に力がない。


「離したら落ちるぞ」


「……うるさい。自分で降りれるわよ」


足が震えている。降りれない。

魔力の大量消費で、体が動かないのだ。


「背負うか」


「絶対に嫌」


「じゃあこのまま抱えてる」


「それはもっと嫌」


文句だけは元気だ。


結局、エリスはアルレンの肩に手を置いて、支えられながら柵を降りた。

足元がおぼつかない。二歩ごとによろめく。


「……大丈夫か」


「大丈夫に決まってるでしょ。これくらい、どうってことないわ」


嘘だ。顔が白い。唇に血の気がない。


でも指摘しない。

この女は弱みを認めない。それを無理に暴くのは、たぶん正しくない。


町の方から、声が聞こえた。


建物の中に避難していた住民たちが、窓から空を見ていた。


雲が消えた空。

朝日に照らされた、一点の曇りもない青空。


そして、その下に立つ銀髪の少女。


「……あれは……」


誰かが、震える声で言った。


「聖女……?」


エリスの足が、一瞬だけ止まった。


その称号は、鎖だった。

十年間、この女を縛り続けた鎖。


「……行くわよ、駄犬」


エリスはアルレンの肩に体重を預けたまま、歩き出した。


「温泉。早く。私は疲れたの」


「……了解」


町を出る背中に、住民たちの視線が集まっていた。


黒髪の男と、銀髪の女。


その姿が、やがて噂になる。

まだ、二人は知らない。

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