第8話 駄犬の鎖は外れている
翌朝。
町の守備兵詰所は、宿から通り二つ分の距離にあった。
石造りの小さな建物。壁にひびが入っている。予算が足りていない証拠だ。
詰所の中には、守備兵が四人いた。
全員、顔色が悪い。夜通しの見回りで寝ていないのだろう。
「旅人が何の用だ」
隊長格の男が言った。四十がらみ。右腕に古い火傷の痕がある。実戦経験者だ。
「飛竜の件で話を聞きたい」
「……聞いてどうする」
「倒せるなら、倒す」
詰所の空気が止まった。
四人の守備兵が、一斉にこちらを見た。
黒髪、無精髭、死んだ目、腰に剣の欠片。
信じる要素がない。
「……正気か、旅人」
「たぶん」
隊長が眉間を揉んだ。
疲労と困惑が混ざった顔だ。
「あれは飛竜の亜種だ。翼長は十メートル以上。鱗は鋼より硬い。ブレスは吐かないが、代わりに前足の爪が異常に発達している。上空から急降下して獲物を掴む。先週、牛が三頭やられた。柵ごとだ」
「行動パターンは」
「日中は山の上。夕方から偵察飛行を始めて、夜に降りてくる。狩りは深夜。満月の夜に活発になる」
「今夜は」
隊長が窓の外を見た。
「……半月だ。来るかもしれないし、来ないかもしれない」
「来なかったら明日待つ。来たら仕留める」
隊長がしばらくこちらを見つめた。
値踏みではない。縋ってもいいのかどうかを、測っている目だ。
「……名前は」
「通りすがりの旅人だ」
「旅人にしちゃ、目が普通じゃないな」
「よく言われる」
隊長が小さく息を吐いた。
「……北門の外に開けた場所がある。奴が降りてくるなら、あそこだ。柵の外になるが」
「十分だ」
「守備兵は出せない。余裕がない」
「いらない。一人でいい」
隊長の目が、ほんの一瞬だけ見開かれた。
何かを言いかけて、やめた。
代わりに、短く頷いた。
「……無事を祈る」
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宿に戻ると、エリスが窓辺で髪を梳いていた。
昨日買わされた櫛だ。しっかり使っている。
「話は聞けた?」
「飛竜の亜種。翼長十メートル。鱗は鋼以上。夜に降りてくる」
「ふうん」
興味なさそうに髪を梳き続ける。
「で、一人で行くの」
「ああ」
「馬鹿じゃないの」
「かもな」
エリスの手が止まった。
窓の外を見る。北の山脈。まだ黒い影は見えない。日中は山の上にいるという話だったか。
「……弁当、作ってあげる」
「お前が作ると何ができるんだ」
「パンにチーズ挟むだけよ。それくらいはできるわ」
できるのか。意外だ。
「あと」
エリスが振り向いた。“裏”の顔のまま、でもいつもより少しだけ目が真剣だった。
「鱗が鋼以上なら、普通に殴っても効かないわよ。関節の隙間か、翼の付け根。あとは口の中。硬いのは外側だけ」
分析が的確すぎる。
こういう時だけ、この女の頭脳が本物の兵器だったことを思い出す。
「……助かる」
「別に。駄犬が死んだら荷物持ちを探すのが面倒なだけよ」
三回目だ、その理由。
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夕方。
北門の外。柵を出て百歩ほどの開けた草地。
背の低い草が風に揺れている。左手に森、右手に岩場、正面に山脈。
視界は良い。空が広い。
飛竜を迎え撃つなら、確かにここだ。
腰の布包みを解き、折れた聖剣の欠片を抜く。
手の中で、オリハルコンが微かに脈打った。俺の魔力に反応している。
魔力が体内を巡る。
いつもの感覚だ。魔法にならない魔力。行き場を失って、筋肉に、骨に、腱に、全部が戻ってくる。
身体が重くなる。
重くなるのに、速くなる。矛盾した感覚。体の中で何かが過剰に回転している。
これが「聖剣の勇者」の正体だ。
魔法が使えない欠陥品。その代わり、肉体だけが際限なく強化される化け物。
聖剣は、この暴走を抑えるリミッターだった。
折れた今、鎖はない。
「……来い」
空を見上げる。
夕日が山の向こうに沈みかけている。
空が赤から紫に変わる、その境目に――影が見えた。
大きい。
翼を広げたまま滑空している。ゆっくりと、旋回しながら高度を下げている。
偵察だ。獲物を探している。
影が、こちらに気づいた。
旋回が止まる。
翼が畳まれる。
急降下。
速い。
風を切る音が、一瞬で悲鳴に変わった。
十メートルの翼。鋼の鱗。前足の爪が月光を反射している。
隊長の言葉を思い出す。上空から急降下して、獲物を掴む。
牛を柵ごと持っていく爪だ。
人間なら、ミンチになる。
――普通の人間なら。
飛竜が地上三メートルまで降りた瞬間、前足を突き出した。
避けない。
一歩、前に出る。
爪が迫る。
右から。
欠片を右手に握り、下から振り上げた。
オリハルコンと爪が激突する。
轟音。
衝撃波で周囲の草がなぎ倒された。
爪が弾かれる。飛竜の体勢が崩れ、翼が地面を叩いた。
砂埃が舞う。
飛竜が体勢を立て直す。速い。翼で地面を蹴り、距離を取る。
だが、こちらも止まらない。
踏み込む。
一歩で五メートル。地面が陥没した。
飛竜が首を振って威嚇する。
口が開く。牙の列。中は柔らかい。
――エリスの助言通りだ。
だが口を狙うのは最後でいい。
まず、飛ばせない。
翼の付け根。左翼。
飛竜が再び飛び立とうと翼を広げた瞬間、跳んだ。
空中で欠片を振りかぶる。
翼の付け根の関節――鱗が薄い部分に、オリハルコンの塊を叩き込んだ。
骨が折れる音がした。
飛竜が絶叫した。
翼が垂れ下がる。左翼が使えない。もう飛べない。
地面に着地する。衝撃で膝が沈んだ。地面にひびが走る。
飛竜が怒り狂って前足を振り回す。
爪が頬をかすめた。風圧だけで皮膚が切れる。
血が一筋、顎を伝った。
「……やるな」
褒めているわけじゃない。独り言だ。
飛竜が突進してくる。残った右翼を使って加速。折れた左翼が地面を引きずって火花を散らす。
正面衝突。
受けた。
両足が地面にめり込む。膝まで埋まった。
飛竜の頭が目の前にある。牙が軋む。息が熱い。
欠片を握り直す。
「悪いな。温泉に行きたいんだ」
口の中に、欠片を突き入れた。
顎を貫通はしない。
する必要がない。オリハルコンの塊が口腔内で炸裂するだけの衝撃を、叩き込めばいい。
振り抜いた。
飛竜の頭が跳ね上がった。
目の光が消える。
巨体が、ゆっくりと横に倒れた。
地響き。
草地に砂埃が舞い上がり、しばらく視界を覆った。
静寂。
風が吹いて、砂埃が晴れる。
飛竜は動かなかった。
「…………」
欠片を腰に戻す。
膝まで埋まった足を引き抜く。両足分の穴が地面に残った。
頬の血を袖で拭う。
浅い。明日には塞がる。
息を吐いた。
「……面倒だった」
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振り向くと、北門の上に人がいた。
守備兵だ。
隊長と、他に三人。柵の上から、こちらを見ている。
全員、口を開けていた。
隊長が、掠れた声で言った。
「……何者だ、あんた」
「通りすがりの旅人だ」
「旅人が飛竜を一人で……」
「たまたまだ」
たまたまで飛竜は倒せない。分かっている。
だが、それ以上の説明をする気はなかった。
「死骸は好きにしてくれ。素材が取れるだろう」
「あ……ああ……」
隊長が柵の上から降りようとして、足を滑らせた。
腰が抜けていたのだろう。
門の影から、もう一つ視線を感じた。
銀髪。
エリスが門の柱に背を預けて、こちらを見ていた。
「寝てるんじゃなかったのか」
「……音がうるさくて起きたのよ」
嘘だ。
最初から見ていた。門柱の位置取りが良すぎる。戦闘開始前からいた証拠だ。
エリスが、ふっと笑った。
“裏”の笑みだ。でもいつもの嘲笑じゃない。
もう少しだけ、温度のある笑い。
「……まあ、荷物持ちにしては、やるじゃない」
「どうも」
「頬、切れてる。宿に戻ったら手当てしてあげる」
「お前が手当てできるのか」
「馬鹿にしないで。治癒魔法くらい使えるわよ。……コスト度外視だけど」
コスト度外視の治癒魔法。
頬の浅い傷に使うには贅沢すぎる。
でも、断らないことにした。
「……ああ。頼む」
エリスが目を逸らした。
少しだけ、耳が赤い。
魔力で血流を操作しているのか、本物なのか。
今回は、聞かないでおく。




