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第7話 結界の残り香

あの町を発って四日。


街道は徐々に荒れ始めていた。

舗装された石畳が途切れ、土の道に変わり、やがて轍すら薄くなる。


王国の中心から離れるほど、整備の手が届かない。

当然だ。金も人も、王都が吸い上げる。末端に回す余裕はない。


「……道が悪い」


「知ってる」


「私の靴が汚れる」


「知ってる」


「背負いなさい」


「断る」


「なんで」


「荷物を背負ったまま人は背負えない」


「じゃあ荷物を降ろしなさい」


「降ろしたらお前の荷物が泥まみれになるぞ」


沈黙。

三秒の計算。


「……歩くわ」


珍しく折れた。

荷物と靴を天秤にかけて、荷物が勝ったらしい。エリスの価値基準はたまに正常に機能する。


国境の町が見えてきたのは、午後遅くだった。


高い木柵に囲まれた、中規模の町。

宿場町よりは大きいが、金ピカがいた町よりは小さい。商業の町というより、防衛の町だ。


柵が妙に新しい。

最近補修されたのだろう。木の色が周囲と違う箇所が何カ所もある。


「……エリス」


「分かってる」


エリスの声が低い。


「柵の補修痕。外側からの衝撃。それも一度や二度じゃない」


魔獣が何度もぶつかった跡だ。


門に近づくと、門番が二人立っていた。

宿場町の門番とは目つきが違う。緩さがない。槍を持つ手が白くなるほど握り締めている。


「止まれ。旅人か?」


「ええ。宿を探しているんですが……」


エリスが”表”で応対する。

だが今回は、門番の反応が鈍い。銀髪の美少女にも目を奪われない。

それだけ余裕がないということだ。


「……入るのはいいが、忠告しておく。この町は今、あまり安全じゃない」


「何があったんですか」


「結界が消えた」


その一言で、エリスの目が変わった。

“表”でも”裏”でもない。もっと奥にある、冷たい目だ。


「結界が消えたあと、北の山脈から魔獣が降りてくるようになった。最初は魔狼が数匹だったのが、今は――」


門番が言葉を切った。

代わりに、柵の外を顎で示す。


北の空。

夕暮れの山脈の稜線に、黒い影が動いていた。


鳥じゃない。

翼はあるが、動き方が鳥とは違う。重い。鈍い。だが、大きい。


「……あれは」


「飛竜の亜種だと思う。騎士団に報告したが、返事がない。三週間もだ」


三週間。

騎士団が三週間動かない。追放者と聖女を追いかけるのには三日で動いたのに。


「町の守備兵だけで対応してるのか」


門番が苦笑した。笑えることじゃないのに、笑うしかないという顔だ。


「守備兵は十二人。夜間の見回りで手一杯さ。あいつが降りてきたら……正直、どうしようもない」


エリスがフードを深く被り直した。

表情が隠れる。


「……入りましょう」


小声で、俺にだけ聞こえる声だった。


---


町の中は、静かだった。


嫌な静かさだ。

宿場町の穏やかさとは違う。音を立てたら何かが来る、と怯えている静かさ。


子供の姿がない。

窓が板で塞がれている家がある。

通りの奥で、老人が荷車に家財を積んでいた。避難の準備だ。


宿は一軒だけ開いていた。

客はいない。主人は痩せた中年の男で、目の下に隈がある。


「一部屋、空いてますか」


「……ああ。好きな部屋を使ってくれ。どうせ誰もいない」


銀貨一枚。食事はなし。

食材が入ってこないのだろう。街道を通る商人が減っている。


部屋に入ると、エリスはベッドに座りもせず、窓辺に立った。


北の山脈を見ている。

夕日が沈みかけて、稜線が赤黒く染まっている。


その中に――薄い光が、ちらちらと明滅していた。


結界の残滓だ。


前の宿場町で見た時より、明らかに弱い。消えかけの蝋燭のように、揺れては戻り、揺れては細くなる。


「……まだ残ってるのね」


エリスが呟いた。


窓に映る横顔から、いつもの傲慢さが消えていた。

そこにあったのは――罪悪感、とも違う。もっと複雑な何かだ。


「あの結界、私が十四の時から維持してた」


「……十四」


「最初は小さかったの。王都だけ。それが年々広げられて、最後は国境線全部」


声に感情がない。

事実を並べているだけだ。報告書を読み上げるみたいに。


「誰かに習ったのか」


「習うも何も。私以外にできる人間がいなかったの。魔力量が桁違いだから。“聖女”って便利な言葉でしょう? たった一人に全部押し付けるための称号」


窓の外の光が、また一つ消えた。

エリスの指先が、無意識にローブの袖を握り締めている。


「……あれが全部消えたら、この町は」


「守る壁がなくなる。あの飛竜だけじゃない。結界があったから入って来なかった魔獣が、全部降りてくる」


「直せるのか。結界」


エリスが振り向いた。

紫の瞳が、真っ直ぐにこちらを見た。


「直せるわよ。私なら」


「……だろうな」


「でも、やらない」


言い切った。

声が硬い。


「私はもう、あの国のために魔力を使わない。十年分の無給残業はもう終わったの」


正しい。

この女の言うことは、正しい。


十年間、自分を削って国を守り続けて、報酬は「聖女」という鎖だけだった。

辞めたのは当然だ。誰も責められない。


「……そうだな」


「何よ、その顔」


「何でもない」


「嘘。あんた今、“じゃあ誰がこの町を守るんだ”って考えてたでしょ」


図星だ。

この女は、俺の社畜体質を完全に理解している。


「考えてた」


「正直ね、駄犬」


「嘘をつく器用さがない」


エリスがため息をついた。

窓枠に背を預け、腕を組む。


「……あんたが勝手に戦うのは止めない。止めたところで聞かないでしょ」


「たぶん」


「でも、私は手を出さないわよ。今回は」


「分かってる」


「分かってるなら良い。死なないでよね。荷物持ちがいなくなると困るから」


荷物持ち。

相変わらずの理由だ。


でも、「死なないで」とは言った。


「……明日、町の守備兵に話を聞く」


「好きにしなさい。私は寝るわ」


エリスがベッドに倒れ込む。

背中を向けたまま、毛布を引っ張った。


会話は終わりだ。


窓の外を、もう一度見る。


結界の光が、また一つ消えた。

暗くなった稜線の向こうで、あの黒い影が旋回している。


飛竜の亜種。

騎士団でも中隊規模で対応する相手だ。守備兵十二人では話にならない。


折れた聖剣の欠片に、手を触れた。

オリハルコンの冷たい感触。まだ微かに光を宿している。


「……面倒だな」


いつもの口癖だ。


でも今回は、少しだけ重さが違った。


---


夜。


ベッドの上で、エリスが目を開けていた。


……眠れない。


窓の向こうに、結界の残滓が見える。

私の魔力。私が十年かけて織り上げた、世界で一番頑丈だった壁の、最後の欠片。


消えていく。


見捨てたのは、私だ。

正しい選択だった。今でもそう思う。


でも。


あの柵を握り締めていた門番の手。

窓を板で塞いだ家。

荷車に家財を積む老人。


全部、私が壁を捨てたから。


……分かってる。分かってるわよ、そんなこと。


駄犬は明日、戦いに行くだろう。

止めても無駄だ。あの男は、目の前の困っている人間を見捨てられない。損な性格。馬鹿みたいに真っ直ぐな社畜体質。


私は手を出さないと言った。

それは本当だ。もう誰かのために魔力を使う義理はない。


……義理は、ない。


毛布を深く被る。


目を閉じても、結界の光が瞼の裏にちらつく。

十年間、毎晩見ていた光だ。体が覚えている。


明日。

駄犬が戦って、勝てるならそれでいい。

勝てなかったら――


「…………」


その先は、考えないことにした。

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