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第6話 駄犬、肩を揉め

町を発つ前に、もう一泊することにした。


理由はエリスだ。

「市場で買い物がしたい」と言い出した。


正確には、「市場で買い物をしなさい、駄犬」だった。

主語が違う。労働するのは俺で、選ぶのはエリスだ。


「この石鹸。匂いを嗅ぎなさい」


「……ラベンダーだな」


「違う。安物のラベンダーよ。こっちは?」


「……ラベンダーだな」


「これは本物のラベンダー。違いが分からないの? 駄犬の鼻は飾りなの?」


飾りではない。が、石鹸の品質を鼻で判定する能力は持ち合わせていない。


「こっちを買いなさい」


「高い方だろ」


「当然でしょ。肌に安物は使わないの」


お前の肌の維持費で旅費が減っていく。


結局、石鹸二つ、乾燥ハーブの袋、携帯用の櫛、小さな手鏡を買わされた。

全部エリスの私物だ。俺の分はゼロである。


「……俺の分は」


「駄犬に何がいるの。毛並みは手入れしなくていいでしょ」


毛並み。

人間扱いされていない。


---


宿に戻ると、エリスがベッドに座って首を回した。


「肩が凝った」


「買い物してたのは俺だろ」


「選ぶのも疲れるのよ。頭を使うから」


頭を使って俺の財布を減らしていたのは知っている。


「揉みなさい」


「……は?」


「肩。揉め。駄犬」


三語で命令が完結した。


「俺の指で揉んだら肩が砕ける可能性がある」


「加減しなさい」


「加減ができないから言ってる」


「じゃあ練習よ。私の肩で練習しなさい」


練習台にされる肩の身にもなってほしい。


だが断ると面倒が倍になる。学習済みだ。


エリスの背後に回り、おそるおそる両肩に手を置いた。


細い。

鎧の下の筋肉の塊に慣れた手には、信じられないほど華奢な肩だった。


「……力入れるぞ」


「ゆっくりね」


親指で軽く押す。

本当に軽く。自分の感覚では「触れている」程度だ。


「……っ」


エリスが小さく声を上げた。


「痛いか」


「痛くない。……続けなさい」


声が少しだけ低くなっている。

痛かったのだろう。だが認めない。この女は弱みを絶対に見せない。


もう少し力を抜く。

今度は文句が出なかった。


しばらく無言で揉み続けた。


窓の外から、市場の喧騒が聞こえる。

部屋の中は静かだ。エリスの呼吸だけが、規則的に繰り返されている。


「……駄犬」


「なんだ」


「あんた、昨日の魔熊。なんで助けたの」


「何がだ」


「あのゴミよ。カイル。放っておいてもよかったでしょ」


「……従者が巻き添えだっただろ」


「従者はともかく、あのゴミは自業自得じゃない」


それはそうだ。


「……まあ、目の前で死なれると寝覚めが悪い」


「ふうん」


エリスは前を向いたまま言った。


「あんたって、損な性格よね」


「……自覚はある」


「目の前の厄介事を全部拾う。頼まれてもないのに。誰にも感謝されなくても」


手が一瞬止まった。


「……お前に言われたくない」


「何よ」


「お前だって結界を維持してただろ。頼まれてもないのに。感謝もされずに」


沈黙。


エリスの肩が、わずかに強張った。


「……それは」


「同じだろ」


「同じじゃないわよ。私は強制されてたの。あんたは勝手にやってるの。全然違う」


「結果は同じだ。誰かのために動いて、損をする」


エリスが振り向いた。

紫の瞳が、少しだけ揺れていた。


「……揉む手が止まってる、駄犬」


話を切った。

いつものやり方だ。核心に触れそうになると、命令で上書きする。


黙って肩揉みを再開した。


---



駄犬の手が、肩の上で動いている。


不器用だ。力加減も下手だ。

でも、壊さないように気をつけているのは分かる。あの馬鹿みたいな怪力で、私の肩を砕かないように必死に加減しているのが、指先の震えで伝わってくる。


……文句言わないのが、逆に気になる。


荷物を持てと言えば持つ。

肩を揉めと言えば揉む。

魔物を倒せと言えば倒す。

タダ飯のために演技しろとは言ってないのに、黙って私の茶番に付き合う。


王国にいた時、周りの人間は二種類だった。


私を「聖女様」と崇めて利用する人間。

私を「道具」と見なして使い潰す人間。


どちらも、私の顔しか見ていなかった。

笑顔の裏も、怒りの裏も、誰も見ようとしなかった。


この駄犬は――見ている。


裏の顔を知っていて、逃げない。

性格が最悪だと分かっていて、隣にいる。


なぜ。


利用価値があるから? 違う。この男は利害で動く器用さを持っていない。

仕方なく? ……それなら、荷物の置き方があんなに丁寧なはずがない。


瓶が割れないように、いつもそっと降ろす。

私が寝ている時、足音を消す。

毛布が足りない時、自分の分を半分寄越す。


全部、黙って。

「お前のため」とも「感謝しろ」とも言わない。


……気持ち悪い。


いや、違う。気持ち悪いんじゃない。


慣れていないだけだ。こういうのに。


「……もういい」


「終わりか」


「十分よ。下手だけど」


「そうか」


駄犬は素直に手を引いた。

文句も言わず、「もう少しやろうか」とも言わず。


ただ、離れる前に一瞬だけ、肩に触れた指が軽くなった。

確認するみたいに。壊れてないか、確かめるみたいに。


……ほんと、気持ち悪い。


---



夕方。


町を歩いていると、案の定カイルに遭遇した。


「おお! エリスさん!」


白マントを翻して駆け寄ってくる。

学習能力がない。あるいは、懲りない。


「昨日の魔物討伐、大勝利でした! 今度は二人で食事でもいかがですか!」


エリスが”表”で微笑む。


「まあ、嬉しいです。でも、明日には発たなければならなくて……」


「なんと! せっかくの出会いなのに!」


カイルが大げさに嘆く。

芝居がかっている。が、たぶん本気だ。この男は常に全力で芝居がかっている。


「ではせめて、今夜もう一度宴を!」


「え、いいんですか……?」


目が輝いている。

エリスの目じゃない。エリスの奥にある、タダ飯センサーだ。


「もちろん! 勇者の名にかけて!」


カイルが意気揚々と去っていく。


三秒後。


「……ちょろいわね」


「お前、あいつのこと財布だと思ってるだろ」


「失礼ね。金ピカの財布よ」


ゴミから財布に昇格した。

昇格なのか、それは。


「ほら行くわよ。今夜もタダ飯。明日の朝は弁当も持たせてやるから、あのゴミに頼みなさい」


「俺が?」


「駄犬以外に誰がいるの」


三日連続でこのセリフを聞いている気がする。


歩き出した。


面倒だ。

全部面倒だ。


でも――さっき肩を揉んだ時、あの細い肩がほんの少しだけ力を抜いたのは、覚えている。


この女が誰かの前で力を抜くことが、どれだけ珍しいか。


たぶん、本人は気づいていない。


――だから、言わない。

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