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第46話 駄犬の意味

朝。


雨は上がっていた。


街道を歩き始めて、半日。

昼過ぎに、街道沿いの小さな町に着いた。


人口三百人程度の小さな町。宿が一軒、市場が一つ。

午前中の市場が終わって、午後の静けさに沈んでいた。


宿を取って、夕食を済ませた。


部屋に戻ると、エリスがベッドの端に座って、足をぶらぶらさせていた。


「……ねえ駄犬」


「なんだ」


「最後の話、聞きたい?」


「話したいなら聞く」


「相変わらずね」


「そのほうが話しやすいんだろ」


「……そうね」


エリスが膝を抱えた。


「今日の話は、過去のことじゃないの」


「……過去じゃない?」


「現在の話。私が、あんたを”駄犬”って呼ぶ理由」


俺は、お茶を淹れる手を止めた。


「……理由?」


「あんた、なんで私が”駄犬”って呼ぶか、考えたことある?」


「……気にしたことはない」


「ふん、じゃあ教えてあげる」


エリスが膝を抱えたまま、こちらを見た。


紫の瞳が、いつもの軽さを欠いていた。


---


「あんたと出会った夜のこと、覚えてる?」


「……ああ」


「私は街道で、力尽きかけてた」


「ああ」


「あんたが、声をかけてくれた。“おい。生きてるか”って」


「……」


「あの時、私はすぐに気づいた」


エリスが目を伏せた。


「あんたが、ただの旅人じゃないこと。強いこと。そして——」


「そして?」


「優しい目をしてること」


俺は、何も言わなかった。


「あんたは、街道で倒れかけてた女に声をかけた。普通の旅人なら、見て見ぬふりをする。でもあんたは、声をかけた。それだけで、あんたが”そういう人間”だと分かった」


「……」


「優しい人間。困ってる人を見捨てられない人間」


エリスが顔を上げた。


「それが、嫌だった」


「嫌?」


「嫌。私は、優しい人間が一番苦手だった」


声が、低くなった。


「王国にいた頃、私の周りには三種類の人間がいた」


エリスが続けた。


「一つ目は、私を”道具”として扱う人間。宰相とか、神官とか、王とか。表面上は丁寧でも、私を装置としてしか見ない人たち」


「ああ」


「二つ目は、私を”聖女様”として崇める人間。館の女官とか、警備の兵士とか。私を尊敬してたけど、人間としては見ていなかった。神様か何かみたいに扱う人たち」


「……」


「三つ目は——優しい人間」


エリスが目を伏せた。


「優しい人間が、一番危険だった」


---


「優しい人が、危険?」


俺は聞いた。


「危険」


エリスが頷いた。


「優しくされると、心が緩むの。“この人なら、信じられるかもしれない”って。“この人になら、本音を話せるかもしれない”って」


「……」


「でも、王国の優しい人間は、結局——私を裏切ったの」


「裏切った、というのは」


「優しさが本物じゃなかった、ということ」


エリスの声が、震えた。


「館で世話をしてくれた女官がいた。私が十三歳の頃。優しい人だった。私の話を聞いてくれた。私が泣くと、抱きしめてくれた」


「……」


「半年後、その人がいなくなった。“別の任務に就いた”と聞かされた。後で知ったのよ。あの人は、宰相に報告するために、私と仲良くなってた。私の精神状態を観察するための、間者だった」


「……」


「あの人の優しさは、本物じゃなかった。任務だった」


エリスが目を閉じた。


「もう一人いた。十七歳の頃。新しく館に来た医師。中年の男性。私の体調を心配してくれた。“無理しないで”“休んで”と、何度も言ってくれた」


「……」


「その人も、半年後に消えた。後で知った。あの医師は、私の魔力を盗み取る研究をしていた。“心配”は、私の魔力を効率的に抽出するための演技だった」


「……」


「全部そう。優しさは、いつか裏切られる。だから——」


エリスが目を開けた。


「優しい人間が、一番危険だった。私の心に近づいてくる人間が、一番、危なかった」


---


「あんたと出会った夜」


エリスが続けた。


「あんたは、私に水をくれた。荷物を持ってくれた。歩く速度を、私に合わせてくれた」


「……」


「全部、優しい行動」


エリスが小さく笑った。

寂しい笑い方だった。


「私は警戒した。“この男も、いずれ私を裏切るかもしれない”って。“優しさに慣れて、依存して、また裏切られたら——もう、立ち直れない”って」


「……」


「だから距離を置いた。“駄犬”って呼んだ」


エリスの声が、震えた。


「自分が依存しないように。心を開かないように。“こいつは私の荷物持ち、ただの駄犬”——そう自分に言い聞かせるために」


「……」


「見下すことで、自分の感情の防波堤にしたの」


エリスが目を伏せた。


「あんたが本当に優しい人間だと分かった瞬間に、私は——あんたから距離を取った。心を閉ざした。“駄犬”と呼ぶことで、あんたを格下に置いて、自分が傷つかないように」


---


俺は、お茶のカップを握ったまま、何も言わなかった。


出会った夜から、王国を出てからずっと。


「駄犬」と呼ばれ続けた、その日々の意味が、今判った。


エリスは、俺を見下していたわけじゃなかった。

傲慢で人を見下す女、というのは——表面でしかなかった。


その下に、もっと深いものがあった。


恐怖。

裏切られる恐怖。

依存して、また失う恐怖。


エリスが「駄犬」と呼ぶたびに、それは——彼女が自分を守るための、必死の防波堤だった。


---


エリスが、ぽつりと言った。


「……ごめんね、駄犬」


「謝るな」


「謝りたい気分なの。今夜だけ」


「……分かった」


エリスが目を上げた。


「私は、ずっとあんたを格下扱いしてきた。本当は、あんたが——ずっと優しくて、ずっと強い人だって、分かってたのに」


「……」


「分かってて、それでも”駄犬”って呼び続けた」


エリスの目が、涙を溜めていた。

だが、零れなかった。


「自分を守るために」


俺は、しばらく何も言わなかった。


それから、ゆっくりと言った。


「……謝るな、と言ったろ」


「うん」


「お前が”駄犬”と呼んだのは、お前が生き延びるためだ。それを謝る必要はない」


「……」


「俺は、別に傷ついてない。“駄犬”と呼ばれて困ったこともない。荷物持ちは、別に嫌いじゃない」


エリスが目を伏せた。


「……でも」


「でも、なんだ」


「これからも、“駄犬”って呼び続けると思うの。一度始めた呼び方を、変えるのは、難しいから」


「構わない」


「構うわよ」


エリスが顔を上げた。


「これからは——“駄犬”って呼ぶの、今までとは違う意味になる」


「違う意味?」


「依存しないため、じゃない。傷つかないため、じゃない。ただ——習慣として」


エリスが小さく笑った。


「今は、依存してもいいって思える。傷つく覚悟も、できてる。だから、距離を置くための“駄犬”じゃない」


「……」


「ただの、呼び方になった」


俺は、頷いた。


「……分かった」


「分かってくれる?」


「分かる」


エリスが、ふっと息を吐いた。

何かが解けた音だった。


---


「お茶、冷めたわよ」


「ああ」


「淹れ直して」


「了解」


俺は立ち上がって、湯を沸かし直した。


エリスは膝を抱えたまま、窓の外を見ていた。

夜の街道。月が出ている。


新しい湯でお茶を淹れた。

カップをエリスに渡した。


「……ありがと、駄犬」


「ああ」


エリスが両手でカップを握った。


「この”駄犬”、もういままでとは違うからね」


「……分かった」


「分かってればいい」


エリスがお茶を一口飲んだ。


少しだけ、笑った。

寂しさのない、ただの——穏やかな笑い。


その笑顔を見ながら、思った。


エリスが「駄犬」と呼び始めてから、ここまで来るのに、長い時間がかかった。

見下されていた、と俺は思っていた。

本当は——彼女が必死に守ろうとしていた、自分の心への悲鳴だった。


知らずに、その悲鳴を聞き続けた。

今は、悲鳴ではなくなった。

それで、十分だ。


「駄犬」のまま——

これからも、隣にいる。


それで、十分だ。


---


夜が深くなった。


エリスが眠った後、俺は窓辺で月を見ていた。


明日、次の街に向かって、また旅が続く。


東の山脈までは、あと二週間。

新しい結界柱。新しい守り手。


そして——いずれ、王都へ。

宰相との対峙。


エリスを完全に解放するための、最後の戦い。


その日まで、隣にいる。


「駄犬」と呼ばれながら。

今までとは、違う意味の「駄犬」として。

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