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第45話 宰相の声

雨は夜まで続いた。


街道沿いの小さな宿に泊まることにした。

木造の二階建て。客は俺たち以外に商人が二組。


夕食を済ませて部屋に戻ると、エリスがベッドの端に腰掛けて、窓の外の雨を見ていた。


俺は窓際の椅子に座った。

湯を沸かして、お茶を二杯。


エリスがカップを受け取って、両手で握った。


「……また昨夜の話の続き聞きたい?」


「話したいなら聞く」


「あの国の宰相のこと、どう思う?」


「……ほとんど前線にいたからな。報告や指示などは手紙だったし、数回しか会ってない。」


「その数回で何か感じた?」


考えた。


「……合理的な男だ。冷たくはないが、温かくもない。手紙の文体や話し方に感情がない」


「そう。それが、あの男よ」


エリスがお茶を一口飲んだ。


---


「初めて会ったのは、儀式の翌週だった」


エリスが話し始めた。


「儀式で意識を失って、三日間眠って、起きて、一週間後、宰相が館に来た」


「館に来たのか」


「そう。私を呼びに来たんじゃなくて、向こうが来た。“聖女様にご挨拶を”って」


エリスが目を伏せた。


「応接間に通された。宰相は四十代後半で、背が高くて痩せてた。声は低いけど、よく通る声」


「……」


「宰相は、私の前に立って、頭を下げたの。“聖女様、あなたは王国の希望です”って」


「丁寧だな」


「その時は、本当に丁寧だと思った。私は十四歳で、儀式で疲弊しきってて、あの言葉が——少しだけ嬉しかった」


エリスが小さく笑った。


「馬鹿だったわ、十四歳の私」


「……」


「でも、すぐに気づいた。あの男の目は、私を見ていなかった」


「見ていなかった?」


「私の魔力を見ていた。私の額の聖女の印を見ていた。私の身長や体重、健康状態しか見ていなかった」


エリスの声が、低くなった。


「人間として見ていなかった。点検していたの。装置を」


---


「それから、宰相は月に一度、館を訪れた」


エリスが続けた。


「定期点検。表面上は”聖女様のご様子伺い”。実態は、結界の出力管理ね」


「管理、というのは」


「結界の出力が下がると、宰相が来るの。“結界の出力が低下しています。原因はなんでしょうか”って」


「……」


「私は答えるのよ。

“先月は風邪を引きました”

“熟睡できない日が続いています”

“魔力消耗が激しくて、食事が喉を通りません”」


「宰相は?」


「それぞれに対処策を出してくる。


“医師を派遣しましょう”

“睡眠薬を処方します”

“魔力回復用の食事を運ばせます”」


「対処はするんだな」


「するわよ。装置のメンテナンスだから。ただし、根本的な解決はしない」


エリスが目を伏せた。


「結界の出力を維持するために、私を生かしておく。それが、あの男の最優先事項。私の幸福は、その中に入っていない」


「……」


「一度、私が言ったの。十六歳の頃。“もう疲れました。少しだけでも、結界の出力を下げてもいいですか”って」


「答えは」


「“聖女様の役目は、結界を維持することです。出力を下げることは、王国の安全を脅かします。それは聖女様の本意ではないでしょう”」


エリスが小さく笑った。

寂しい笑い方だった。


「あの男は、一度も命令しなかったの。“出力を下げるな”とは言わなかった。代わりに、“あなたの本意ではない”と、言葉を選んだ」


「……巧妙だな」


「本当に巧妙ね。私が”嫌だ”と言えなくなる言い方。あの男に逆らうと、私が悪人になる仕組み」


宰相の合理性が、ここでも徹底している。

直接的な命令を避け、相手の罪悪感を利用する。

拒否すれば、自分が「悪い人間」になる構造を作る。


「……お前、それで折れたのか」


「折れた。十六歳の私には、抗う知恵がなかった。“そうですね、出力を維持します”と答えた。それで、終わり」


「……」


「以来、宰相が来るたびに、私は装置として答え続けた」


---


「一度、外に出たくなった」


エリスが続けた。


「十八歳の頃。窓の外を見て、ふと思ったの。“塀の外を見たい”って」


「館の外、ということか」


「そう。塀の外。王都の街でいい。人々の暮らしを、自分の目で見たい、と思った」


「……」


「次の月、宰相が来た時、聞いた。“少しだけでも、外に出てもいいですか”って」


「答えは」


「“聖女様の役目は、ここで結界を維持することです。外の世界は、聖女様には不要です”」


エリスが目を伏せた。


「“不要”」


声が、震えた。


「あの言葉が、十年で一番、傷ついた」


「……」


「外の世界が、不要。私には必要ない。結界を維持していれば、世界の何百万人と”繋がっている”から、それで十分でしょう、と」


「……理屈は通っている」


「通ってる。でも、繋がっているのは魂じゃなくて、魔力よ。私は、誰とも実際には会えない。話せない。触れられない」


エリスが顔を上げた。

紫の瞳が、雨の窓を映している。


「あの言葉以来、私は——“外に出たい”と言わなくなった。言っても無駄だから」


---


「二十二歳の時、限界が来た」


エリスが続けた。


「魔力の消耗が回復を超えた。結界の出力が徐々に下がり始めた。宰相が月に二度、三度、来るようになった」


「装置の故障、ということか」


「そう。装置が壊れかけてた」


エリスが小さく笑った。


「ある夜、決めたの。“このままだと、私は死ぬ”って。先代の聖女と同じように」


「先代——肖像画の十六歳の人」


「あの人と同じ運命を辿る、と確信した。だから——」


エリスが目を上げた。


「逃げた」


---


「館の警備は厳重だった」


エリスが続けた。


「魔法の鎖。塀。番兵。でも、私は王国の聖女。結界の管理者。館の中の魔法装置は、私の魔力で動いてた」


「……」


「だから、装置を逆に利用したの。塀の魔法の鎖を、私の魔力で一時的に無効化した。番兵には、軽い暗示魔法をかけて、眠らせた」


「……」


「夜中の三時、塀を越えた。生まれて初めて塀の外を歩いた」


エリスが少しだけ、笑った。

寂しいけれど、誇らしい、複雑な笑い。


「八年ぶりの、外の空気」


「……」


「街道を歩いた。何日歩いたかは覚えてない。眠るのは草むら。食べ物は、村で恵んでもらうか、店で盗むか」


「お前が、盗んだのか」


「盗んだわよ。聖女がね。パンを一個と林檎を二個……」


「……」


「二日後、追手が来た」


エリスの声が、低くなった。


「宰相直属の暗殺部隊が三人。私を捕まえに来た」


「殺されなかったのか」


「殺せるわけないじゃない。私が結界の核だもの。私が死ぬと、結界が崩れる」


「……」


「だから、生け捕り。麻痺の魔法を使われて、馬車で王都に戻された」


---


「館に戻されると、宰相が待ってた」


エリスが続けた。


「宰相は、何も怒らなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、静かに——」


エリスの声が、震えた。


「“次は、ありません”」


「……」


「“ありません”の意味は明確だった。次に逃げたら家族に手を出す。あるいは、結界の維持を別の方法で——たぶん、私の体を生かしたまま、意思だけ抜き取る方法で——維持する」


「……」


「私は、何も言えなかった。宰相は、ただ頷いて出ていった。それで終わり」


「以来、館の警備は、もっと厳重になった」


「そう。塀の鎖が増えた。番兵が増員された。窓に鉄格子が嵌められた」


「……」


「でも、私はもう逃げる気力がなかった。あの夜の脱出で、自分の魔力をほぼ使い切ってた。装置として、再起動するのに、半年かかった」


エリスが目を閉じた。


「半年後、装置は再稼働した。宰相は、それで満足したらしい」


---


「あの男から逃げる二度目のチャンスは、二年後」


エリスが続けた。


「結界の異常出力が起きたの。私が原因じゃない。たぶん、他の柱の——どこかの守り手が何かをした影響」


「……」


「結界が一時的に乱れた。その混乱の隙に、私はもう一度、塀を越えた。今度は、宰相直属の暗殺部隊じゃなくて城下警備の正規兵が追ってきた」


「正規兵なら、戦えるか」


「戦えない。私はもう、戦闘魔法をろくに使えなかった。十年の消耗で、攻撃魔法の感覚を失ってた」


「じゃあ、どうやって」


「逃げ続けた。眠らずに、食べずに、ただ走った。街道をひたすら東に、北に、南に。追手の軌道を読んで、避け続けた」


「……」


「八日目の夜、街道で力尽きかけた。倒れる寸前で、声が聞こえたの」


エリスが目を開けた。

紫の瞳が、こちらを見た。


「“おい。生きてるか”って」


「……」


「振り向いたら、黒髪の男が立ってた。死んだ目をした、無精髭の」


「……」


「あんたよ、駄犬」


エリスが小さく笑った。


「私たちが出会った夜の、私はそんな状態だった。八日間眠ってなくて、十年分の消耗で、もう立てなかった。あんたが声をかけてくれなかったら、私は街道で倒れて、追手に捕まってた」


「……」


「だから、私が王国を出られたのは——あんたのおかげなの」


---


雨が、強くなった。

窓を叩く音が、部屋を満たす。


俺は、何も言わなかった。


エリスが、お茶を一口飲んだ。

冷めかけたお茶だった。


「……あの夜、私を助けたあんたが、宰相にとって最も邪魔な存在になった」


「邪魔、というのは?」


「宰相は私を取り戻したい。でも、あんたがいる限り、私は捕まらない。あんたを始末すれば、私は孤立する」


「……カイルが言ってたな。次の暗殺部隊の標的は俺だと」


「そう。あの男の合理性は、ぶれない。私を取り戻す最短の道は、あんたを殺すこと」


「……」


「だから、いずれ——王都に戻ることになると思う」


「お前が、戻るのか」


「私たちが、戻るのよ。あの男を止めるために」


「……」


「結界の完全な解除のためにも、宰相と話さなきゃいけない。あの男の同意がないと、私は結界から自由になれない」


エリスがお茶を置いた。


「……今夜は、ここまで」


「ああ」


「明日、続きを話すわ。残ってる話は、あと一つ」


「一つ?」


「うん。あんたが知らない、ある話よ」


エリスがベッドに横になった。


「おやすみ、駄犬」


「おやすみ」


しばらくして、寝息が聞こえた。


俺は窓際の椅子で、雨を見ていた。


宰相ヴァルムンド。

冷徹で合理的な男。言葉で人を縛る男。

そして、次に俺を殺そうとする男。


いずれ、対峙することになる。

エリスが「私たちが、戻る」と言った。


俺も同意する。

あの男から、エリスを完全に解放するために。


雨が、夜通し降り続いていた。

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