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第44話_聖女になった日

旅の七日目。


朝から雨だった。


街道を歩き続けるのは無理な降りで、街道沿いの東屋で雨宿りすることにした。

木の屋根。石の床。風は通るが、雨は凌げる。


「……雨ね」


「雨だな」


「何もすることないわ」


「そうだな」


エリスが膝を抱えて、雨の街道を見ていた。


しばらくして、ぽつりと言った。


「……あの日の話、する?」


「あの日?」


「正式に、聖女になった日」


「話したいなら聞く」


「相変わらずね」


エリスが小さく笑った。


「そのほうが話しやすいけどね」


膝を抱え直して、エリスが話し始めた。


---


「儀式があるって言われたのは、十四歳の誕生日の朝だった」


「誕生日の朝か」


「そう。誰も祝わないって言ったでしょ。誕生日に、聖女の儀式の日程が告げられた。私への、唯一の誕生日プレゼント」


エリスの声は、淡々としていた。


「儀式は一週間後。それまでに、心と体を整えるように、と」


「整える、というのは」


「禊よ。沐浴、断食、瞑想。儀式の前に、雑念と汚れを落とすため」


「……」


「別に、汚れてなかったわ。塀の中で何も汚せない生活を、二年間してたから」


それはそうだ。


「儀式の日が、来た」


エリスが目を伏せた。


「白いドレスに着替えさせられた。髪を洗って、香油を塗って、額に小さな宝石を貼られた」


「宝石?」


「儀式用の魔石。最終的に、私の魔力に同化させて、結界の核に変える石」


「……」


「館から、馬車で王宮に運ばれた。生まれて初めての王宮よ。立派な建物だった、と覚えてる」


エリスが小さく息を吐いた。


「でも、向かった先は王宮の地下深く」


「地下、か」


「そう。“聖女の間”と呼ばれる場所。王宮の地下、五階か六階。階段を降りる時、空気が重くなった」


---


「“聖女の間”は、円形の広間だった」


エリスが続けた。


「直径十メートルくらい。床に複雑な魔法陣が描かれてる。壁には、過去の聖女たちの肖像画——」


「過去の聖女、というのは」


「私の前に、何人もいたの。王国の聖女は、代々続いてた。一人が亡くなると、次の聖女が立てられる」


「亡くなる、というのは」


「結界を維持する魔力の消耗で——あるいは、寿命を超えた使い方で——亡くなった人もいる」


エリスの声が、低くなった。


「肖像画は、十二枚あった。十二人の前任者よ」


十二人。


「全員、若かった。一番年上の人で、四十歳。一番若い人で、十六歳」


「十六……」


「その人が、結界の重さに耐えきれず、亡くなった。“あなたも、彼女のようにならないように”って、神官が言った。脅しよ」


「……」


「私は、何も言わなかった。十四歳の私には、もう、感情を表に出す力が残ってなかった」


エリスが続けた。


「広間の中央に、王と宰相が立ってた」


「宰相が」


「ヴァルムンドが。あの男が、儀式の主導者だった。神官は補助役」


「……」


「王は、形式的に立っていただけ。儀式の指揮を執ったのは、宰相」


「で、儀式は」


「私を魔法陣の中央に立たせて、神官たちが周囲を囲んで、詠唱を始めた」


エリスが目を閉じた。


「詠唱は、十二時間続いた」


「十二時間……」


「魔力の儀式は、長いの。半端な時間じゃ、結界と魂を結びつけられない」


「お前、立ち続けてたのか」


「立ち続けた。座ることも、水を飲むことも許されなかった。倒れたら、儀式が失敗する。失敗したら——たぶん、命がなかった」


エリスが目を開けた。


「だから、立ち続けた。十四歳で、十二時間、ぶっ通しで」


「……」


「途中で、何度も意識が遠のいた。でも、足を踏ん張って、立ち続けた。倒れたら死ぬ、と思ってたから」


倒れたら死ぬ。

それは、子供にかける言葉じゃない。


---


「儀式の最後に、宰相が呪文を唱えた」


エリスが続けた。


「古代語の長い詠唱。意味は、後で教わった。“聖女の魂と、王国の結界を、永久に結びつける”」


「永久に」


「永久に。解除には、別の儀式が必要。それも、宰相か、聖女本人の死をもってしかできない」


「……」


「呪文の最後、宰相が私の額の魔石に手を翳した。魔石が光って、私の魔力と、結界の術式が、繋がった」


エリスの声が、震えた。


「繋がった瞬間、私は——世界の声を聞いた」


「声?」


「比喩的な表現じゃないわ。本当に、声」


エリスが目を伏せた。


「結界の中に、王国の全部が含まれてた。何百万人の人々の生活の音。土地のざわめき。森の呼吸。川の流れ。山の鼓動」


「……」


「全部が、一斉に、私の頭の中に流れ込んできた。音じゃない。“存在”よ。何百万人の存在が、私の魂と、繋がった」


「お前、それを——」


「耐えた。耐えるしかなかった。耐えなければ、私の魂が砕ける。砕けたら、結界も崩れる。何百万人の命がかかってる」


「……十四歳で」


「十四歳で」


エリスが小さく笑った。

寂しい笑い方だった。


「だから、十四歳で、私は壊れた。完全には壊れなかったけど、何かが——根本的に、変わった」


---


「儀式の後、私は三日間、意識が戻らなかった」


エリスが続けた。


「目を覚ました時、館の自分の部屋にいた。額の魔石は、もうなかった。代わりに、肌に小さな印が残ってた。聖女の印」


「印は、今も?」


「ある。でも見えない。魔力に焼き付いてる印だから、肉体には残らない」


「魔力に焼き付く」


「そう。だから、私が王国を出ても、印は消えない。今も、私の魔力の中にある」


「結界との繋がりも、まだ生きてるのか」


「生きてる」


エリスが顔を上げた。


「完全には切れてない。儀式で結びついたものは、儀式でしか解けない。私の死か、宰相の同意がないと、解除できない」


「……」


「だから、私が王国を出た時、結界は完全には消えなかった。出力を最低限まで絞っただけ。今でも、結界の根幹は私と繋がってる」


「ということは——」


「そう。理論的には、私が魔力を流せば、王国の結界はまた動き出す」


衝撃的な情報だった。


「お前の柱は、折れたんじゃないのか」


「折れた、というのは比喩的な表現。実際には、出力ゼロの状態。でも、根幹は残ってる。私が魔力を流せば、再起動できる」


「……」


「ただし、再起動したら、また私の魔力が永続的に消費される。十年前と同じ。私が結界の装置に戻るということ」


「……それは」


「分かってる。だから、再起動はしない。でも、できる、ということ」


---


雨が、少しだけ強くなった。

東屋の屋根を、雨粒が叩く音が大きくなる。


俺は、しばらく考えた。


エリスが王国を出たのは、結界を捨てたわけではなかった。

出力を絞って、自分の魔力の供給を最小化した状態。

完全に切ってはいない。


ということは——


「……宰相が同意すれば、結界を完全に切れる」


「そう」


「宰相の同意が必要、ということは——いずれ、宰相と話すことになる」


「いずれは」


エリスが頷いた。


「私が結界から完全に解放されるには、宰相の同意がいる。でも、宰相は同意しない。あの男は、私を再び結界に組み込みたいと思ってる」


「だから、対峙が必要だな」


「いつかね。今すぐじゃない。でも、巡礼の旅が終わった頃、たぶん——」


エリスが言葉を切った。


「……でも、それは、また別の話よ」


「ああ」


「今日の話は、ここまで」


「了解」


---


雨が降り続いていた。


エリスが膝を抱え直して、東屋の柱に頭を預けた。

目を閉じている。


「……疲れた」


「話すのは、きついか」


「話すこと自体は、きつくない。ただ——思い出すと、体が反応するの」


「体が」


「儀式の時の感覚が、蘇る。十四歳の私が、まだ体の中にいる感じ」


「……」


「大丈夫。慣れてる」


慣れてはいけない、と思った。

だが、口には出さなかった。


エリスは、慣れることで生き延びてきた。

それを否定するのは、生き残った彼女自身を否定することになる。


「……雨が止んだら、出るか」


「そうね。次の宿場町まで、もう少しだから」


「了解」


エリスが目を閉じたまま、頷いた。


雨の音が続いていた。


エリスの「世界の声」を聞いた話を、頭の中で反芻した。


何百万人の存在が、一斉に魂に流れ込む。

それを、十四歳で耐えた。


俺の知っているエリスは、そういう経験を経た人間だった。

「性格最悪」と本人が言うこと。

「無給残業」と冗談めかすこと。

「駄犬」と人を見下すこと。


全部——あの十二時間の儀式と、十年間の維持と、その後の出奔から、できた人間だった。


俺は、何も言わなかった。


ただ、エリスの隣に座って、雨を見ていた。


それしか、できることはない。

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