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第43話 銀色の檻

朝、街道を出発した。


エリスはいつも通りに歩いていた。

昨夜の話の余韻はあるが、引きずってはいない。


「……お腹空いた」


「朝、食ったろ」


「あれは朝食。今は昼食前のお腹の話よ」


「まだ昼前だぞ」


「だからお腹空いたって言ってるの」


論理の問題ではないらしい。


街道沿いの草地で休憩を取った。

ヨルクが持たせてくれた干物がまだ残っている。塩気がきいていて、長持ちする。


エリスが干物を(かじ)りながら、空を見上げた。


「……ねえ駄犬」


「なんだ」


「昨日の話の続き、聞きたい?」


「話したいなら聞く」


「相変わらずね」


エリスが小さく笑った。


「じゃあ、続きね」


---


「王都に着いたのは、家を出て十日後だった」


エリスが話し始めた。


「馬車は雪の山を越えて、平原を進んで、街道を南下して——着いた時、私は十二歳になってた。誕生日が、馬車の中だった」


「……」


「誰も祝わなかった。私は何も言わなかった。馬車の中で十二歳になって、それで終わり」


声は淡々としていた。

昨日と同じ調子。だが、淡々としている分、重く伝わる。


「王都の中心から少し離れた場所に、館があった」


エリスが続けた。


「白い石造りの三階建て。庭が広くて、塀が高い。塀の上には、魔法の鎖が張られてた」


「鎖?」


「魔力を遮断する結界。出入りを管理するためよ。塀を越えようとすると、魔力で押し返される」


館といえば聞こえはいいが、要するに牢獄だ。


「館に入ると、女官が三人いた。私を風呂に入れて、髪を整えて、白いドレスに着替えさせて——応接間に連れて行かれた」


エリスが目を閉じた。


「応接間に、女の子が三人いた」


「……」


「全員、私と同じくらいの年齢。十一歳から十六歳。他の聖女候補よ」


「同期、ということか」


「そう呼ぶには、競争関係が露骨すぎたわ」


エリスが目を開けた。


「最初の日、神官が言った。“皆さんは、聖女候補として選ばれた。最も魔力の強い一人が、聖女として選ばれます。それまでは——お互い、励みあってください”」


励みあってください。

その言葉の裏に、何が隠されていたか。


エリスが続けた。


「励みあう、なんて、本気で思った人はいない。全員、分かってた。“選ばれなかった候補がどうなるか”を、誰も教えてくれなかったから」


---


「館の生活は、整然としていた」


エリスが干物を齧った。


「朝六時に起床。朝食は決まったメニュー。午前は魔術の授業。昼食。午後は結界の術式の授業。夕食。夜は礼儀作法、王国の歴史、各地の伝承——とにかく、聖女に必要な知識を詰め込まれる」


「外出は」


「できるわけないじゃない……」


予想通りの答えだった。


「窓も、夜は閉じられる。塀の外は見えない。外の世界は、授業で教わる王国の歴史だけ」


「……」


「他の候補との交流も、最低限。昼食の時間に同じテーブルに着くけど、会話は禁止。授業中に発言は許される、でも個人的な話は——禁止」


「徹底してるな」


「そう。候補同士が仲良くなると、選定の基準が揺らぐから。神官たちは”純粋な競争”を望んだ」


純粋な競争。

それは、結局——孤立だ。


「最初の半年は、誰とも口を利かなかったわ。話しても怒られるし、話したい相手もいなかった」


「しかし、館にいる間に、誰かと話したんじゃないか」


エリスが頷いた。


「一人だけ。十六歳の子。年長の候補」


「……」


「彼女は他の三人より落ち着いてた。たぶん、自分の魔力では選ばれないって、最初から分かってた。だから、競争に興味がなかった」


「名前は」


「……名前は、覚えてる。でも、言いたくない」


エリスが目を伏せた。


「言うと、思い出すから」


それ以上は聞かなかった。


「彼女と、深夜に一度だけ話したの」


エリスが続けた。


「館の廊下で、偶然会った。私は十二歳、彼女は十六歳。お互い、眠れなかった夜だった」


「何を話した」


「最初は何も話さなかった。ただ、月を見てた。塀の外は見えないけど、月だけは見えるから」


「……」


「彼女が、ぽつりと言ったの。“あなた、本気で選ばれたいの?”」


エリスが小さく笑った。

寂しい笑い方だった。


「私は、答えられなかった。選ばれたいかどうかなんて、考えたこともなかった。ただ、選ばれなければ家に帰れるかも、って、漠然と思ってた」


「……」


「彼女が言った。“選ばれなかった候補がどうなるか、知ってる?”」


声が低くなった。


「私は知らなかった。彼女は、知ってた」


「彼女が、教えてくれたのか」


「教えてくれた。“消される”って」


「……」


「具体的には、“知らない方がいい”って。“でも、家には帰れない。それだけは確か”って」


エリスが干物を見つめていた。

食べる手は止まっている。


「それを聞いた時、初めて——“選ばれなければならない”と思ったの。家には帰れないなら、せめて、生きていたい」


エリスが目を上げた。


「彼女は、自分が選ばれないことを知ってた。それでも、私に教えてくれた。自分が消えることを知ってる人が、私を救うために、教えてくれたの」


「……」


「彼女は、私に小さな本を渡した。“これ、外の話よ。読んだら燃やして”って」


「本?」


「旅人が書いた紀行文。様々な土地、温泉、食べ物の話」


「……」


「私は、その本を、何度も繰り返し読んだ。塀の中の十二歳の私にとって、それが”外”の唯一のイメージだった」


エリスが、空を見上げた。


「温泉の描写が、特に好きだった。“湯の温もりに身を委ね、我が魂は天に昇る心地”」


「……ポエムだな」


「そう。あんなにポエムなのに、私は何度も読んだ。塀の外の世界が、どんなものか想像するために」


そういうことか。


エリスが温泉に執着するのは、ただの温泉好きではなかった。

塀の中の十二歳の少女が、塀の外を想像するための——唯一の窓だった。


それを、今でも追いかけている。


---


「彼女と話せたのは、その夜だけ」


エリスが続けた。


「次の日から、館の警備が強化された。深夜の外出が禁じられた。誰かが見ていて、報告したんでしょうね」


「……」


「半年後、私の魔力が他の候補を圧倒した、と判定された。その日から、特別扱いが始まった。個別の授業。個別の食事。個別の部屋」


「他の候補は」


「最初は、同じ館にいた。でも、半年経ってから——一人ずつ、消えていった」


「消えていった、というのは」


「ある朝、起きると、一人がいない。次の朝、また一人。三人目もすぐに」


エリスの声が、淡々としていた。

だが、その淡々とした調子が——逆に重く伝わる。


「神官に聞いたわ。“他の候補は、どこに行ったんですか”って」


「答えは」


「“あなたの選定が確定したので、別の場所に移されました”」


「……」


「“別の場所”がどこか、教えてくれなかった。何度聞いても、同じ答え」


エリスが目を伏せた。


「あの三人——特に、本をくれた彼女——どこに行ったのか、私は今でも知らない」


「……」


「家に帰された、かもしれない。別の任務に就いた、かもしれない。でも——」


エリスの声が、途切れた。


「でも、たぶん——そうじゃない」


俺は何も言わなかった。


エリスが顔を上げた。

紫の瞳が、空を見ていた。


「考えても、答えは出ないわ。だから、考えないようにしてる」


「……そうか」


「ただ、本だけは——まだ覚えてる」


エリスが小さく笑った。


「あの本があったから、私は塀の中で正気を保てた。今でも、温泉の描写を(そら)んじることができるわ」


「諳んじてみせろ」


「はあ? 駄犬に聞かせるためじゃないわよ」


「いいから」


エリスが、少しだけ恥ずかしそうに言った。


「……“湯の温もりに身を委ね、我が魂は天に昇る心地。岩を伝う水音は、千の楽器の調べに勝る——”」


「……ポエムだな」


「ポエムよ。だからいいの」


エリスが、干物の残りを口に入れた。


その横顔を見ながら、思った。


エリスが今も「温泉、温泉」と言い続ける理由。

エリスの「温泉、温泉」という執着の根に、こんな寂しい記憶があったとは。


塀の中の十二歳の少女。

本を渡してくれた、十六歳の年長の候補。

消えた他の三人の候補。


エリスが守ってきたのは、結界だけじゃない。

あの夜の月。あの本。あの少女の声。


塀の中で唯一与えられた、誰かの優しさ。

それを今も、忘れずに抱えている。


俺は、何も言わなかった。


---


「……今日は、ここまでね」


エリスが立ち上がった。


「歩くわよ。日が暮れる前に、次の村に着きたいの」


「了解」


街道を歩き出した。


俺は、エリスの少し後ろを歩いていた。

銀髪が風に揺れている。


塀の中で、塀の外を想像した少女。

今は塀の外を歩いている。


「外」を歩く十二年目の経験を、俺は隣で見ている。


それだけのことが——たぶん、エリスにとっては大きな意味を持つ。

本人が自覚しているかどうかは、分からないが。


エリスが振り向いた。


「遅いわよ、駄犬」


「ああ」


「歩幅、合わせなさい」


「了解」


少し早足で、エリスの隣に並んだ。


エリスは、それ以上何も言わなかった。

ただ、半歩分だけ、近づいた。


それで、十分だった。

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