第42話 売られた日
街道の旅は、五日目になっていた。
宿場町に着いたのは夕方だった。
中規模の町。宿は四軒。市場もある。
宿を取って、夕食を済ませた後、エリスがベッドの端に座って、足をぶらぶらさせていた。
何かを言いたそうな、でも切り出せないような顔で。
俺は窓際の椅子に座って、湯を沸かしていた。
急かすことはしない。エリスのペースで話せばいい。
しばらくして、エリスが口を開いた。
「……ねえ駄犬」
「なんだ」
「私の話、聞きたい?」
「話したいなら聞く」
エリスが小さく笑った。
「相変わらず、優しいのか冷たいのか分からない返事ね」
「どっちでもない。そのままだ」
「そのままね」
エリスが膝を抱えた。
「……話す。でも、長くなるから、今夜は途中まで」
「了解」
湯が沸いた。
お茶を二杯入れて、一杯をエリスに渡した。
エリスが両手で受け取った。
カップから立ち上る湯気を見つめて、ゆっくりと、話し始めた。
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「……私の生まれた村は、北方の山の麓にあったの」
エリスの声は、遠かった。
「人口は五十人くらい。小さな村。畑と、牧畜と、それだけで暮らす場所。雪が深くて、冬は半年。短い夏に小麦を作って、保存食を蓄えて、また長い冬」
「北方らしい村だな」
「そう。あんなに辺境で、王国とは関係ない場所にいたのに——どうして見つかったのかしらね」
エリスがお茶を一口飲んだ。
「父は普通の農夫だった。背が低くて、顔が日に焼けてて、笑うとしわが深くなる人。母は、村ではちょっと変わった存在だった。銀髪で、紫の瞳で——他の村人とは見た目が違った」
「お前と同じ髪と瞳の色だな」
「そう。私は母似なの。弟は父似で、黒髪だった」
弟の話。
昨日、初めて聞いた。
「弟は、五歳下の男の子。私が連れて行かれた時、まだ五歳だった」
「……名前は」
「ライ。ライって呼んでた。ライムント、が本名」
ライ。
口に出すと、エリスの声が少しだけ柔らかくなった。
「ライは、いつも私の後ろをついてきた。“ねえちゃん、ねえちゃん”って。うるさかった。でも、嫌じゃなかった」
エリスが目を伏せた。
「……あの子、たぶん、もう十九歳ね」
「そうだな」
「会いたい、とは思わない。でも——」
エリスが言葉を切った。
「でも、たまに思い出す。生きてるかな、って」
「……」
「気になっても、確かめる気はないの。会って、何を話すの? って」
それは、昨日聞いた言葉と同じだった。
エリスは、自分から会いには行かない。
過去を取り戻したいわけじゃない。
ただ、思い出すだけ。
俺は、何も言わなかった。
急かさない、解釈しない。
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「あの日は——冬の真ん中だった」
エリスが、本題に入った。
「雪が深くて、村と外は、ほぼ遮断されていた時期。なのに、馬車が来た」
「王国からか」
「そう。馬は雪に強い品種で、御者は王国の正規兵。荷台には、神官が二人と——宰相府の使者が一人」
エリスの声が、わずかに硬くなった。
「使者は丁寧な人だった。父と母を呼んで、応接間——うちには応接間なんてなかったから、台所のテーブルに座って——話を始めた」
「神託、だったか」
「そう。“神託により、ご令嬢を聖女として迎えたい”。そう言われた」
「神託、というのは」
「嘘よ。後で分かったけど、神託じゃなかった。王国は、各地に魔力探査の魔道具を送って、強い魔力を持つ少女を探していたの。網に引っかかったのが、私だった」
「神託、というのは方便か」
「方便。“国の意思”だと言うと反発されるけど、“神の意思”だと言うと、村人は受け入れやすいから」
宰相の手口だ。
合理的で、効果的で、人を傷つけることに躊躇いがない。
「……父は、どう答えた」
「父は、迷ってた。でも、報奨金が示されたの」
「金、か」
「金貨百枚」
声が一段、低くなった。
「村の十年分の収入よ。父は、一週間考えると言った。だけど、その夜、ほとんど決めていた」
「決めた、というのは」
「応じる、ということよ」
エリスが膝を抱える腕に力を込めた。
「父は、悪い人じゃなかった。普通の人。家族のため、村のため、と理由をつけていた。実際、村の他の家も生活が苦しかった。父が金貨百枚で受け入れれば、村全体の状況が変わる、って」
「……」
「正しい判断だった、と今でも思う。父の立場なら」
「お前を売った父を、許しているのか」
エリスが顔を上げた。
「許してないわよ……一生許さないと思う」
紫の瞳に、初めて怒りに近いものが宿った。
「許してないけど、判断としては正しかったって思ってる。それは別の話」
「……そうか」
「父を恨んでも、何も変わらない。だから、許すことも恨むこともしないで、ただ”あの人はあの判断をした”と覚えてる」
それが、エリスの整理の仕方だった。
感情を否定するわけでもなく、無理に飲み込むわけでもなく。
ただ、事実として置いておく。
たぶん、これが——使い潰された人間が、心を保つ方法なのだ。
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「母は、反対した」
エリスが続けた。
「父が応じる、と決めた夜、母が私の部屋に来た。私の手を握って、泣きながら言った」
エリスの声が、初めて震えた。
「“あなたの魔力は、世界の柱の系譜よ。王国の道具にしてはならない”」
「……世界の柱」
「そう。母は知っていたの。私が、ただの聖女候補じゃないって。守り手の系譜の血を引いてるって」
ヘルガが言っていたのと、同じ言葉だ。
エリスの母は、本当に守り手の系譜の人間だった。
「母は、夜中に父と何度も話した。私は布団の中で、声だけ聞いてた」
エリスが目を閉じた。
「“あの子を渡してはいけない”。“村のためなんて言わないで”。“あの子の魔力を奪われたら、世界が——”」
「父は、聞かなかった」
「聞かなかった。最後には、父が大きな声で言ったの」
エリスの声が、低くなった。
「“お前の話は、いつも夢物語だ。世界の柱とか、守り手の系譜とか、そんなものは存在しない。現実を見ろ”」
「……」
「母は、それで黙った。父は、そう言うことで、自分自身も納得したんだと思う。“夢物語だ”って。“だから売っても問題ない”って」
「……」
「次の日、馬車が来た。父は受け取った金貨を懐に入れた。母は——」
エリスの声が、また震えた。
「母は、私を抱きしめて、小さな袋を渡したの」
「袋?」
「守り袋。布で作った、小さな袋。中に何が入ってるかは、開けるなって言われた」
「いつ開けるんだ」
「“いつか、自分で選べる日が来たら、これを開けて”」
エリスが目を開けた。
「それが、母の最後の言葉。私は何も言わずに、馬車に乗せられた。雪の中を、王都に向かって。母は——窓から、ずっと見てた。私が見えなくなるまで」
「弟は」
「ライは、何が起きてるか分かってなかった。“ねえちゃん、どこ行くの?”って。母が、抑えてた」
エリスが、お茶のカップを両手で握り直した。
冷めかけたお茶を、一口飲んだ。
「……それが、私が家を出た日」
「……ああ」
「以来、家には戻ってない。手紙も書けなかった。聖女候補は、外との連絡を禁じられてたから」
「……」
「母も、父も、ライも——あれから一度も会ってない」
エリスが小さく息を吐いた。
「会いたい、とは思わない。でも——たまに、思い出す」
それが、繰り返しの答えだった。
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「……守り袋、どこにあるんだ」
俺は聞いた。
エリスが、寂しそうに笑った。
「捨てた」
「捨てた?」
「十六歳の時。聖女になって二年経った頃。ある夜、あの袋を見つけたの。荷物の隅に、ずっと残ってた」
「……」
「開けようとした。“自分で選べる日が来たら”って、母は言った。でも——」
エリスがカップを置いた。
「私は、もう選べないと思ってた。十六歳で、聖女になって、結界に組み込まれて、外には出られない。“自分で選べる日”なんて、来ない」
「……」
「だから、捨てた。窓から、外に。雪の中に。母の最後の願いを、自分で否定した」
エリスが膝に額をつけた。
「……あの時、捨てなければ良かった、って思うわ」
「……」
「今なら、開けられる。“自分で選べる日”が、来たから」
俺は、椅子から立ち上がって、エリスの隣に座った。
ベッドの端に。
何も言わなかった。
ただ、隣に座った。
エリスが、しばらく俯いたままだった。
少しして、顔を上げた。
目は赤かった。だが、涙は流していなかった。
「……今夜は、ここまで」
「ああ」
「続きは明日話す」
「了解」
エリスが立ち上がって、ベッドに横になった。
毛布を被って、背中を向けた。
「……おやすみ、駄犬」
「おやすみ」
しばらくして、寝息が聞こえた。
俺は窓際の椅子に戻った。
窓の外を見た。
夜空に、雲が流れていた。
星は見えない。
エリスの母が捨てさせた——いや、エリスが自分で捨てた守り袋。
中に何が入っていたのか、もう永遠に分からない。
「自分で選べる日が来たら、これを開けて」。
母は、エリスがいつか選べる日が来ると、信じていたのだ。
たとえ娘が王国に売られても、いつか自由を取り戻すと。
母の信頼を、十六歳のエリスは捨てた。
絶望の中で、希望そのものを否定した。
——でも、今のエリスは、自由を取り戻した。
母の願いは、一度遅れて、叶った。
そのことを、エリスはまだ気づいていない。
気づいたら、たぶん——もっと深く、傷つく。
だから、今は言わない。
エリスが自分で気づいた時、隣にいればいい。
それでいい。
夜が深まっていった。




