第41話 東の街道、銀色の記憶
ヴァルクハイムを発って一週間。
雪国は徐々に遠ざかっていった。
山を一つ越えるごとに気温が上がり、雪原は灰色の枯れ野に、枯れ野は緑の混じった野原に変わっていく。
エリスの装備も少しずつ軽くなった。
毛皮のコートは脱いで荷物に。マフラーも手袋も外した。今は普通のローブに、薄手の外套を羽織っている。
「……あったかい」
何度目かのその言葉。
寒さから解放された後の、しみじみとした感想だった。
「人間って、温度差で生き返るのね」
「お前一人の話だろ」
「私にとっては死活問題よ。北方は私の体質に合わないの」
「お前、北方の血を引いてるはずなのに」
「それでも合わないものは合わないの」
論理が破綻している。
だが、機嫌が良さそうなので、追及しないことにした。
東の山脈までは、まだ三週間。
街道沿いの景色は穏やかだ。
時折、農村が現れる。住民は素朴で、二人連れの旅人を不思議そうに見るが、敵意はない。
雪国の緊張が、徐々に解けていく。
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旅の四日目。
街道沿いの小さな村に立ち寄った。
人口は百人ほどだろうか。井戸が一つ、宿が一つ、雑貨屋が一つ。それだけの集落。
休憩のために雑貨屋の前のベンチに座っていると、近くで子供たちが遊んでいた。
四、五人の集団。鬼ごっこをしているらしい。
笑い声が響く。
その中に——
「……あの子」
エリスが声を漏らした。
子供たちの中に、一人だけ目立つ少女がいた。
他の子供は黒髪や栗色の髪なのに、その子だけ——銀色に近い、灰銀の髪をしていた。
七歳くらいだろうか。
細い体で、走り回っている。
エリスがその少女を見つめていた。
「……北方系ね」
「ああ」
「銀髪は、北方の血を引いてる証よ。純粋な銀髪は私みたいに濃いけど、薄い灰銀でも、血は入ってる」
少女が転んだ。
手を擦りむいて、泣きそうな顔になった。
だが、近くにいた母親らしき女性が駆け寄って、抱き上げた。
「大丈夫、大丈夫。すぐ治るからね」
母親の髪は普通の栗色だった。
父親が北方系だったのだろう。
エリスが立ち上がった。
「……話しかけてくる」
「大丈夫か」
「子供にちょっかい出すわけじゃないわ。母親と話すだけ」
エリスが歩いていった。
少女と母親の前で立ち止まり、丁寧に挨拶している。
聖女の声、ではない。普通の旅人の声だった。
「すみません、銀髪のお子さんを見て、つい」
母親が顔を上げた。
「あら、お姉さんも銀髪ですね」
「ええ。私も北方の血を引いてるみたいで」
「やっぱり。うちの夫がそうなんですよ。今、畑に出てて」
少女が母親の足元から、エリスを見上げていた。
キラキラした目で。
エリスがしゃがんで、少女に目線を合わせた。
「お名前は?」
「アンナ」
「いい名前ね。アンナちゃんは、お母さんっ子?」
「うん!」
少女の笑顔が、純粋だった。
母親に守られている子供の、何の影もない笑顔。
エリスが、何かを確認するように、少しだけ笑った。
「アンナちゃん、お母さんを大事にね」
「うん!」
エリスが立ち上がって、母親に頭を下げた。
「ありがとうございました。素敵なお子さんですね」
「いえいえ、こちらこそ」
エリスがベンチに戻ってきた。
少しだけ、背中が硬かった。
「……行くか」
「行きましょう」
村を出た。
街道を東へ、また歩き始めた。
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日が傾く頃。
街道沿いの草地で、休憩を取った。
焚き火を起こして、保存食を温めている。
エリスが膝を抱えて、焚き火を見ていた。
何かを話したそうな、でも切り出せないような、そんな顔をしていた。
俺は黙って、湯を沸かしていた。
急かさない。エリスのペースで話せばいい。
しばらくして、エリスが口を開いた。
「……ねえ駄犬」
「なんだ」
「私の母も、銀髪だったの」
唐突だった。
「……そうか」
「アンナちゃんを見て、思い出した。母が、私を抱き上げてくれた頃のこと」
エリスの声は、遠かった。
「父は、普通の農夫だった。母が北方系で、銀髪で、たぶん——母の方が、父より少しだけ強い人だった」
「強い、というのは」
「魔力じゃなくて、人としてよ。母は、自分が何者か知ってた。父は知らなかった」
「……」
「母は、北方の守り手の系譜の血を引いてた。元・聖女候補だったの。だけど結局、選ばれなかった。代わりに、母は普通の村に戻って、父と結婚して、私と弟を産んだ」
弟。
初めて聞いた情報だった。
「……弟がいるのか」
「いた。たぶん、今も生きてるはず。私が連れて行かれた時は、まだ五歳だった」
エリスの目が、焚き火の炎を見つめていた。
「私が北方系の銀髪を見て、つい話しかけたくなったのは——たぶん、母を思い出すから。あと、弟を」
「……」
「会いたい、って思ったわけじゃないのよ。会いたくない方が強いの。今さら、何を話すの? って」
エリスが小さく笑った。
寂しい笑い方だった。
「でも、銀髪を見ると、母を思い出す。それだけ。深い意味はないわ」
俺は、湯が沸いた鍋を火から下ろした。
「……話したかったら、話せ」
「え?」
「お前の話が聞きたい」
エリスが顔を上げた。
紫の瞳が、焚き火の光を映している。
「……聞いて、どうするの」
「どうもしない。ただ、聞くだけ」
エリスがしばらく、こちらを見ていた。
「……話したくなったら、もう少し話す」
「ああ」
「今日は、ここまで」
「了解」
エリスが膝を抱え直した。
それ以上は何も言わなかった。
俺も何も聞かなかった。
焚き火がパチパチと爆ぜている。
湯が静かに湯気を立てている。
エリスは無言で、夜空を見上げていた。
星が出始めていた。
雪国にいた時の星空とは、少しだけ違う星座だった。
南へ来たから、見える星も変わったのだろう。
エリスが、ぽつりと言った。
「……母も、今頃、どこかでこの星を見てるのかしら」
「……かもな」
「だといいわね」
それ以上は、続かなかった。
夜が深まっていった。
焚き火の音だけが、二人の間に流れていた。
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その夜、エリスはいつもより早く眠った。
毛布にくるまって、銀髪を枕に広げて。
寝顔は、いつもと同じだった。
俺は焚き火の番をしながら、エリスを見ていた。
母を思い出す、と言った。
弟がいる、と言った。
これまで、エリスの過去について、断片的に聞いたことはあった。
「十年間、無給残業」「結界を維持していた」「王国に使い潰された」。
でも、その前——「結界に組み込まれる前」のことは、ほとんど知らなかった。
家族がいたこと。
母が銀髪だったこと。
弟がいて、まだ五歳だったこと。
知らなかった。
聞かなかったから。
聞くタイミングがなかったから。
たぶん、これから——少しずつ、聞くことになるだろう。
エリスが話したくなった時に。
エリスのペースで。
俺は、ただ聞く。
急かさず、解釈せず、慰めず。
それが、たぶん——今の俺にできる、唯一のことだ。
焚き火の炎が、揺れていた。
東の山脈は、まだ遠い。
旅は、まだまだ続く。




