第40話 断っていい
翌朝。
エリスは正午まで眠っていた。
魔力の枯渇からの回復には時間がかかる。
俺は宿の食堂で朝食を済ませ、部屋に戻って椅子に座っていた。
エリスの寝顔を見ながら、一晩で考えたことを整理していた。
巡礼。
七つの柱を見て回る旅。
これからの数年——あるいは、それ以上。
エリスが選んだ。
俺はそれに付き合う。
それだけだ。
それだけのはずだ。
でも、心の中で何かが落ち着かない。
言葉にしにくい何か。
たぶん、エリスがまた使い潰されるのではないか、という不安。
「使い潰される」と言うと、エリス自身は反論するだろう。
「私が選んだ」と言うはずだ。
でも、誰かのために自分を削ること。
それが正しい選択だとしても——
完全には、納得できない部分が、俺の中にある。
---
正午過ぎ、エリスが目を覚ました。
「……お腹空いた」
第一声がそれだった。
普段通りの、安心する第一声。
「飯、買ってくる」
「ヘルガの所には?」
「夕方に。お前が起きるまで待つって伝えてある」
エリスが頷いた。
ベッドから起き上がろうとして、ふらついた。
「……まだ無理ね」
「寝てろ」
「食べてから寝るわよ」
「了解」
市場で温かいスープと焼きたてのパンを買ってきた。
エリスは半分ほど食べて、また眠りに落ちた。
魔力の回復には食事も重要だ。
量は食べられないが、エネルギーが必要なのだ。
---
夕方。
エリスが目を覚まして、立てるくらいまで回復した。
二人で神殿に向かった。
ヘルガは、神殿の入口で待っていた。
昨日と同じ白い毛皮の旅装。
「来てくれてありがとう」
ヘルガが頭を下げた。
深く。一礼の長さが、感謝の重さを物語っていた。
「ヴァルクハイムを、救ってくれた。本当に」
「礼はいいって言ったでしょ」
エリスが軽くいなした。
「言ったわね。でも、言わせてほしい。住民の代わりに」
ヘルガが顔を上げた。
青い瞳が、エリスを真っ直ぐに見ていた。
「あなたを誤解していた。あなたは責任を放棄したのではなく、別の形で果たそうとしていた」
エリスが目を伏せた。
「……勝手に解釈しないでよ。私は応急処置をしただけ」
「それでも」
ヘルガが続けた。
「あなたは、自分の意志で柱を修復した。誰かに強制されたのではなく、自分で選んで」
「……」
「それは、十年前のあなたにはできなかったことよ」
エリスの肩が、僅かに揺れた。
ヘルガが俺を見た。
「アルレン」
「ああ」
「彼を……大切に。彼があなたを支えている」
エリスが顔を背けた。
銀髪が顔を隠す。
「……勝手に言わないで」
声が小さかった。
ヘルガが微笑んだ。
昨日初めて見た、温度のある笑い。
「あなたたち二人を信じてる。巡礼の旅の無事を祈ります」
「……ありがとう」
エリスが、消え入りそうな声で言った。
---
ヘルガから、巡礼の地図を渡された。
七つの柱の所在地が記されている。北の柱は確認済み。
王国の柱は折れているので実質、残り五つ。
「次の柱は、東の山脈にあるわ」
ヘルガが地図の一点を指した。
「東の山脈の、地下深く。守り手は——リーフ。年配の男性。少し変わってる」
「変わってるって?」
「会えば分かる」
ヘルガは詳しく説明しなかった。
笑いながら言ったので、悪い意味ではないらしい。
「リーフには、私から先触れを送っておく。氷の使者を飛ばすから、3日後には到着する」
「便利な使者ね」
「守り手同士の連絡網があるの。本来は、あなたも王国時代に使えるはずだった」
エリスが目を見開いた。
「使えなかったのは——」
「宰相が、あなたを孤立させていたから。連絡網の存在自体を、あなたに教えなかった」
エリスが拳を握った。
怒りが、また少し熱を持っていた。
「……ヘルガさん」
「何」
「巡礼の旅が終わったら——」
「いいえ。終わらないかもしれない」
ヘルガが先に言った。
「柱の維持は、守り手の生涯の務め。終わりはない。あなたが選んだ以上、それは」
「……分かってます」
「でも、一つ言わせて」
ヘルガが、エリスの肩に手を置いた。
「無理はしないで。あなたは、応急処置だけでいい。完全な維持を引き受ける必要はない。守り手の本義は、自分の柱を守ることよ」
「私の柱は、もう」
「あなたの柱は折れた。だからあなたは、自由に動ける守り手。各地を巡って、応急処置を施す。それで十分」
それが、ヘルガなりのエリスへの優しさだった。
「……ありがとう」
エリスが目を伏せた。
---
神殿を出た。
雪は止んでいた。
夕焼けが、雪原を赤く染めている。
二人で、宿への道を歩いた。
エリスは黙っていた。
俺も黙っていた。
途中、エリスが立ち止まった。
「……駄犬」
「なんだ」
「ねえ、私……」
エリスが言葉を探していた。
「私、また結界の修復を頼まれたら、どうしたらいい?」
問いかけだった。
俺は、考えた。
昨夜から考えていたことだった。
「……断っていい」
「え?」
「断っていい。お前はもう聖女じゃない」
エリスが目を見開いた。
「でも、断ったら——」
「困る人がいる。分かってる」
「それなのに、断っていいって」
「困る人を助けるかどうかは、お前が決めろ」
エリスが、口を開きかけて、閉じた。
「“聖女だから助けるべき”じゃない。“昔そうだったから助けるべき”でもない」
俺は続けた。
「お前が、“自分がそうしたい”と思った時だけ、助けろ。思わなかった時は、断っていい。誰にも責められる筋合いはない」
エリスの目が揺れた。
「……でも、断ったら、誰かが死ぬかもしれない」
「ああ」
「それでも、断っていいの?」
「断っていい」
「……」
「世界を救う義務は、お前にはない。お前は十四歳で連れて行かれて、十年間使い潰された。もう十分すぎるくらい働いた」
ヘルガが昨日言った言葉と、似た言葉になった。
「もちろん、お前が”今度は自分の意志で世界を救いたい”と思ったなら、それは支持する。でも、義務感や罪悪感で動くなら——断っていい」
エリスが俯いた。
銀髪が顔を隠す。
しばらく、沈黙が続いた。
雪原に、夕日が沈んでいく。
赤い光が、二人の影を長く伸ばしていた。
エリスが、ぽつりと言った。
「……十年間、誰も言ってくれなかった」
「何を」
「断っていい、って」
声が、震えていた。
「みんな、“聖女様、お願いします”って言うばかりで。“嫌なら断っていい”って、誰一人言わなかった」
「……」
「断れる、って思ったことすら、なかった」
エリスが顔を上げた。
紫の瞳に、夕日が映っている。涙ではない。光だ。
「……ありがと、駄犬」
「ああ」
「あんた、本当に……」
エリスが言いかけて、止めた。
「……何でもない。歩くわよ。寒い」
「了解」
二人で、また歩き出した。
少し前を歩くエリスの背中に、夕日が当たっている。
銀髪が、赤く染まっている。
その背中は、昨日より少しだけ——軽く見えた。
---
宿に戻って、夕食を済ませた。
エリスがベッドの端に座って、足をぶらぶらさせていた。
「明日、東に発つわよ」
「了解」
「東の山脈までは、三週間くらい?」
「地図によるとな」
「長いわね」
「長いな」
「途中、温泉あるかしら」
「探すか」
「探すのよ。当然でしょ」
巡礼の旅でも、温泉の優先順位は変わらない。
この女のブレなさは、たぶん長所だ。
「……駄犬」
「なんだ」
「“自分がそうしたいから”」
「うん」
「私、北の柱を修復したのは——」
エリスが言葉を切った。
「……たぶん、ヘルガが死ぬのを見たくなかったから」
「ああ」
「義務じゃなくて、嫌だったから。だから、やった」
「……それでいい」
「これからも、そう? 嫌だから助ける、っていう動機で」
「いい動機だ。聖女より、よっぽど人間らしい」
エリスが、小さく笑った。
「……人間らしいって、初めて言われた」
「そうか」
「うん。聖女様じゃなくて、人間。……悪くない響きね」
エリスが毛布を被った。
「寝るわ。明日、早いんだから」
「ああ」
「おやすみ、駄犬」
「おやすみ」
しばらくして、寝息が聞こえた。
窓を見た。
雪は止んでいる。明日は晴れそうだ。
エリスは選んだ。
「自分がそうしたいから」助ける、と。
それは、義務ではない。
強制ではない。
選択だ。
自分の意志による、選択。
それを掴むのに、十年以上かかった。
でも——掴んだ。
俺は椅子に深く腰掛けて、目を閉じた。
明日から、東への旅。
新しい柱。新しい守り手。
そして、まだ見えない未来。
面倒だ。
全部面倒だ。
でも——「面倒」と言える日々が続くなら、それで十分だ。
エリスの寝息を聞きながら、目を閉じた。
雪国の夜は、静かだった。




