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第38話 結界柱の異変

朝。


ヘルガが宿の前で待っていた。


昨日の白いローブではなく、白銀の毛皮を纏った旅装だった。腰に細い剣を帯びている。装飾は最低限。実用一辺倒の装備。


「行きましょう。柱は山の中よ」


それだけ言って、雪原に向かって歩き始めた。


エリスも完全防備で続く。

俺も冬装備で。といっても、薄手の外套だけだが。


「……アルレン、寒くないの?」


ヘルガが横目でこちらを見た。


「体温が高い。普通の冬装備で十分だ」


「……元勇者というのは便利ね」


「便利、と言われるほどのものでもない」


ヘルガは小さく頷いただけだった。

詮索しない態度が、こちらにも楽だった。


---


雪原を一時間。


街を出ると、すぐに白の世界だった。

膝まで沈む雪。だがヘルガは慣れた足取りで歩いていく。エリスは魔法で足元を凍らせ、滑るように移動している。


俺は普通に歩いた。

力任せに雪をかき分けて。三歩進むと、進路が掘れている。後ろから追ってくる二人にとっては道になっていた。


「……便利な男ね」


ヘルガが言った。


「使えるものは使ってください」


「ねえ、ヘルガさん」


エリスが声をかけた。


「北の柱、どこまで行くの?」


「あと二時間」


「……長いわね」


「途中、魔獣がいるかもしれない。覚悟して」


ヘルガの声が、事務的だった。


魔獣。

予想していた。柱が弱体化しているなら、結界の効果も落ちている。山岳地帯の魔獣が、人間の生活圏に出てきてもおかしくない。


「数は」


「分からない。でも、最近は群れで動いている」


群れ。

飛竜の時を思い出す。あれは結界の崩壊が顕在化した最初の戦闘だった。


腰の欠片に、無意識に手が触れた。

オリハルコンが冷たい空気の中で、僅かに脈動している。


---


二時間。


風が変わった。


魔力の匂い。獣の気配。


「来るわよ」


ヘルガが立ち止まった。剣の柄に手をかける。


エリスも足を止めた。指先に紫の光が灯る。


雪原の向こうから、白い影が三つ、四つ——五つ。


雪狼だ。

普通の狼ではない。一回り大きい。白い毛皮の下で魔力が脈動している。目が赤い。


「……五匹」


「処理する」


欠片を抜いた。


「アルレン、待って」


ヘルガが手を挙げた。


「私の領域よ。私が前に出る」


「は?」


「礼儀の問題。この辺りは私が守っている。よその守り手の前で、客に戦わせるわけにはいかない」


守り手の流儀らしい。

正直、五匹くらいなら俺一人で十秒だが、断る理由もない。


「了解」


ヘルガが前に出た。


剣を抜く。細身の剣。だが鞘から出た瞬間、刀身に氷の魔力が宿った。


雪狼が突進してきた。先頭の一匹が、ヘルガに飛びかかる。


ヘルガが横に半歩ずれ、剣を一閃。


雪狼の首が落ちた。即死。


二匹目が来る前に、ヘルガが指を弾いた。

氷の槍が空中に生成され、二匹目を貫いた。


三匹目、四匹目、五匹目。

ヘルガが連続で氷の槍を放った。一発ずつ、正確に。


三十秒。


五匹の雪狼が、雪原に転がっていた。


「……お見事」


「礼儀よ。客の前では恰好をつけるの」


ヘルガが剣を鞘に戻した。

息も乱れていない。


エリスが横で囁いた。


「強いわね。でも消耗が大きいわ。氷の槍は精密制御を要するから」


エリスの観察眼は鋭い。


「魔力、大丈夫ですか」


ヘルガに声をかけた。


「問題ない。これくらいで弱るほど、私は鍛え方が浅くないわ」


強がりだ。

その目には、微かな疲労があった。


柱が弱体化している分、ヘルガが個人の魔力で補っている。

雪狼五匹を処理するだけでも、明らかに普通より消耗している。


「……行きましょう。あと一時間」


ヘルガが歩き出した。


---


山の中腹に、洞窟があった。


入口は氷で封じられている。

ヘルガが手をかざすと、氷がゆっくりと開いた。

彼女の魔力が、洞窟を守っている。


「中に入るわ。気をつけて」


洞窟の内部は、想像と違った。


真っ青だった。

壁も天井も床も、青い氷。光源は見当たらないのに、内側から淡く発光している。


「……綺麗ね」


エリスが呟いた。


ヘルガが先に進む。

洞窟は奥に向かって続いている。緩やかな下り坂。氷の床は滑りそうだったが、ヘルガの足取りに乱れはない。


十分歩いて、最奥に着いた。


そこに——あった。


氷の柱。


高さは五メートル。直径は人ひとり分。

透明な氷の中に、青白い魔力が脈動している。

規則的な明滅。だが、その光が——明らかに弱い。


エリスが息を呑んだ。


「……これが」


「私の柱」


ヘルガが柱に近づいた。手をかざす。


「触らないで」


エリスに釘を刺した。


「守り手以外が触れると、柱が拒絶反応を起こす。私が触れるのも最低限よ」


ヘルガが目を閉じた。


柱の脈動が、ヘルガの呼吸に合わせるように変わる。

同期している。守り手と柱は、繋がっている。


しばらくして、ヘルガが目を開けた。


顔色が、来た時より青い。


「……これが、私の柱の現状」


ヘルガが振り向いた。


「あなたの柱が消えてから、明らかに脈動が弱っている。一年前の半分以下の出力」


エリスが柱を見上げた。


「……」


「魔獣が増えている理由はこれよ。柱の出力が落ちると、結界の範囲が狭まる。山の奥にいた魔獣が、人里に近づいてくる」


「魔獣だけ?」


「他にもある。気候の異常。地脈の乱れ。植物の枯死。じわじわとね。住民は気づいていないけれど、私には分かる」


「……」


エリスが黙って、柱を見つめていた。


「修復は——」


エリスが言いかけて、口を閉じた。

何かを聞きたかったが、まだ聞くべきではないと判断したらしい。


ヘルガが続けた。


「柱の修復には、守り手の魔力が必要。本来は私一人で十分だった。十年前までは」


「……十年前?」


「あなたの柱が消えてから、私の負担が増えた。一人では補いきれない。だから、徐々に弱っている」


ヘルガが柱に手をついた。


「私は、間に合うと思っていた。新しい守り手が——あなたの後継が立てば、と。だけど、王国は新しい聖女を立てなかった」


「……立てなかった?」


ヘルガが目を細めた。


「ええ。普通なら、聖女が辞めれば後継候補を選定する。十四年前にあなたが選ばれた時、他にも候補はいたはず。なのに、王国はそれを放置した」


エリスが息を呑んだ。


「それって……」


「あなたを連れ戻すつもりだった、ということでしょうね」


「……」


宰相だ。

あの男は、新しい聖女を立てなかった。エリスを連れ戻して、再び結界に組み込むつもりだった。


エリスが従わなければ、「相応の措置」で口を封じる。

従えば、再び十年の使い潰し。


宰相の合理性は、徹底している。


「……だから、私の柱は、回復する手段を奪われた」


ヘルガの声に、初めて感情が混じった。

怒りだ。冷たい怒り。


「あなたを責める気はない。でも、宰相は——許せない」


エリスが俯いた。


「……私のせいで」


「あなたのせいではない。何度でも言う」


ヘルガがエリスの肩に手を置いた。

冷たい手だった。


「あなたは選ばされなかった。それは罪ではない」


エリスが顔を上げた。

紫の瞳が、青い氷の光の中で揺れている。


「……ヘルガさん」


「何」


「修復は、私の魔力でも、できますか」


ヘルガが目を見開いた。


「……できる。系統が同じだから。でも、あなたが——」


「答えを聞きたいだけです。今、決めたわけじゃない」


ヘルガが頷いた。


「できる。私の柱に、あなたの魔力を流せば、出力は回復する。完全ではないけれど、しばらくは保つ」


「しばらく、というのは」


「数年。多くて十年」


十年。


エリスが王国で結界を維持していた年月と、同じ。


エリスが柱を見上げた。

青い光が、彼女の銀髪に反射している。


「……分かりました」


ヘルガが何か言いかけたが、エリスが続けた。


「決めるのは、宿に戻ってから。今日は、見させていただいただけで十分です」


「分かったわ」


ヘルガが頷いた。


「ただ、一つだけ言わせて」


「はい」


「あなたが何を選んでも、私はあなたを尊重する。修復してもらえれば助かる。でも、断ったとしても、あなたを責めない」


ヘルガの声に、温度が戻っていた。


「あなたは十年間、知らずに世界を守った。それだけで、十分すぎるくらい働いた」


エリスが目を伏せた。


「……ありがとうございます」


声が掠れていた。


---


洞窟を出る頃には、夕方になっていた。


雪原の地平線に、沈みかけた太陽が見える。

赤い光が雪を染めている。


帰り道。

誰も話さなかった。


魔獣は出なかった。ヘルガが先程の戦闘で「印」を残したらしい。雪狼が近づいてこない。

合理的だ。


街に着いて、ヘルガが立ち止まった。


「明日の正午、神殿に来て。あなたの答えを聞かせて」


「分かりました」


ヘルガが背を向けた。

神殿の方へ歩いていく。背中が、来た時より少し小さく見えた。


宿に戻ると、エリスは部屋に入るなり、ベッドに座り込んだ。


毛皮のコートも脱がず。

膝の上で手を組んで、床を見つめている。


「……何か飲むか」


「お湯」


「了解」


魔石の暖炉にやかんをかけた。

湯が沸くまで、しばらくかかる。


その間、エリスは一言も話さなかった。


考えている。

当然だ。今夜決めなければならない。


明日の正午までに、答えを出す。


修復するか、しないか。


ヘルガを、北方の人々を、世界の柱の一つを、救うか。

それとも、自分の自由を選ぶか。


俺は何も言わなかった。


エリスが選ぶ。

俺は——どちらを選んでも、隣にいる。


それしか、できることはない。


雪が、また降り始めていた。


窓の外で、白い結晶が舞っている。

静かな、長い夜になりそうだった。

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