第37話 氷の聖女
朝。
中央神殿は、街の北側にあった。
外観は石造りだが、屋根や柱の装飾に氷の彫刻が施されている。
夏でも溶けないように、魔力で凍結を維持しているらしい。実用と装飾が一体化した、北方らしい建築だ。
エリスは毛皮装備で完全防備だった。
コート、帽子、マフラー、ブーツ、手袋。昨日買ったものを総動員している。
「……寒い」
「神殿の中は暖かいだろ」
「外が寒いの。神殿に着くまでが地獄なの」
雪原を歩いてから三百歩。
普通の人間なら問題ない距離だが、エリスにとっては苦行らしい。
「お前、寒さに弱すぎないか」
「弱くないわよ。普通よ」
「俺は普通の冬服で歩いてる」
「あんたは筋肉があるから。私は繊細なの」
繊細さを自称する人間ほど、繊細ではない傾向がある。
神殿の入口で、衛兵が二人立っていた。
分厚い鎧。氷の紋章。武器は槍。
「止まれ。神殿への用件は」
「氷の聖女に会いたい」
衛兵が眉を寄せた。
「予約はあるか」
「ない」
「ならば無理だ。聖女様は——」
「銀髪の旅人が来た、と伝えてくれ」
衛兵の動きが止まった。
エリスがフードを外していた。
銀髪が朝日に晒される。北方系の灰銀ではない、純粋な銀。
衛兵の目が見開かれた。
「……少々お待ちを」
衛兵の一人が、神殿の中に駆け込んだ。
エリスが小さく息を吐いた。
俺にだけ聞こえる声で言った。
「面倒ね。身分証明が髪の色って」
「効果はあるだろ」
「あるからやってるのよ」
合理的だ。
---
待つこと、五分。
衛兵が戻ってきた。
顔色が少し青い。
「……ご案内します。聖女様がお会いになるそうです」
神殿の内部は、外観以上に荘厳だった。
天井が高い。柱には氷の彫刻が施され、淡い青の光を放っている。床は磨かれた石。歩くたびに、足音が反響する。
奥に進むと、玉座の間のような大広間があった。
中央に、女性が立っていた。
灰銀色の髪。冷たい青の瞳。三十代前半くらいだろうか。
シンプルな白いローブを着ている。装飾は少ない。だが、その立ち姿だけで部屋の空気を支配していた。
これが——氷の聖女。
ヘルガ。
「ようこそ、ヴァルクハイムへ」
ヘルガの声は低かった。
冷たくはない。だが、温かくもない。
管理された声、という印象だった。
エリスがフードを完全に外した。マフラーも取った。
銀髪と紫の瞳が、神殿の青い光の中に浮かび上がる。
「初めまして。エリスと申します」
聖女の声だ。慣れた演技。
ヘルガが目を細めた。
「……あなた、王国の聖女ね」
エリスの肩が、僅かに揺れた。
「……何故、そう思われるのですか」
「分からないわけがない。守り手は守り手を見抜く。あなたの魔力、王国の結界の波長と同じよ」
エリスが息を呑んだ。
ヘルガが一歩、前に出た。
「あなたが、王国の柱を捨てた人ね」
声が硬くなった。
エリスの微笑みが、一瞬だけ強張った。
だが、すぐに立て直した。
「捨てたわけではありません。私は——」
「言い訳は結構」
ヘルガが遮った。
「あなたが王国を出た日から、世界の結界は揺らぎ始めた。私の柱にも負担がかかっている。今、北方で魔獣の被害が増えているのは、あなたのせい」
「…………」
「あなたが知らなかったとしても、結果は変わらない。柱は折れた。世界は綻び始めた。誰かのせいではなく、起きてしまった事実」
ヘルガの声に、感情はなかった。
非難ではない。事実の確認だった。
それが、却って重い。
エリスが俯いた。
銀髪が顔を隠す。
俺は黙って見ていた。
ここで口を出すべきではない。エリス自身が答えるべき場面だ。
エリスが顔を上げた。
紫の瞳が、ヘルガを真っ直ぐに見ていた。
「……知らされていませんでした」
声に演技はなかった。
毒舌もなかった。
ただの事実を、淡々と。
「私は十四歳で連れて行かれて、結界の術式を叩き込まれて、ただ”聖女”と呼ばれて、十年間使い続けられました。“世界の柱”なんて言葉、一度も聞かなかった。国のため、民のため、それだけ」
ヘルガの眉が動いた。
「……」
「知っていれば、辞め方を考えました。引き継ぎを探したかもしれません。でも、知らされなかった。だから、ただ辞めた。普通の女として生きるために」
エリスの声が、震えていた。
「結果的に世界に迷惑をかけたなら、申し訳ないと思います。でも、選択肢を与えなかったのは、私じゃない」
ヘルガが、目を閉じた。
長い沈黙だった。
神殿の青い光が、ゆらゆらと揺れている。
ヘルガが目を開けた。
「……知らなかった、というのは本当ね」
「本当です」
「分かるわ。あなたの目を見れば」
ヘルガがため息をついた。
「……ヴァルムンド・グレイアスね。王国の宰相」
エリスが目を見開いた。
「ご存じなのですか」
「面識はないけれど、噂は届いている。“聖女を道具として使い続けた男”。北方の長老たちは、彼を最も警戒している」
最も警戒している。
ヘルガが続けた。
「七つの柱の守り手は、本来は緩やかに繋がっている。世代が代わる時、引き継ぎがある。新しい守り手は、先代から全てを聞かされる。柱の意味も、世界の構造も、封印の向こうの存在も」
エリスが息を呑んだ。
「……でも、私は」
「あなたは、その繋がりを断たれていた。王国は——いえ、宰相は、あなたを孤立させた。他の守り手と接触させなかった。情報を遮断した」
「なぜ……」
「あなたが真実を知れば、辞める可能性があったから。あるいは、王国を裏切る可能性があったから」
ヘルガの声が硬い。
「あなたは”装置”として最適化されていた。意志を持たせず、ただ魔力を供給し続ける装置として」
エリスの拳が、震えた。
ヘルガが続けた。
「だから、あなたを責めるのは間違っていた。謝罪するわ」
ヘルガが頭を下げた。
深く。
エリスが慌てた。
「……いえ、そんな」
「責任の所在を間違えた。守り手として、あなたを誤解した」
ヘルガが顔を上げた。
「とはいえ、現実は変わらない。私の柱は今、限界に近い。あなたの柱が消えた負担を、一人で受け止めている」
冷たい事実だった。
「……どのくらいですか」
「あと、半年。長くて一年。それを過ぎたら、私の柱も折れる」
二つ目の柱が折れる。
それは——七つの盾のうち、二つが消えるということだ。
封印が、さらに緩む。
「……」
エリスが何かを言いかけた。
だが、言葉にならなかった。
ヘルガが、こちらを見た。
初めて、俺に視線を向けた。
「あなたは、彼女の連れね」
「ああ」
「名前は」
「アルレン」
ヘルガの目が、ほんの一瞬だけ動いた。
何かを思い出すような目。
「……元勇者ね」
「知ってるのか」
「噂だけ。聖剣を折って追放された男。だが、追放されたのは王国の都合と聞いている」
噂の精度が高い。北方は王国の情報網とは別系統で動いているらしい。
「……あなたが彼女を支えているのね」
「支えてはいない。ただ、隣にいるだけだ」
「同じことよ」
ヘルガが微かに笑った。
冷たい笑みだ。
でも、温度がゼロではなかった。
「彼女に、あなたがいてよかった」
それだけ言って、ヘルガが背を向けた。
「今日はここまで。明日、もう一度来てちょうだい。私の柱を見せるわ。決断は、それからでいい」
決断。
エリスが頷いた。
小さく。だが、確かに。
「……明日、伺います」
「待ってる」
ヘルガの背中が、神殿の奥に消えた。
---
神殿を出ると、雪が降っていた。
朝より強い雪だ。粉雪が舞い、視界が白く霞んでいる。
エリスがフードを被り直した。
顔が見えない。
「……エリス」
「黙って」
短い声だった。
無言で歩いた。
雪原を越え、街に戻り、宿に着くまで、一言も話さなかった。
宿の部屋に入ると、エリスがコートも脱がず、ベッドに座り込んだ。
背中を丸めて、手を膝の上で組んでいる。
俺は暖炉に魔石を入れた。
炎が立ち上がる。
「……明日、見るって」
「見る」
「結界柱を」
「ああ」
「見たら、私は——」
エリスが言葉を切った。
「……私は、決めなきゃいけない。修復するか、しないか」
「ああ」
「修復したら、私はまた”聖女”に戻るかもしれない。世界の柱として、義務を背負う」
「ああ」
「修復しなかったら、ヘルガが死ぬ。半年か、一年で。北方の人たちも、魔獣に襲われる」
「ああ」
短い相槌しか打てなかった。
口を出す場面ではない。
エリスが顔を上げた。
紫の瞳が、暖炉の炎を映している。
「……駄犬。あんたは、どっちがいいと思う」
「俺が決めることじゃない」
「分かってる。でも、聞きたい」
「……」
考えた。
「……俺は、お前が選んだ方を支持する」
「答えになってないわよ」
「答えだ。お前がどっちを選んでも、俺は付き合う。それだけだ」
エリスが目を伏せた。
「……ずるい答えね」
「ずるくていい。これが俺の答えだ」
エリスが、小さく笑った。
「……ありがと」
「ああ」
エリスがコートを脱ぎ始めた。
ゆっくりと。考えながら。
「明日、見て、決める」
「ああ」
「今夜は……飯だけ食って、寝る」
「了解」
それでいい。
今夜は、それでいい。
明日、ヘルガの柱を見て、エリスが決める。
何を選んでも——隣にいる。
それが、俺の答えだ。




