第36話 雪が降る街
海辺の町を発って、十日。
街道は徐々に色を失っていった。
緑の森が、灰色の枯れ木に変わり、やがて木々の間に白い斑点が見え始めた。
雪だ。
最初は薄く積もる程度だった。だが二日進むごとに、雪は深くなっていった。
今では街道の両脇に、二人の膝ほどの高さの雪壁ができている。
「……寒い」
エリスが何度目か分からない文句を吐いた。
「分かってる」
「髪が凍る」
「凍ってない。多少湿ってるだけだ」
「凍るのよ。私の髪は繊細なの」
繊細さの基準が独自進化を遂げている。
エリスは厚手のローブを二枚重ねて、その上にマントを羽織っていた。
首には毛皮のマフラーを巻いている。手袋も履いている。完全装備だ。
それでも寒いと文句を言う。
「指がかじかむ」
「動かせばいい」
「動かしても寒いの」
「俺と手を繋ぐか」
「は?」
「ちょっと触ったが、お前、体温が低すぎる。俺は普通より体温が高いから、寒さよりはマシだろ」
「……」
エリスが三秒ほど黙った。
「……繋がない。生意気よ、駄犬の癖に」
「了解」
「……」
「……」
エリスがそっと手を伸ばしてきた。
「言っとくけど、これは寒さ対策よ。それ以上の意味はないわ」
「分かってる」
「分かってればいい」
ぎゅっと、握ってきた。
細い指が、革の手袋越しでも分かるほど冷えている。
魔力を流して、手に温度を送る。
エリスが小さく息を吐いた。
「……あったかい」
「だろ」
「……気持ち悪い」
「気持ち悪いなら離せ」
「離さない」
論理が破綻している。
だが、これがこの女の通常運転だ。
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午後遅く、ようやく目的地が見えてきた。
雪原の向こう、岩山の麓に広がる街。
高い石の城壁。尖った屋根。煙突から立ち上る煙。
北方都市ヴァルクハイム。
「……大きいな」
「大きいわね。王都並みかしら」
街の規模は、王都に匹敵する。北方の交易の中心地らしい。
壁画の地図によれば、北の結界柱はこの街の近くにあるはずだ。
街の入口は東門。武装した門番が二人立っている。鎧が分厚い。寒冷地仕様だ。
「身分を」
「旅人だ。商人ではない」
「目的は」
「観光と、温泉」
エリスが堂々と「温泉」を旅の目的だと言った。
目的の半分は嘘だが、半分は本気だ。
門番が頷いた。
「ヴァルクハイムには温泉地区がある。中央広場の北側だ。ただし——」
門番が声を落とした。
「ここ最近、北の山岳で魔獣の被害が増えている。観光なら街の中だけにしておけ」
魔獣。
聞き覚えのある話だ。これまでの旅で、何度も聞いた。
結界が弱まった土地では、決まって同じことが起きている。
「分かった」
街の中に入ると、空気が変わった。
王国とは違う。
建物の様式が違う。石造りの重厚な家屋。屋根の傾斜が急——雪を落とすためだ。
人々の服装も違う。毛皮を多用している。髪の色も、王国より明るい人が多い。灰銀色の髪をした女性が何人も歩いている。
「……あの髪の色」
エリスが目を細めた。
「私と似てるわ。北方には銀髪系が多いのね」
「お前の髪の色のルーツが、ここかもしれないな」
「……かもしれない」
エリスが何かを考え込んでいた。
言わないが、気になっているらしい。
街の中央広場には、巨大な噴水があった。
凍っている。冬の間は機能していないのだろう。
噴水の周囲に、市場が広がっていた。
商人たちが声を張り上げて客を呼んでいる。
「毛皮! 最高級の毛皮だよ!」
「焼きたてのパン! 寒い日にはこれだ!」
「魔石! 暖房用の魔石!」
魔石。
温度を保つ魔道具に使う石だ。北方では一般的らしい。
「……駄犬」
「分かってる」
エリスの目が、市場を観察している。値段を比較している目だ。
その日のうちに、エリスは大量の買い物をした。
毛皮のコート(高級品)。毛皮の帽子(豪華)。毛皮のブーツ(冬用)。毛皮の手袋(薄手と厚手の二種類)。魔石の暖房器具(小型)。魔石の懐炉(携帯用)。
「……これ、全部いるのか」
「全部必要よ。北方は寒いの。装備は命を守るの」
「お前、さっき”指がかじかむ”くらいしか言ってなかっただろ」
「文句を言わなかっただけよ。本当は限界だったの」
嘘だ。文句は山ほど言っていた。
だが、寒冷地仕様の装備が必要なのは事実だ。
財布が泣いたが、仕方ない。エリスの祝福稼ぎでなんとかなるだろう。
宿は中央広場から少し離れた、静かな通りにある宿に決めた。
木造ではなく石造りの宿。寒さ対策で壁が厚い。部屋の中央には魔石の暖炉があった。
「……あったかい」
エリスが暖炉の前にしゃがみ込んだ。
猫のようだ。
「ずっとそこにいる気か」
「ずっとよ。出ない」
「飯はどうする」
「あんたが買ってきなさい」
「了解」
折り合いがついた。
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夕方。
買い物がてら、宿の主人に話を聞いた。
「氷の聖女、って聞いたことありませんか」
宿の主人——白髪の老人——が、目を細めた。
「ほう……旅人さん、よく知っているね」
「伝承だけ」
「ヴァルクハイムには、代々”氷の聖女”と呼ばれる人がいてね。中央神殿に住んでいる。北方の守護者だよ」
中央神殿。
「会えますか」
「会えなくはないが、忙しい方だ。最近は特に」
「特に?」
老人が声を落とした。
「魔獣の被害が増えてるって話、聞いただろう? あれ、聖女様が抑え込んでくれてるんだ。だが、最近は限界に近いって噂もある」
限界。
ヘルガの結界が、不安定になっている。
「……ありがとう」
「いやいや、旅人さんも気をつけて。明日にでも神殿に行ってみるといい。聖女様が会ってくれるかは分からないが」
夕食の食材を買い、宿に戻った。
エリスはまだ暖炉の前にいた。
コートも帽子も脱がず、そのまま暖炉の熱を浴びている。
「……明日、中央神殿に行く」
「ふうん」
「氷の聖女がいるらしい。北方の守り手だ」
エリスの目が、ほんの一瞬だけ光った。
「……守り手」
「壁画にあった七つの柱のうちの、北の柱を維持してる人物だ」
「会いに行くの?」
「ああ。情報を聞きたい」
エリスが暖炉の炎を見つめていた。
「……会って、何を聞くの」
「結界の現状。北の柱がどうなってるのか。お前の柱が消えたことで、影響が出てるのか」
「……それを聞いて、私はどうするの」
問いかけだった。
「分からない。ただ、知るだけだ。知った上で、選ぶのはお前だ」
エリスが小さく頷いた。
「……分かったわ。明日、行きましょう」
「了解」
エリスが立ち上がった。
コートを脱ぐ。手袋を外す。マフラーを解く。
毛皮の山ができた。
「……あったかいって、こんなに幸せなことだったのね」
「お前、王都じゃ暖炉なかったのか」
「あったわよ。でも、自分で熾せなかったの。使用人が決まった時間に管理してたから」
自分で炎を熾す。
エリスにとっては、それすらも初めての経験だった。
「……明日、お前が燃やしてみるか」
「は?」
「魔石の暖炉。火加減を調整するくらいなら、お前でもできるだろ」
「……できるけど」
「やってみればいい。自分の手で、自分の温度を作るんだ」
エリスが目を伏せた。
何かを考えている。
「……明日ね」
「ああ」
「……今日は、これでいい」
エリスがそのまま、暖炉の前に座り込んだ。
ローブを毛布代わりに身体に巻いて。
寝転がるのではない。座ったまま、暖炉を見ている。
雪の街に来た最初の夜だった。
窓の外で、雪が降り始めていた。
明日、氷の聖女に会う。
北の結界柱を見る。
エリスの選択が、また一つ増える。
その選択を、見守ろう。
邪魔せず、押し付けず。
ただ、隣にいる。
それだけが、俺にできることだ。
――面倒な旅は、まだ続く。
でも、毛皮のコートに包まれた銀髪の女が、暖炉の前で穏やかな顔をしているなら。
今夜は、それで十分だ。




