第35話 折れた柱と、まだ見ぬ旅路
朝。
まだ日が昇りきらない時間。
宿を出て、港の方を見た。
漁船が出ていた。ヨルクの船もある。
いつも通りの朝だ。昨夜の宴が嘘みたいに、町は仕事を始めている。
エリスが隣に立った。
背負い袋を肩にかけている。いつもより荷物が少し軽い。
「……行くわよ」
「ああ」
見送りはなかった。
昨夜のうちに、全員と話した。朝のお別れはなし——ヨルクの提案だった。
「朝に見送ると、お互い辛くなるだけだ」と。
漁師は別れを知っている。海に出て帰ってこない仲間を、何度も見送ってきた男たちだ。
町の外れ。
北へ続く街道の入口に、一人だけ立っていた。
カイルだった。
白マント。金の鎧。いつもの姿。
だが、腰に剣はない。
「……見送りか」
「ああ。王都に戻る前に、一言だけ」
カイルが真っ直ぐに立っていた。
芝居がかった勇者のポーズではない。
「……俺は王都に戻って、できることをやる。結界の研究。民への説明。……あと、宰相との話」
「宰相との話?」
「事実を聞く。何を隠してるのか。勇者として、聞く権利はあるはずだ」
カイルの目から、迷いがなくなっていた。
こいつが「勇者」として何をすべきか、自分で考え始めている。
「……無理はするな」
「お前に言われたくないな、アルレン」
名前を、もう自然に呼んでいた。
「カイル。あんた、王都で何か見つけたら、連絡しなさい」
「……どうやって?」
「私の魔力、微量に追跡できるように設定したわよ。これ」
エリスが小さな紙片を渡した。紙片に術式が描かれている。
「これを破ると、私の場所に魔力が飛ぶの。緊急時用。使いすぎないで」
「え、あの、いつの間に……」
「昨夜。あんたが寝てる間」
「勝手に魔力追跡をつけたのか、俺に!?」
「勝手だろうと、緊急時に役立つでしょ。文句ある?」
「あるが……いや、ない。ありがとう」
カイルが紙片を胸元に大切にしまった。
子供みたいに嬉しそうな顔をしている。
この男はやはり、分かりやすい。
「じゃあな、カイル」
「ああ。アルレン、エリスさん。……気をつけろよ」
カイルが手を挙げた。
二人も手を挙げた。
背を向けて、街道を歩き出した。
しばらく歩いて振り返ると、カイルはまだ手を振っていた。
白マントが朝の光に光っている。
いつもより、少しだけまともに見えた。
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街道を北へ。
海辺の町が遠ざかっていく。
丘を越え、森を抜け、川を渡った。
昼になる頃には、海は見えなくなっていた。
「……温泉郷は遠いわね」
「そうだな」
「文句くらい言いなさいよ」
「言うことがない」
エリスは気にしなかった。
地図を広げて、北への道筋を確認している。
「次の目的地は、北方の街よ。大きな街。商人の行き来が多い。情報が集まる」
「結界柱の情報か」
「ええ。壁画の碑文に、北の柱の座標があったの。そこに行く。……温泉もあるらしいし」
「ついでに温泉、だな」
「ついでじゃないわよ。並行目的」
並行目的。
結界柱の調査と、温泉探し。この女の中では、両方が同じ優先度らしい。
「……で、結界柱を見つけたらどうする」
エリスの歩みが、一瞬止まった。
「……まだ決めてない」
「そうか」
「調査するだけかもしれない。修復するかもしれない。関わらないかもしれない」
「……」
「決めるのは、現地で見てから。それで十分でしょ」
「ああ、十分だ」
柱の声が言っていた。
『そなたの答えは、そなたが出せ』。
まだエリスは答えを出していない。
出さなくていい、とアルレンは思う。考え続けることが、選ぶことでもある。
「……あんたは、どうするの」
「俺?」
「あんた、北に行く理由、ないでしょ。結界柱は私の問題。あんたには関係ないわ」
「ついていくだけだ」
「……それだけ?」
「それだけだ」
エリスが足を止めた。
街道の真ん中で。木々の間から差し込む日差しの中で。
振り返って、こちらを見ていた。
「……それで、いいの?」
「何がだ」
「結界柱を調べるのに、何ヶ月もかかるかもしれないわ。何年も。あんたは、ずっと荷物持ちを続けるつもり?」
「……続ける」
「なんで」
「他にやることがない」
「……それだけ?」
「……それだけじゃないが、それ以上を言うと面倒になる」
エリスが目を細めた。
「……面倒ね」
「ああ。面倒だ」
「最高に面倒ね」
同じ言葉を、二人で共有した。
いつか、ずっと先で——また同じ言葉を交わす日が来る気がした。
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日が傾き始めた頃、街道沿いの休憩所に着いた。
小さな東屋があって、井戸があった。
旅人のための休憩所だ。誰も使っていない。
荷物を下ろして、干物を齧った。
ヨルクが持たせてくれた魚だ。塩が効いている。
エリスが井戸の水で喉を潤しながら、空を見上げた。
「……ねえ駄犬」
「なんだ」
「結界柱が全部折れたら、どうなるの」
壁画の碑文。
『すべてが折れれば、封じられし者が目を覚ます』。
「……封印が解けて、何かが出てくる」
「何が」
「分からん。壁画にも詳しくは書いてなかった」
「……そう」
エリスが井戸の縁に座った。足をぶらぶらさせる。
「もし出てきたら、どうするの」
「……お前が逃げるなら、俺も逃げる」
「逃げ切れなかったら?」
「戦う」
「勝てる?」
「……分からん。そいつを見てからだ」
エリスが笑った。
声を上げて笑うのではない。息を漏らすような、小さな笑い。
「……いい加減な答えね」
「いい加減でいいだろ。まだ起きてない話だ」
「起きてからじゃ遅いわよ」
「だから結界柱を調べるんだろ」
「……そうね」
エリスがこちらを見た。
紫の瞳が、夕日に染まっている。
「……一緒に調べてくれる?」
「当たり前だろ」
「頼んでないのに答えるな、って前に言ったわよね」
「言ったな」
「今回は、頼んでる」
「……了解」
エリスが目を伏せた。
指先で、井戸の縁を撫でている。
「……ありがと」
三度目だ、これで。
前の二回より、少しだけ、声が大きかった。
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夜。
東屋で野宿することにした。
焚き火を熾して、周囲を暖める。
エリスが焚き火の側で毛布にくるまっていた。
指先だけ出して、炎に向けている。
「……冷えるわね」
「北に近づくほど冷えるぞ」
「防寒具を買わないと」
「次の街で買おう」
「温泉にも入りたい」
「それも次の街で」
「全部次の街ね」
「一つずつ片付けるしかない」
「駄犬のくせに堅実ね」
「社畜体質だからな」
「知ってるわよ」
エリスが焚き火の炎を見つめていた。
紫の瞳に、オレンジの光が映っている。
「……駄犬」
「なんだ」
「一つ、気になってることがあるの」
「何だ」
「壁画の端に描かれてた、剣の絵。覚えてる?」
一つの柱から伸びた線。その先に描かれた剣の形。
「覚えてる」
「あれ、普通の剣じゃなかったわ。他の柱には描かれてない。一本だけ、特別」
「……」
「何か関係があるのかしら。柱と剣の」
「分からん」
欠片に手を触れた。
腰のオリハルコンが、夜の冷気の中で、微かに温かい。
壁画を見てから、この感触が続いている。
何かを訴えている気がするが、言葉にはならない。
エリスには言わなかった。
気のせいかもしれない。
「……そのうち分かる」
「そうね。そのうち」
エリスが毛布を深く被った。
「……寝るわよ。おやすみ」
「おやすみ」
しばらくして、寝息が聞こえた。
焚き火の炎を見つめた。
パチパチと、枝が爆ぜる音。
旅は、変わった。
「終の棲家」を探すだけの旅だったはずだ。
温泉があって、静かで、誰にも追われない場所。
今は違う。
結界柱。守り手の系譜。封印の向こうの何か。
エリスの過去。俺の過去。そして、まだ見えない未来。
面倒の規模が、一段上がった。
でも——隣で眠っている女は、同じ女だ。
理不尽で、毒舌で、温泉に執着していて、子供に泣かれて一緒に泣く女。
その女が「一緒に調べてくれる?」と言った。
それだけで——たぶん、十分だ。
面倒だろうが、世界が壊れようが、封印が解けようが。
隣で寝息を立てている女が、明日も「駄犬」と呼んで荷物を背負わせるなら、俺はそれに従って歩く。
そういう旅だ。
そういう旅に、なった。
欠片の温かさが、ゆっくりと手に馴染む。
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――北の街道で、旅は続く。
まだ見ぬ柱。まだ見ぬ街。まだ見ぬ温泉。
そして、まだ見ぬ二人の答え。
全部、これからだ。
---
**第1部 完**
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
アルレンとエリスの旅、第1部が完結しました。
「終の棲家を探す」という小さな目的で始まった旅が、気づけば世界を覆う結界の秘密へと繋がっていきました。
二人が出会った日から、少しずつ近づいていった距離——楽しんでいただけたなら、これほど嬉しいことはありません。
第2部では、二人の過去が明かされ、世界の異変が本格化していきます。
相変わらずの掛け合いと、少しだけ深くなる関係を、引き続き描いていく予定です。
カイルも少しだけ成長しながら、元気に空回りします。
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これからもどうぞよろしくお願いします。




