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第34話 海辺の町にさよならを

町に戻った時、日は高かった。


ヨルクが港で船を待っていた。

船が接岸すると、顎を掻きながら近づいてくる。


「無事だったか。嬢ちゃんの顔色が悪いが、大丈夫か」


「魔力を使ったの。少し休めば治るわよ」


エリスが”表”の声で答えた。

声に力がない。三時間の水中結界と、ゴーレム戦と、守り手たちとの対話。体力も魔力も限界に近い。


「それならいい。帰って休め」


ヨルクが船の後処理をしながら、何気ない口調で言った。


「……それで、いつ出発するんだ」


エリスの肩が、微かに揺れた。


「……どうして、そう思うの」


「漁師だからな。海を読むように、人も読む。あんたらの顔、もう別れの顔だよ」


ヨルクがこちらを見た。


「あの遺跡、何かあったんだろ。聞かん。だが、あんたらがここに居続けられないことは分かる」


「……ヨルクさん」


「いいんだ。最初から、そう思ってた」


ヨルクがロープを巻きながら、笑った。

寂しそうな笑いだった。


「でもな、せめて明日の朝までは、いてくれ。今夜、皆で飯を食おう」


皆で。

誰のことを指しているか、聞くまでもなかった。


「……了解」


「おう。いつもの食堂だ。七時に来い」


ヨルクが背を向けて歩き出した。

何事もなかったように、港の日常に戻っていく。


---


宿に戻ると、エリスはベッドに倒れ込んで、そのまま眠った。

夕方まで起きなかった。


カイルは宿の前まで付き添ってきて、そこで別れた。


「……俺は明日、王都に戻る」


「そうか」


「この遺跡のこと、宰相に報告する。七つの柱のことも」


「……いいのか、それで」


「いいんだ。俺は勇者だからな。民に知らせる責任がある」


カイルが言った。

いつもの芝居がかった声ではなく、自分に言い聞かせる声だった。


「……ただ、結界が消えた原因が”聖女の出奔”だとは、言わない。そこまで詳しくは報告しない」


「……いいのか」


「それを言ったら、あの人がまた追われるだろ」


カイルが拳を握った。


「俺は勇者として、民を守る。……その”民”に、あの人も入る。何か変か?」


変ではない。

だが、意外だった。


「……ありがとう」


カイルがアルレンを見た。

目を合わせていた。逸らさなかった。


「お前、名前は」


「……アルレン」


カイルの目が、見開かれた。


三秒の沈黙。


「……アルレン。……そうか。そうだったのか」


宰相の執務室で聞いた名前だ。

本物の聖剣の持ち主。折れた聖剣の元の主。前の勇者。


——会ったこともないと思っていた相手が、ずっと目の前にいた。


カイルが長い息を吐いた。

何かが腑に落ちた顔だった。


「……道理で、強いわけだ」


「……今さらだな」


「今さらだが、納得した。全部」


カイルが笑った。

寂しそうで、でも少しだけ晴れやかな笑いだった。


「……いい名だ。あの人を、頼んだぞ」


「……ああ」


それだけだった。

カイルは踵を返して、自分の宿の方へ歩いていった。


白マントが、夕方の風に揺れていた。

いつもより、少しだけ重そうに見えた。


---


七時。


いつもの食堂は、いつもより人が多かった。


ヨルク。漁師仲間が三人。魚屋の主人。宿の女将。そして——子供たちが六人。


子供たちの親は、少し離れた席に座っていた。


中央の長テーブルに、料理が並んでいた。

焼き魚、貝のスープ、野菜の煮込み、パン、果物、そしてワイン。


「遅いぞ、兄ちゃん」


ヨルクが手を振った。


「さあ座れ。嬢ちゃんもこっちだ」


エリスが俺の隣に座った。

疲れは取れていない。だが、目は少し明るくなっていた。


「……こんなに集まってくれたんですか」


“表”の声だ。でも、涙声だった。


「当たり前だろ。あんたら、もう他人じゃねえよ」


ヨルクが杯を掲げた。


「旅の無事を祈って、乾杯!」


「乾杯!」


町の人々の声が、食堂を満たした。


---


食事は、三時間続いた。


漁師が昔話をした。

魚屋が今日の水揚げの自慢をした。

宿の女将が、泊まってきた客の中で誰が一番変だったかの話をした(俺だったらしい)。


エリスは”表”の笑顔を貼り付けていた。

貼り付けている、と表現するほど硬くはなかった。自然に、柔らかく、子供たちの相手をしていた。


一番小さな女の子が、エリスの膝に座っていた。

ずっと離れようとしない。小さな手が、エリスのローブをぎゅっと握っている。


「おねえちゃん、ほんとに行っちゃうの?」


「……うん。遠くに行くの」


「どこ?」


「北」


「北って?」


「寒いところ」


「お魚いる?」


「……いるかしら」


「お魚いなかったら、寂しいよ」


エリスが、女の子の髪を撫でた。


「……そうね。寂しいわね」


魚のことを言っているのか、他のことを言っているのか。

たぶん、女の子にも分かっていない。


でも、分かっていなくても、心は伝わる時がある。


「おねえちゃん、泣かないでね」


「……泣かないわよ」


「泣いてるよ」


女の子が、エリスの頬を指差した。


エリスが頬に触れた。

指先が濡れた。


「…………」


「おねえちゃん、お星様、覚えてる?」


「……覚えてる」


「さびしいとき、やってみる」


「……うん」


「やってみたら、おねえちゃんに、届くかな」


エリスの目から、ぽろぽろと涙が落ちた。


“表”の笑顔が崩れた。

“裏”の女王様でもない。


ただの、女の子の顔だった。


「……届くわよ」


「ほんと?」


「本当」


嘘かもしれない。

でも、そうあってほしいと、エリスは思っている。


きっと、その願いなら、届く。


---


夜が更けた頃、食堂が解散になった。


ヨルクがアルレンに干物の袋を渡した。


「これ、持ってけ。旅の食糧だ」


「……ありがとう」


「あと、これも」


小さな布の袋だった。

中身は、銀貨だった。十枚ほど入っている。


「……いいのか」


「おう。みんなで集めた。迷惑料だよ」


「迷惑って、何の」


「遺跡でいろいろあっただろ。町の沖で戦闘の音がしたって話が回ってる。お詫びだ」


お詫びは逆だ。沖で騒ぎを起こしたのはこっちの方だ。

でも、断る理由を探すのが難しかった。


「……遠慮なく、貰っておく」


「おう。北は寒いからな。しっかり食え」


ヨルクが肩を叩いた。

痛い。いつも通りの加減の知らない手だ。


---


宿に戻ると、エリスがまっすぐベッドに向かった。


「……疲れた」


「だろうな」


「明日、早く出るわよ」


「了解」


「…………駄犬」


「なんだ」


エリスがベッドに横になりながら、天井を見ていた。


「……泣いてないからね」


「さっき泣いてたぞ」


「あれは気のせい」


「気のせいじゃ涙は出ない」


「出るの。目の乾燥とか、あの子の手が目に入ったとか」


「目に入ってない」


「うるさい。駄犬は黙って寝なさい」


エリスが毛布を被った。


しばらくして、毛布の中から小さな声がした。


「……駄犬」


「なんだ」


「……ありがと」


「…………何が」


「色々」


色々。

具体的な内容は言わない。それがこの女の精一杯なんだろう。


「……ああ」


「ああ、じゃなくて、ちゃんと返事しなさい」


「……了解」


「……おやすみ」


「おやすみ」


しばらくして、寝息が聞こえた。


窓を開けた。


海が見える。

夜の海が、いつもの暗い色に戻っている。光は、あの晩以来、もう出ていない。


千年の沈黙が、海の底で眠っている。


町は静かだ。

子供たちは家に帰っただろう。ヨルクは船の手入れをして寝ただろう。魚屋は明日の仕入れの準備をしているだろう。


明日には、ここを出る。

もう、戻らないかもしれない。


胸の奥が、何か重い。

痛みではない。もっと鈍い、重さ。


この感覚は、王国を出た時にはなかった。

王国を出た時は、解放だった。軽くなった。


今は、違う。

何かを置いていくことに、重みがある。


――これが、「別れ」というやつか。


王国にいた二十二年間で、一度も経験しなかった感覚だった。


窓を閉じた。


一番小さな女の子の顔を思い出した。

「さびしいとき、やってみる」と言っていた。


届くかは、分からない。

でも、エリスは「届く」と言った。


だからたぶん、届く。


そういうことにしておこう。

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