第33話 柱の声
戦闘の余韻が、大広間の空気に染み込んでいた。
ゴーレムの残骸が三箇所。石の塊と、古代の魔力の残滓が、床の上に散らばっている。
ひびの入った石床。舞い上がった千年の埃。そして、壁画。
壁画は無事だった。
一体目のゴーレムが倒れた衝撃、二体目を砕いた時の余波、三体目の石の指先が触れた跡。どれも、壁画本体には届かなかった。
エリスが壁画の前に立っていた。
魔力を使い果たしたはずの体で、しゃんと背筋を伸ばしている。
指先が、壁画の表面に触れた。
静かに。壊れ物を扱うように。
「…………」
エリスが目を閉じた。
紫の光が、指先から壁画に流れ込む。
戦闘で使った攻撃魔法ではない。探るための、小さな魔力。
「……聞こえる」
声が、小さかった。
「……声が、聞こえる」
「声?」
「過去の守り手たちの……残滓の声。千年分の」
エリスの声が震えている。
恐怖ではない。
感動に近いものだった。
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大広間の空気が変わった。
壁画の光点が、一つずつ、淡く光り始めた。
七つの光点全てではない。消えている王国の一つを除いた、残り六つ。
六つの光が、順番に明滅する。
呼応している。
エリスの魔力に。
そして——声が聞こえた。
最初は分からなかった。
言葉ではない。意味の分からない響き。
だが、徐々に形になっていった。
『……守り手よ……』
複数の声だった。
男も女もいる。年齢もバラバラ。何人もの声が重なっている。
『……来たか……』
『……新しき守り手か……』
『……いや、違う。系譜の末端。だが……血は繋がっている……』
エリスの目が、涙を溜めていた。
泣いていない。泣くことを拒んでいる。だが、目が濡れていた。
「……あなたたちは」
『……代々の守り手……柱に己の魔力を捧げた者たち……』
『……肉体は失われた。だが、魔力の残滓はここに留まる……』
『……次代のために……記録を残すために……』
次代。
エリスが息を呑んだ。
「……私は、次代の守り手、じゃないわ」
『……そう……』
『……だが、血は繋がっている……それは間違いない……』
『……あなたの結界は、強く、美しかった……十年間……』
エリスの肩が震えた。
知っていたのだ。
この声たちは、エリスの結界のことを知っていた。
柱の残滓同士は、千年を超えて繋がっている。
エリスが王国で結界を維持していた十年間、他の柱の「守り手の残滓」たちは——ずっと、見ていた。
『……苦しかっただろう……』
一つの声が、そう言った。
女の声だ。年配の、優しい響き。
『……我らは皆、苦しんだ。選ばされた者もいる。……だが、そなたは、特に』
「……何が、特に」
『……選ぶ機会すら、与えられなかった』
沈黙が、大広間を満たした。
石の欠片が床に落ちる音。それだけが、沈黙を細かく刻んでいた。
『……我らは選んだ……自分の意志で……』
別の声。男の声。若い。
『……誰かが守らねば、世界が壊れる……それを知った上で、我は柱となった……』
『……私も……』
『……私もだ……』
『……知った上で、覚悟を決めて、柱となった……』
全員。
六人全員が、「知った上で選んだ」と言っている。
エリスの手が、壁画から離れた。
拳を握りしめている。爪が掌に食い込むほど強く。
「……ずるい」
小さな声だった。
「……ずるいじゃない。選べた人たちは」
『……そなたは……』
「私は選ばなかった。選ばされたのでもない。選ぶ選択肢すら、なかった」
エリスの声が、硬くなっていく。
「十四歳の時に連れて行かれて、結界の術式を叩き込まれて、ただ”聖女”と呼ばれて、国の魔力供給装置にされた。“世界の柱”なんて言葉、一度も聞かなかった。国のため、民のため、それだけを教え込まれた」
『…………』
「知ってれば、違った。知ってれば、私は——」
エリスの言葉が途切れた。
「……知ってれば、どうしてた?」
エリスが自分に問いかけた。
答えを探すように、床を見つめている。
『……そなたの問いに、我らは答えを持たぬ……』
年配の女の声が言った。
『……選択は、そなた自身のものだ……知らされなかったことへの怒りは正当……去ったことも、正しい……』
『……だが、一つ言えることがある……』
声が、重なった。
六人全員が、同時に語りかけてくる。
『……今、そなたは、壁画の前にいる……』
『……知っている……柱の意味を……七つの守護を……封じられし者を……』
『……知った上で、これから何を選ぶかは——そなたの自由だ……』
光点が、ゆっくりと弱まっていく。
声が遠ざかる。
エリスが壁画に両手をついた。
銀髪が顔を隠している。
「……待って」
『……もう、行かねばならぬ……』
「待って、聞きたいことが——」
『……我らに答えは、ない……そなたの答えは、そなたが……出せ……』
光点が消えた。
声が途絶えた。
大広間に、静寂が戻った。
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エリスが壁画の前に立ち尽くしていた。
長い時間だった。
カイルは壁際で、何が起きたか理解できていない顔をしていた。声は——エリスにしか聞こえていなかったらしい。魔力の共鳴が必要なのだろう。
俺には、半分くらい聞こえていた。
たぶん、エリスの近くにいたせいだ。完全には理解できていない部分もある。
だが、最後の言葉だけは、はっきり聞こえた。
『そなたの答えは、そなたが出せ』。
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三分ほど経って、エリスが振り向いた。
顔色は悪い。目は赤い。
だが——目の奥の光は、消えていなかった。
「……帰るわよ」
「……ああ」
「壁画の模写、あと少し。それが終わったら町に戻る」
「了解」
エリスが壁画に向き直って、筆を取った。
手が微かに震えている。
模写を再開した。
さっきより、筆の運びが丁寧だった。
一文字、一文字。確かめるように。
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カイルが近づいてきた。
「……エリスさん、大丈夫か」
「……大丈夫だろう。たぶん」
「さっき、何かと話してたのか? 壁画と」
「壁画と、じゃない。壁画に残された、過去の人たちと」
「過去の……」
カイルが頭を抱えた。
「俺には分からん世界だな」
「俺もだ。半分しか聞こえなかった」
「半分?」
「隣にいたからな」
カイルが黙った。
壁画の前で、エリスが筆を動かしている。
銀髪が古代の光に照らされて、紫に染まっている。
「……なあ」
「なんだ」
「……あの人、勇者より強いんじゃないか?」
「たぶん、比較の問題じゃない」
「……そうか」
カイルが自分の柄を見下ろした。
金メッキの柄。勇者の象徴だったもの。
何か言いたそうだった。
言いたそうだったが、結局、言わなかった。
壁際に戻って、静かに座り直した。
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エリスの模写が終わった頃、三時間の制限時間が近づいていた。
「……出るわよ」
「ああ」
「あの馬鹿——」
エリスが言いかけて、止まった。
「……カイル。帰り道、ついてきなさい。あんた一人で戻すと、また罠に引っかかるから」
「……お、おう」
初めて、エリスがカイルを名前で呼んだ。
カイルが目を丸くしていた。
「……どうした」
「いや、名前、覚えてくれてたのか、と」
「覚えてるわよ。あんなに自己紹介してたじゃない」
「そ、そうだな……」
神殿を出た。
海の底を抜け、水面に浮上する。ヨルクの船が見えた。
振り返ると、神殿の門が静かに閉じていくところだった。
千年の沈黙が、再び石の奥に戻っていく。
エリスが、振り返りながら呟いた。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉か。
千年前の声たちにか。
それとも——
聞かないでおいた。




