第3話 温泉は遠い
朝。
目を覚ますと、エリスがベッドの上で不機嫌な顔をしていた。
いつものことだ。この女は寝起きが最悪である。
「……水」
「おはよう」
「水って言ってるの、駄犬」
アルレンは床から起き上がり、水差しからコップに水を注いだ。
渡す。エリスは受け取りもせず、顎でテーブルを示した。
置け、ということらしい。
置いた。
エリスはそれを三口で飲み干し、ようやく人間の目になった。
「……今日、発つわよ」
「もう一泊してもいいんじゃないか。タダだし」
「二泊もタダにしたら女将が可哀想でしょ」
お前が言うのか。
「それに」
エリスが窓の外を見た。
「この町、温泉がない。論外よ」
温泉が旅の最優先事項であることは、もう争わないことにしている。
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宿を出る前に、女将が朝食と弁当を持たせてくれた。
「気をつけてね。最近、東の街道で魔物が出るって噂があるから」
エリスが”表”の顔で微笑む。
「ありがとうございます。お優しいんですね」
「いいのいいの。あんたたちみたいな若い子が苦労してるの見ると、放っておけなくてさ」
若い子。
アルレンは二十二歳だ。エリスは年齢不詳だが、見た目は十六から十八。
確かに若い。若いが、背負っているものは老人並みに重い。
「……ありがとう」
アルレンが言うと、女将は目を丸くした。
「あら。あんた、喋れたんだね」
昨日から喋っている。エリスの声量に埋もれていただけだ。
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東の街道を歩く。
天気は良い。風は穏やかで、街道の両脇には麦畑が広がっている。
平和だ。平和すぎて、逆に落ち着かない。
「次の町まで、どのくらい?」
「地図だと二日。でもこの先に温泉郷があるって、女将が言ってた」
「温泉郷」
エリスの足が速くなった。
さっきまで「足が痛い」「背中が凝った」「駄犬、おぶれ」と文句を言っていたのに、温泉の二文字で完全回復している。
「急ぐわよ。温泉は早い者勝ちなの」
「誰と競ってるんだ」
「世界中のすべての旅人よ。私が一番風呂じゃないと意味がないの」
意味はある。普通に入ればいい。
しかし街道を進むにつれ、空気が変わった。
最初に気づいたのは、すれ違う旅人の数だ。
少ない。宿場町を出て二時間、一人もすれ違わない。
次に気づいたのは、道端の木だ。
何本かが根元から折れている。風で折れたにしては、断面が荒い。
「……エリス」
「分かってる」
エリスの声から、遊びが消えていた。
「爪痕よ。大型の獣……いえ、魔獣ね。この断面は魔力を帯びた爪じゃないと残らない」
魔獣。
普通の獣とは違う。結界の内側に入り込んだ、あるいは結界が弱まって侵入した魔力を持つ生き物だ。
「最近の話か」
「三日以内。樹液がまだ乾ききってない」
エリスは折れた幹に触れもせず、目だけで分析していた。
こういう時だけ、この女が「国の結界を一人で維持していた天才」だったことを思い出す。
「……結界、やっぱり弱まってるな」
「当たり前でしょ。私が抜けたんだから」
言い方は軽い。
だが、その軽さが少しだけ不自然だった。
アルレンは追及しなかった。
追及したところで「知らないわ、自業自得よ」と返されるのは分かっている。
「先を急ぐか」
「急ぐわよ。温泉が魔獣に壊されたら最悪だもの」
心配の方向性がおかしい。
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昼過ぎ。
街道沿いの小さな集落に差し掛かった。
十軒ほどの家と、井戸と、壊れかけた柵。
柵が壊れている。
外側から、何かに押し破られた跡だ。
「誰かいるか」
アルレンが声をかけると、家の影から老人がおそるおそる顔を出した。
「あ、あんたら……旅人か? 悪いこと言わん、この先は行くな」
「何があった」
「魔獣だよ。三日前から夜になると来るんだ。牛を二頭やられた。柵も壊された。騎士団に連絡したが、来やしねえ」
騎士団が来ない。
当然だ。王国の騎士団は今、追放者と逃亡した聖女の追跡で手一杯だろう。
国民を守る余裕がない。国民を守る戦力を追いかけているのだから、皮肉な話だ。
「町の方に避難しないのか」
「年寄りばっかりでな……歩けない者もいる。それに、ここは先祖代々の――」
「大変でしたね」
エリスが割り込んだ。“表”の声だ。
「怖かったでしょう。大丈夫ですよ。この人がなんとかします」
この人。
アルレンを指している。
「……俺が?」
「あなた以外に誰がいるの。駄犬でしょ」
最後の一言だけ、老人に聞こえない音量だった。
老人が目を潤ませる。
「ほんとうか……ありがたい……」
ありがたくない。勝手に引き受けるな。
だがアルレンは、断らなかった。
断れない性分なのだ。目の前の困っている人間を放置できない。
社畜体質とはそういうものだ。上司が理不尽でも、仕事は仕事。
「……夜に来るんだな」
「ああ。日が落ちてから、二刻ほどで」
「分かった」
エリスが小さく笑った。
アルレンにだけ分かる、「思った通り」という笑いだ。
こいつ、最初から俺が断らないのを分かっていた。
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日が暮れた。
集落の外れ。壊れた柵の前に、アルレンは一人で立っていた。
エリスは集落の中だ。
老人たちに「私たちの護衛がいるから安心してください」と”表”の顔で微笑んでいるはずだ。
夜風が冷たい。
星は昨日より少ない。雲が出てきている。
そして――匂いが変わった。
獣臭。
それに混じる、金属のような魔力の残り香。
暗闇の中、二つの目が光った。
大型の魔狼だ。
普通の狼の三倍はある体躯。毛皮の下で魔力が脈動している。牙は鉄より硬い。
一匹。
いや、二匹。
茂みの奥にもう一匹。
三匹か。
アルレンは腰に吊るした布包みから、折れた聖剣の欠片を抜いた。
刃渡り数センチ。剣としては完全に死んでいる。
だが、オリハルコンの塊としては十分だ。
魔狼が跳んだ。
速い。
普通の騎士なら反応できない速度だ。
アルレンにとっては、遅い。
一歩。
横に半歩ずれるだけで牙をかわし、欠片を振り下ろす。
鈍い音。
魔狼の頭蓋が地面にめり込んだ。即死だ。
二匹目が背後から。
振り向かない。肘を後ろに突き出すだけでいい。
欠片が魔狼の顎を砕く。
三匹目は――逃げようとした。
逃がすと、また来る。
アルレンは地面を蹴った。
五歩で追いつき、欠片を叩き込む。
終わり。
十秒もかからなかった。
「……面倒だ」
三匹の魔狼を引きずり、集落から離れた場所に埋めた。
血痕を踏み消し、柵の壊れた部分に応急の杭を打つ。
力加減を間違えて杭が地面に半分めり込んだが、まあ頑丈だろう。
集落に戻る。
明かりはもう消えている。老人たちは寝たらしい。
宿代わりに借りた納屋に入ると、エリスが毛布にくるまっていた。
「遅い」
起きていた。
「……散歩だ」
「散歩ね。三匹?」
知っていた。
この女は魔力の感知能力が桁外れだ。アルレンが戦った魔力の残滓くらい、寝転がっていても拾える。
「……そうだ」
「ふうん」
エリスは毛布から顔だけ出して、こちらを見た。
「怪我は」
「ない」
「そう」
それだけだった。
礼も労いもない。「お疲れ様」の一言もない。
でも、「怪我は」と聞いた。
それがこの女なりの、精一杯なのだろう。
アルレンは納屋の隅に座り、壁に背を預けた。
「……エリス」
「なに」
「温泉、まだ遠いな」
「遠いわね」
「……寝る」
「寝なさい。明日も歩くんだから」
少しだけ間があった。
「……私が起こしてあげるから」
聞き間違いかもしれない。
毛布の中からくぐもった声で、ほとんど聞こえなかった。
アルレンは目を閉じた。
明日も魔物が出るかもしれない。
追手が来るかもしれない。
温泉は遠いかもしれない。
でも、まあ。
今夜はこの集落が静かに眠れるなら、それでいい。
――面倒だけど。




