第2話 宿代は聖女の涙で払え
最初の町は、王都から街道を半日ほど離れた宿場町だった。
名前は覚えていない。覚える必要もない。
アルレンにとって重要なのは三つだけだ。宿があること、飯があること、そして追手がいないこと。
「遅い」
エリスが振り向きもせず言った。
「……お前の荷物が重い」
「荷物のせいにするな。駄犬の脚が短いのよ」
脚は短くない。荷物が重いのだ。
鞄三つ、箱二つ、巻物、瓶、毛布もどき。昨日から一つも減っていない。むしろ道中で拾った薬草が瓶に追加されている。
「あれ足したのお前だろ」
「足したわよ。良い薬草だったもの。駄犬なんだから黙って運びなさい」
反論は無駄だ。学習済みである。
町の入口で、アルレンは足を止めた。
門番がいる。武装はしているが、表情は緩い。辺境の宿場町に本気の警備はいない。
問題は、自分の身なりだった。
黒髪に無精髭。気だるげな目。背中に異常な量の荷物。腰にはどう見ても「まともな剣」ではない何か。
――どう見ても不審者だ。
「止まれ。身元を――」
門番が口を開きかけた、その瞬間。
エリスが一歩前に出た。
ローブのフードを外す。銀髪が夕日に透けて、淡い光を纏う。紫の瞳が、門番を真っすぐに見つめた。
表情が変わっていた。
さっきまでの「性格最悪の女王様」が消え、そこにいたのは――
「すみません。旅の途中で、少しだけ休ませていただけませんか」
声まで違う。
鈴を転がすような、透き通った声。おまけに少しだけ潤んだ瞳。
門番の顔が赤くなった。
「あ、い、いや……もちろん、どうぞ! お連れ様も!」
お連れ様。
さっきまで不審者扱いだったのに、エリスの隣にいるだけで「お連れ様」に昇格した。
「ありがとうございます。この人、見た目は怖いですけど……私の、大切な護衛なんです」
エリスが恥ずかしそうに俯く。頬が染まっている。
嘘だ。あの頬の赤みは魔力で血流を操作しているだけだ。知っている。
門番はもう完全に陥落していた。
「ご、護衛の方でしたか! 失礼しました! この先の通りを真っすぐ行けば宿がありますので!」
「ありがとうございます。神様のお導きですね」
神様は関係ない。お前の演技力だ。
二人が門を通り過ぎたあと、エリスの表情が三秒で戻った。
「ふん。チョロいわね」
「……毎回思うが、よくそこまで切り替えられるな」
「社会経験の差よ、駄犬。笑顔は通貨。涙は切り札。覚えておきなさい」
覚えたくない。
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宿は町の中心にあった。
木造二階建て。看板には『旅人の灯火亭』と書かれている。温かみのある名前だ。
中に入ると、恰幅のいい女将が出迎えた。
「いらっしゃい。お二人かい?」
「はい。一部屋お願いできますか」
エリスの声は、まだ”表”のままだ。
「部屋は空いてるよ。一泊銀貨二枚。食事つきなら三枚」
銀貨三枚。
財布の中身を思い出す。王都を出る時に持ち出せた金は、銀貨が十枚と銅貨が数枚。三枚払えば一週間も持たない。
「……エリス」
小声で言う。エリスは微笑んだまま、こちらを見もしない。
代わりに、エリスの目が一瞬だけ光った。
何かを計算する光だ。商人が値踏みをする時の目に似ている。
そして――泣いた。
「あの……実は私たち、故郷を魔物に追われて……」
涙が頬を伝う。
嘘だ。
「持ち物もほとんど失くして、やっと辿り着いたんです……」
嘘だ。背中の荷物を見ろ。規格外の量だ。
「お金も、残りわずかで……でも、屋根の下で眠れるだけで、ありがたいんです」
エリスの声が震える。
女将の目が潤んだ。
「まあ……そんな大変な思いを……」
「私はいいんです。でも、この人が……」
エリスがアルレンを見る。慈愛の眼差し。聖画の聖女そのものだ。
「この人、私を守るために、ずっと寝ないで歩いてくれて……」
守ったのは事実だが、寝ないで歩いたのは「お前が休憩を許さなかった」からだ。
女将の涙腺が決壊した。
「もう! そんなの聞いたら放っておけないよ! 今日は私の奢り! 食事もつけてあげるから!」
「そんな……いいんですか? ご迷惑じゃ……」
「迷惑なもんか! さあさあ、荷物置いて休みな!」
エリスが深々と頭を下げた。
「ありがとうございます……神に祝福を……」
女将が奥に消えていく。
その背中を見届けた瞬間、エリスの涙が止まった。蛇口を閉めるように、ぴたりと。
「ふふ。今夜はタダよ、駄犬」
「……お前に良心はないのか」
「あるわよ。高く売れるから、普段は仕舞ってるの」
返す言葉がない。
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部屋は質素だが清潔だった。
ベッドが一つ、テーブルが一つ、窓の外には夕暮れの町並み。
「ベッドは私のよ」
「知ってた」
「駄犬は床。毛布一枚あげるから感謝しなさい」
「……寛大だな」
「でしょう? 私って優しいのよ」
優しさの定義がこの女の中で独自進化を遂げている。
アルレンは荷物を壁際に丁寧に降ろし、床に座った。
背中の筋肉が軋む。痛みはない。疲労はある。
超人的な肉体でも、休息は必要だ。
窓の外を見る。
宿場町は穏やかだ。子供の笑い声、夕飯の匂い、鍛冶屋のハンマーの音。
王都にはなかった音だ。
「……ここは、いいな」
独り言のつもりだった。
「何が」
エリスがベッドに腰掛けたまま、こちらを見ていた。
「……静かだ」
「ふうん」
エリスは窓の外に目を向けた。
「静かなだけじゃ駄目よ。温泉がないと」
「お前の基準は温泉なのか」
「当然でしょう。何年風呂に入れなかったと思ってるの」
その声のどこかに、冗談ではない重さがあった。
“何年”。王国で結界を維持し続けた年月。休息すら許されなかった日々。
アルレンは、何も言わなかった。
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夕食は女将の手料理だった。
分厚いパンにシチュー、焼いた川魚、チーズと干し果物。旅人の胃には贅沢すぎる量だ。
エリスは”表”の顔で「美味しいです」と微笑みながら食べていたが、アルレンにだけ聞こえる声で「味付けが甘い」「魚の焼き加減が浅い」「チーズはもっと熟成させるべき」と文句を言い続けていた。
「……お前、タダ飯に文句つけるな」
「批評よ。感謝と批評は両立するの」
しないと思う。
食後。
女将が「大変だったんだねえ」と追加のデザートまで持ってきた。
エリスは天使の笑顔で受け取り、俺の分まで食べた。
「お前……」
「駄犬は筋肉でできてるんだから、甘いものは必要ないでしょ」
暴論だ。
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夜。
アルレンは床の毛布にくるまりながら、天井を見ていた。
隣のベッドから、エリスの寝息が聞こえる。
穏やかな呼吸だ。
王都を出てから、初めてまともに眠れているのかもしれない。
アルレンはそっと起き上がり、窓を開けた。
夜風が入る。星が多い。
町は静かだ。
だが、遠くの山の稜線に――薄い光が明滅していた。
結界の残滓だ。
エリスが張っていた結界の最後の欠片が、まだ消えきらずに揺れている。
あれが消えたら、この町にも魔物が来る。
「……面倒だな」
呟いて、窓を閉めた。
振り向くと、エリスが寝返りを打っていた。
銀髪が枕に散らばっている。寝顔は、起きている時より数段穏やかだ。
「駄犬」とも「荷物持て」とも言わない。
ただの、疲れた女の子の顔だった。
アルレンは毛布を被り直す。
明日もきっと、荷物を持たされる。
理不尽な命令を受ける。
文句を言う暇もなく歩かされる。
――でも、まあ。
屋根があって、飯があって、こいつが安全に眠れるなら。
悪くはない。




