第29話 七つの柱の壁画
壁画は、壁一面を覆っていた。
高さは柱三本分。幅は大広間の端から端まで。
色彩は千年の時間に褪せているが、描かれた線は明確だ。古代の魔力塗料が使われている。
魔力が残っている限り、線は消えない。
中央に描かれているのは、世界の地図だった。
大陸が三つ。海が二つ。島がいくつか。
現在使われている地図とは形が少し違うが、大まかな配置は同じだ。
そしてその上に——七つの光点。
北の凍土に一つ。東の山脈に一つ。南の砂漠に一つ。西の海域に一つ。中央の大陸に二つ。
そして——アークライト王国の位置に、一つ。
七つの光点から、線が伸びている。
線は互いに絡み合い、世界全体を覆う網——いや、盾を形成していた。
「…………」
エリスは壁画の前に立ったまま、動かなかった。
紫の瞳が壁画を舐めるように追っている。光点を一つずつ確認し、線の繋がりを読み、全体の構造を把握しようとしている。
口を開かない。
普段の毒舌も、建前の学術的興味も、何も出てこない。
「……エリス」
「待って」
短い声だった。
さらに三十秒。
エリスが、壁画の一点を指差した。
アークライト王国の位置にある光点。
他の六つは淡い金色で描かれているが、この一つだけ——色が違った。灰色。消えかけている。
「……これが、私の結界」
声が低い。
「国の結界だと思ってた。国境を守るための壁。それが私の仕事だと思ってた」
指先が震えている。
「でも違う。これは——世界の結界の一部よ。七つの柱の一つ。国だけじゃない。世界全体を覆う盾の、七分の一」
大広間に声が反響した。
自分の言葉が返ってくるのを、エリスは黙って聞いていた。
「……十年間。私は十年間、これを維持してたの。知らずに」
壁画の下部に、碑文があった。
古代語だ。エリスが読み上げる。
「『七つの柱、世界を覆う盾たり。一つが欠ければ壁に罅が入り、すべてが折れれば、封じられし者が目を覚ます』」
封じられし者。
「『柱の守り手は、己が力を捧げて壁を保つべし。守り手が去れば、柱は枯れ、壁は崩れ、封印の向こうから、災厄が這い出る』」
エリスの声が途切れた。
沈黙。
大広間の空気が重い。千年分の沈黙が、言葉を押し潰そうとしている。
「……災厄」
エリスが呟いた。
「封印の向こうから、災厄が來る。……私が結界を維持していたのは、その災厄を封じるための柱だった」
壁画の端に目を向けた。
七つの盾の「外側」に、何かが描かれている。
黒い影。形が定まらない、蠢く何か。盾の外で、中に入ろうとしているように見える。
「……これが、封じられてるものか」
「たぶん。壁画だから、具体的な姿は分からないけど。でも、これだけは確実に言える」
エリスがこちらを見た。
紫の瞳が、暗い。
怒りだ。だが、俺に向けたものではない。
「宰相は知ってたわね。これを」
「…………ああ。たぶん」
あの手紙。エリスの口を封じたがっていた宰相。
「相応の措置」まで取って、エリスを連れ戻そうとした理由。
単なる国の防衛の話なら、あそこまで必死にはならない。
あの男は——この壁画に書かれていることを、知っていたのだ。
「知ってて、私に言わなかった」
エリスの声が凍った。
「世界を守る結界だと知っていて、十四歳の子供に押し付けて、理由も説明せずに十年間使い潰した」
「…………」
「“聖女様、ありがとう”。“聖女様のおかげで平和です”。——ふざけないで。そんな綺麗な話じゃなかったのよ。最初から」
エリスが壁画に手をついた。
銀髪が顔を隠している。表情が見えない。
「……知りたかった」
小さな声だった。さっきまでの怒りが、急にしぼんでいた。
「知った上で、選びたかった。維持するにしても、辞めるにしても。自分で決めたかった。なのに——何も知らされなかった」
知らされないまま、十年間。
選択肢を奪われたまま、使い潰された。
辞めたことは正しかった。
でも「知らなかった」ことが、今こうしてエリスを苦しめている。
知っていれば、違う辞め方ができたかもしれない。
引き継ぎの方法を探せたかもしれない。
少なくとも、こうして——壁画の前で立ち尽くすことはなかった。
何を言うべきか。
言葉を探した。
「……エリス」
「慰めはいらないわよ」
「慰めじゃない」
エリスが顔を上げた。目が赤い。泣いてはいない。泣くことだけは拒んでいる。
「お前は悪くない」
「……そんなの分かってるわよ」
「分かってるなら、今知った。それだけだ。知る前に戻ることはできないが、知った上でこれからどうするかは選べる」
「…………」
「残りの柱は六つ。まだ全部は折れてない。どうするかは、お前が決めろ」
エリスが目を見開いた。
三秒。
「……あんたさ」
「なんだ」
「そういうの、どこで覚えたの。そんな台詞」
「思ったことを言っただけだ」
「…………」
エリスが壁画から手を離した。
指先で目元を拭う。涙じゃない。千年分の埃だ。……ということにしておく。
「……行くわよ。この壁画、まだ全部読めてない。碑文が他にもあるはず」
「了解」
「あと」
エリスが背中を向けたまま言った。
「今のは、覚えておいてあげる。“お前が決めろ”。……悪くない台詞だったわ。駄犬にしては」
駄犬にしては。
最大級の褒め言葉だと受け取っておく。
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壁画の残りを調べた。
碑文は他にもあった。
七つの柱の位置を示す座標めいた記述。各柱の「守り手」についての断片的な記録。そして——
「……これ」
エリスが壁画の隅を指差した。
小さな図だ。見落としそうなほど小さい。
七つの光点の一つから、細い線が伸びている。線の先に——剣の形が描かれていた。
「剣?」
「柱の一つに、剣が描かれてる。他の柱にはこんな描写はないわ」
剣。
柱と剣。
欠片に手が触れた。無意識に。
腰のオリハルコンが、微かに脈打った気がした。
「……気のせいか」
「何が」
「いや。何でもない」
気のせいだろう。
だが、欠片の脈動は——壁画を見てから、少しだけ強くなっている気がする。
エリスは気づいていないようだった。碑文の解読に集中している。
「……だいたい読めたわ。詳しい分析は外に出てからにする。三時間の制限、覚えてるでしょ」
「ああ。そろそろ戻るか」
「戻るわよ。情報は十分。あとは整理するだけ」
エリスが歩き出した。
来た道を戻る。罠は帰路では発動しなかった。一方通行の設計らしい。
海底神殿を出る。門が背後で閉じた。
再び海の中。エリスが水中呼吸の結界を張り直す。
青い水の中を、二人で浮上していく。
エリスの顔は、もう見えない。結界の光で影になっている。
でも、手が震えていないことだけは確認した。
壁画を見る前と後で、この女の中で何かが変わった。
怒りか、覚悟か、それとも——
分からない。
分からないが、一つだけ分かる。
この旅は、もう「温泉を探す旅」だけではなくなった。
――面倒だ。
でも、エリスが選ぶなら。
どこへ行くにしても、付き合う。
それだけだ。




