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第27話 沈んだ神殿

朝。


ヨルクの漁船は、港で見る船の中では一番古かった。


板が褪せている。帆に継ぎ接ぎがある。船首の塗装が半分剥げている。

だが、ヨルクは胸を張って言った。


「三十年の付き合いだ。こいつは裏切らねえ」


船に信頼を寄せる漁師の顔だった。

俺にもそういう相棒がいる。折れているが。


「兄ちゃんと嬢ちゃんだけか。他に人手はいらねえのか」


「二人で十分だ。むしろ他の人間は巻き込みたくない」


「……そうか」


ヨルクは深くは聞かなかった。この男の良いところだ。


エリスが港に現れた。

いつものローブではなく、動きやすい旅装に着替えている。銀髪は一つに束ねていた。


「準備はできてるわよ。術式は昨夜のうちに完成した」


「寝たのか」


「三時間。十分よ」


十分ではない。だが、この女に睡眠の説教をしても無駄だ。


船に乗り込む。


「嬢ちゃん、船酔いは大丈夫か」


「大丈夫よ。三半規管に魔力を流せば平衡感覚は維持できるから」


「……何を言ってるのか分からねえが、大丈夫なんだな」


ヨルクが帆を張った。

朝の風を受けて、船が港を離れる。


海が広い。

町から見るのと、船の上から見るのでは全然違う。

水平線が四方を囲んでいる。空と海しかない世界だ。


「……あんた、海が平気なのね」


「まあ」


「私はちょっと……足元が動くの、好きじゃないわ」


三半規管に魔力を流しても、好き嫌いは別問題らしい。


---


沖合いに出て、一時間ほど。


ヨルクが帆を下ろした。


「この辺りだ。あの岩礁が目印」


海面から頭を出している黒い岩が、二つ並んでいる。

その間の海域が、昨夜光っていた場所だ。


今は光っていない。昼間だから見えないのか、それとも夜にしか現れない現象なのか。


エリスが船べりに立った。

手を海面にかざす。目を閉じて、意識を集中している。


紫の光が指先に灯った。

探査魔法。海底の魔力反応を拾っている。


「……ある。下に。深さは……二十メートルくらい」


「二十メートル。けっこうあるな」


「結界があるから問題ないわ。ただ——」


エリスが目を開けた。


「大きいわね。建造物の規模が」


「分かるのか。ここから」


「魔力の反応域で推測できるわ。幅は百メートル以上。高さも相当ある。……神殿、って表現が正しいかもしれない」


百メートル以上の神殿が、海の底に沈んでいる。


ヨルクが口笛を吹いた。


「そりゃすげえな。爺さんの話じゃ、ちょっとした岩場だと思ってたが」


「岩場に見えたのは、神殿の屋根の一部が露出してたんでしょうね。本体はずっと下」


エリスが両手を広げた。

紫の魔法陣が空中に展開される。複雑な術式だ。昨夜一晩かけて設計した結界。


「水中呼吸、水圧対策、浮力制御、視界確保。全部込みよ。持続時間は三時間。それ以上は魔力が持たないから、時間厳守」


「了解」


「あと」


エリスがこちらを見た。


「私に触らないで。浮力制御は個別に設定してあるから、くっつくと計算が狂うの」


「分かった」


「……本当に触らないでよ。絶対に」


念押しが強い。泳げないことへの保険だろう。


魔法陣が俺とエリスを包んだ。

薄い紫の膜が、全身を覆う。呼吸は普通にできる。水の中でも空気が供給される仕組みだ。


「ヨルクさん、ここで待っていて。三時間で戻るわ」


「おう。気をつけろよ」


ヨルクが手を振った。


船べりから海を見下ろす。

青い。深い。底が見えない。


「……行くか」


「行くわよ。私が先に」


「泳げないのに先に行くのか」


「泳がないから先に行くの。浮力制御で降下するだけよ。手足は動かさないわ」


言い方がいちいち格好いいが、要するに「沈む」だけだ。


エリスが船べりから身を投げた。

水面に入る。飛沫が上がらない。結界が水を弾いて、静かに沈んでいく。


紫の光に包まれた銀髪が、青い水の中で揺れている。


――綺麗だ、と思った。


思っただけだ。口には出さない。


続いて海に入った。

冷たくない。結界が水温も調整している。この女の術式は本当に精密だ。


海の中を降りていく。


光が変わる。海面からの日光が薄れて、代わりにエリスの結界の紫の光が周囲を照らしている。


魚の群れが横を通り過ぎた。こちらを不思議そうに見ている。

結界の光に集まってくるらしい。


十メートル。十五メートル。


そして――見えた。


巨大な影。

海底の砂に半分埋もれた、石造りの建造物。


柱がある。壁がある。階段がある。

苔と珊瑚に覆われているが、人工物であることは明白だった。


「…………」


エリスが足を止めた。浮力制御で、海中に静止している。


紫の瞳が、神殿を映していた。


「……大きいわね」


小さな声だった。素の声だ。


「壁の様式、見て。あれは王国以前の建築よ。少なくとも八百年以上前。もしかしたら千年以上」


「詳しいな」


「結界を維持するために、古代の魔術文献は全部読まされたのよ。役に立つとは思わなかったけど」


十年間の「無給残業」が、意外なところで活きている。


神殿の正面に、大きな門があった。

石の扉。表面に文字が刻まれている。古代語だ。読めない。


「……何て書いてある」


「『守り手の血を以て、門は開く。守り手ならざる者、立ち入るべからず』」


守り手。


エリスが門に手を伸ばした。


指先が石に触れた瞬間――


光が走った。


門の表面に刻まれた文字が、一斉に発光した。紫の光。エリスの魔力と同じ色だ。


石の扉が、音もなく開いていく。

千年間閉じていた門が、海水を押しのけて、ゆっくりと左右に分かれた。


門の向こうには、乾いた空間が広がっていた。

結界だ。古代の結界が、門の内側の空間から海水を排除し続けている。千年間。


「……開いた」


エリスの声が震えていた。

恐怖ではない。興奮だ。


「私の魔力で開いた。この結界、私と同じ系統の術式よ。構造が同じ。でもずっと古い」


同じ系統。

千年前の結界と、エリスの結界が、同じ系統。


「……つまり」


「分からない。まだ分からないわ。でも——偶然じゃないと思う」


エリスが門をくぐった。

海水の壁を通り抜けると、足元に乾いた石の床がある。


空気がある。

千年間密封されていた空気だ。少し重い。だが呼吸はできる。


「結界、解くわよ。中は空気があるから」


水中呼吸の結界が解かれた。紫の膜が消える。


神殿の内部が、眼前に広がった。


高い天井。巨大な柱が等間隔で並んでいる。壁には彫刻が施されている。

海の底にあるとは思えない、荘厳な空間だった。


「…………」


エリスが、ゆっくりと周囲を見回した。


「何よ、ここ……」


声が上ずっている。

学術的な興味の建前が、とっくに剥がれていた。


この場所は、エリスの何かに触れている。

理屈ではない。魔力が、血が、反応しているのだ。


「……奥に行くぞ」


「……ええ。行きましょう」


二人で、千年の沈黙の中に足を踏み入れた。


足音が反響する。

自分たちの足音以外、何も聞こえない。


――静かだ。


この静寂の奥に、何がある。


面倒な予感がする。

いつもの予感だ。でも今回は、少しだけ違う。


面倒の先に、知るべき何かがある。


そんな気がしていた。

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