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第26話 海が光る夜

出発の準備は、ほとんど終わっていた。


荷物をまとめ、宿の支払いを済ませ、明日の朝に発つ手はずだった。

ヨルクには昨日のうちに伝えてある。魚の干物と、手書きの地図を貰った。

「北の街道沿いに安い宿がある」と書かれた、漁師らしい大雑把な地図だ。


子供たちとの別れも済ませた。

エリスは広場で最後の光の教室をやり、一人ずつ抱きしめて——いや、抱きしめられて、帰した。


あとは寝て、朝に発つだけだった。


「……明日の朝、早いぞ。寝ろ」


「分かってるわよ。うるさいわね」


エリスはベッドに横になったが、目を閉じていなかった。

窓の外を見ている。海の方を。


名残惜しいのだろう。

この女は認めないが、この町が好きだった。海も、魚も、子供たちも。


「……寝ろ」


「もう少しだけ」


もう少しだけ。

この景色を見ていたい、ということだ。


窓辺の椅子に座って、俺も海を見ていた。


夜の海は暗い。月が薄雲に隠れて、水平線の境目も分からない。

波の音だけが聞こえる。


――そろそろ寝るか、と思った時だった。


光った。


海面が。


「……え」


エリスがベッドから起き上がった。


光は一瞬ではなかった。

海面の一部が、淡い青白い光を帯びている。

ゆっくりと脈打つように、明滅を繰り返している。


「何だあれ……」


外から声が聞こえた。

港の方だ。漁師たちが騒いでいる。


「海が光ってるぞ!」

「なんだ、ありゃ!?」

「夜光虫か?」


夜光虫ではない。

光の色が違う。夜光虫の淡い緑ではなく、深い青白。そして規模が大きすぎる。

港の沖合い、数百メートルにわたって海面が光っている。


エリスが窓に張り付いていた。


目が変わっている。

紫の瞳の奥で、魔力が波打っている。何かを感知している。


「……エリス」


「黙って」


珍しく鋭い声だった。

“裏”でも”表”でもない。集中している時の声だ。


十秒ほど、海を見つめていた。


「……魔力よ」


「海から?」


「海の底から。深い。かなり深いところから、魔力が漏れ出してる」


「結界の残滓か。前にも見ただろ」


「違う」


エリスが振り向いた。

紫の瞳が、暗い部屋の中で微かに光っていた。


「結界の残滓は私の魔力と同じ色よ。紫。でもあれは違う。もっと古い。もっと——根源的な魔力」


根源的。


「分かりやすく言え」


「私の結界は十年前に張ったもの。あの光は、百年じゃ利かない。千年かもしれない。ずっと昔に誰かが張った結界の欠片が、海の底に沈んでる」


千年前の結界。


「……なんでそれが今、光ってるんだ」


「たぶん……私の結界が消えたから」


エリスの声が、少しだけ硬くなった。


「結界同士は共鳴するの。一つが消えると、近くの結界にも影響が出る。私の結界が消えたことで、海の底の古い結界が不安定になって、魔力が漏れ始めた」


つまり、これもエリスが王国を出た影響だ。

連鎖。ドミノ。一つが崩れると、次が揺らぐ。


「…………」


エリスは何も言わなかった。

窓の外を見つめている。顔が硬い。


「……調べるか」


「……は?」


「あの光。調べないのか」


「別に。私には関係ないわ」


嘘だ。

目が光を追っている。指先がローブの裾を握っている。


「興味あるだろ」


「……ないわよ」


「嘘をつくな。お前の目、さっきから光を分析してる」


「分析なんかしてない。……ちょっと見てただけよ」


「ちょっと見てるのを分析と言うんだ」


エリスが唇を尖らせた。

反論を探しているが、見つからないらしい。


「……仮によ。仮に調べるとしたら、明日出発できなくなるわよ」


「構わない」


「温泉が遠くなるわよ」


「温泉は逃げない」


「……あんた、私が調べたいって言うと思ってるでしょ」


「思ってる」


「……生意気な駄犬ね」


エリスがベッドに座り直した。

腕を組んで、窓の外を睨んでいる。


三秒。五秒。十秒。


「……学術的な興味よ」


出た。


「千年前の結界なんて、文献にも残ってないわ。魔術の歴史において極めて貴重な発見の可能性がある。調べない方が不自然でしょ」


長い言い訳だった。


「……了解。明日の出発は延期だ」


「延期じゃないわ。予定の変更よ。私の知的好奇心は温泉と同等の優先度を持つの」


同等。

温泉と同等ということは、つまり最優先ということだ。


---


翌朝。


港に行くと、漁師たちが集まっていた。


「昨夜の光、見たか?」

「初めてだ。あんな現象……」

「爺さんの代にもなかったってよ」


ヨルクが船の手入れをしながら、こちらに気づいた。


「おう、兄ちゃん。出発じゃなかったのか」


「少し延期した。昨夜の光について聞きたい」


「光か。ありゃ何だろうな。漁師仲間でも見たことがないって話だ」


「あの辺りの海底に、何かあるか」


ヨルクが顎を掻いた。


「……そういや、爺さんの爺さんの頃から言い伝えがあるな。沖の海底に、変な岩場があるって。潜った漁師が『建物みたいなものが見えた』って話もある」


建物。


「でも深いんだ。素潜りじゃ届かない。それに、あの辺りは潮の流れが複雑で、船を出すのも危ない」


「場所は分かるか」


「だいたいはな。目印になる岩礁がある」


ヨルクがこちらを見た。


「……行くのか」


「たぶん」


「兄ちゃんなら大丈夫だろうが……連れの嬢ちゃんは?」


「あの女なら、海の底でも平気だ」


「……まあ、あの嬢ちゃんは只者じゃねえもんな」


漁師の勘は鋭い。


宿に戻ると、エリスが机に向かって何かを書いていた。

紙の上に、魔法陣の設計図が広がっている。


「何を書いてる」


「水中呼吸の結界。二人分。ついでに水圧対策と視界確保の術式も組み込んでるわ」


「……準備が早いな」


「当然でしょ。学術調査には事前準備が不可欠なの」


学術調査。

まだその建前を使っている。


「ヨルクが場所を知ってた。沖の海底に、建物のようなものがあるらしい」


エリスのペンが止まった。


「建物……神殿か、遺跡か。時期は千年前の結界と一致する可能性がある」


目が輝いていた。

温泉情報を聞いた時と同じ輝き方だ。


「明日、船を出す。ヨルクに頼んである」


「了解。術式は今日中に完成させるわ」


「……あとひとつ」


「何」


「泳げるか」


沈黙。


三秒。


「……水中呼吸の結界があるんだから泳ぐ必要はないでしょ。浮力制御も組み込んであるわ。つまり泳げなくても問題ないの」


泳げないのか。


「泳げないのか」


「泳げないとは言ってないわよ! 結界があるから泳ぐ必要がないと言ってるの!」


泳げない。


「……俺が引っ張ってやろうか」


「触らないで。自分で浮くから」


浮力制御の結界にこんなに力が入っている理由が分かった。


――まあ、いいか。


明日、海の底に潜る。

千年前の結界。古代の建造物。誰が、何のために作ったのか。


面倒事の予感しかしない。


でも、エリスの目が魔法陣の設計に夢中になっている。

ペンを走らせる指先が、楽しそうに動いている。


この女が楽しそうにしている時は、たいてい面倒事の始まりだ。


――でも、悪くない。

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