第25話 夕日と約束
海辺の町に着いて十四日目。
朝、エリスが言った。
「明日、発ちましょう」
パンを齧る手が止まった。
「……いいのか」
「良いも悪いもないわよ。いつまでもいるわけにいかないのは、分かってるでしょ」
分かっている。
追手の問題だけじゃない。ここに根を下ろせば、いずれこの町が巻き込まれる。
「子供たちは」
「今日で最後にする。お星様の作り方、教える約束だったから」
エリスの声は平坦だった。
平坦すぎた。感情を押し込めている時の声だ。
「……了解」
それ以上は何も聞かなかった。
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午後。
広場に子供たちが集まった。
いつもの顔ぶれだ。十二人。最初の五人から、ずいぶん増えた。
エリスが”表”の笑顔で迎える。
だが最近は”表”と”裏”の境目が曖昧になっている。子供たちの前では特に。
「今日はね、おねえちゃん、特別なことを教えてあげる」
「なになに!?」
「お星様の作り方よ」
子供たちが歓声を上げた。
エリスが指先に光を灯した。
小さな紫の光。いつもの魔力だ。
「いい? よく見てて。まず、指の先に気持ちを集めるの」
「気持ち?」
「そう。好きなものを思い浮かべて。お母さんでも、お魚でも、猫でも」
一番小さな女の子が、目を閉じて両手を胸の前に合わせた。
「……お母さん」
「うん。それをね、指先に送るの。ぎゅって」
女の子の指先が、ほんの一瞬だけ光った。
本当に微かな光。魔力の欠片だ。
子供には魔力の制御はできない。でも、感情を込めれば微量の魔力は反応する。
「光った!」
「すごい!」
子供たちが大騒ぎになった。
エリスが微笑む。
「ね? 誰でもできるの。気持ちがあれば」
嘘だ。
普通の子供の魔力では、この光は一秒も持たない。
エリスが裏から魔力を補助している。子供の指先に流れた微弱な魔力を、見えないところで増幅して、「光った」ように見せている。
誰にも分からない精密制御。
国の結界を維持していた技術の、贅沢すぎる使い方だ。
一人ずつ、順番に光らせていった。
子供たちが自分の指先を見て、きゃあきゃあ騒いでいる。
最後に、一番小さな女の子の番が来た。
「おねえちゃん、見て!」
女の子が指を突き出した。
エリスが裏で魔力を送る。光が灯る。
「……わあ」
女の子の目が丸くなった。
「おほしさま……」
「うん。あなたのお星様よ」
女の子が光る指先を見つめていた。
それから、エリスの顔を見た。
「おねえちゃんのと、同じ色……」
紫の光。エリスの魔力の色だ。
「……そうね。同じ色ね」
エリスの声が、少しだけ震えた。
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光の教室が終わった後、エリスが子供たちの前に座った。
「みんなに話があるの」
子供たちが静かになった。
子供は空気を読む。大人より鋭く。
「おねえちゃんね、明日この町を出るの」
沈黙。
「……どこ行くの?」
「遠いところ。温泉を探しに」
「帰ってくる?」
エリスが一瞬だけ言葉を探した。
「……分からない。でも、みんなのことは忘れないわ」
「やだ!」
一番小さな女の子が泣き出した。
「おねえちゃん、行かないで! やだ!」
エリスの手を掴んで、離さない。
小さな手。力は弱い。振り払おうと思えば簡単だ。
エリスは振り払わなかった。
しゃがんで、女の子と目線を合わせた。
「ねえ。今日教えたこと、覚えてる?」
「……指に、気持ちを集めるの……」
「そう。寂しくなったら、それをやってみて。おねえちゃんと同じ色の光が出るから」
「……ほんと?」
出ない。
魔力の補助がなければ、光はほとんど見えないだろう。
でもエリスは頷いた。
「本当よ。おねえちゃん、嘘つかない」
嘘だ。
嘘つきだ、この女は。
でも——この嘘は、たぶん許される種類の嘘だ。
女の子がエリスに抱きついた。
銀髪に顔を埋めて、声を上げて泣いた。
エリスの腕が、ぎこちなく女の子の背中に回った。
抱き返している。
この女が人を抱きしめるのを、初めて見た。
しばらくして、女の子が泣き止んだ。
鼻を赤くして、目を腫らして、でも最後には笑った。
「……おねえちゃん、絶対忘れないでね」
「忘れないわ。約束する」
これは嘘じゃなかった。
声で分かる。
子供たちが一人ずつ帰っていった。
手を振って、振り返って、また手を振って。
全員がいなくなるまで、エリスは広場に立っていた。
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夕方。
町外れの崖の上に来た。
ここからは海が一望できる。
水平線が端から端まで、遮るものなく広がっている。
二人で並んで座った。
足を崖の縁から投げ出して。
風が凪いでいた。
波の音だけが、遠くから聞こえる。
夕日が沈み始めていた。
水平線がオレンジに溶けて、空が紫に変わっていく。
「……いい町だったわね」
「ああ」
「魚が美味しかった」
「ああ」
「漁師がうるさかった」
「ヨルクは良いやつだ」
「子供たちが可愛かった」
「……ああ」
沈黙。
波が三つ。
「……駄犬」
「なんだ」
「私ね、王国にいた時、一度も泣かなかったの」
唐突だった。
「十年間。一度も。泣いたら負けだと思ってたから」
「…………」
「でも今日、あの子が泣いた時、つられそうになった。危なかった」
「……泣いてよかったんじゃないか」
「馬鹿言わないで。聖女は泣かないの」
「元聖女だろ」
「……元でも泣かないわよ。駄犬の前では特に」
特に。
なぜ俺の前では特に泣かないのか。
聞かなかった。
聞いても答えないだろうし、答えが返ってきたら――たぶん、困る。
夕日が半分沈んだ。
海面に光の道が伸びている。二人の影が崖の上で重なっている。
「……ねえ」
「うん」
「次の場所も、悪くないといいわね」
「ああ。悪くないといい」
「温泉があって、静かで、魚が美味しくて」
「子供がいて」
「…………」
エリスが黙った。
横目で見ると、唇を噛んでいた。
「……いたら、いいわね」
小さな声だった。
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◇
夕日が沈んでいく。
隣に、駄犬が座っている。
何も言わない。何も聞かない。ただ隣にいる。
……悪くない。
この町が好きだった。
魚が美味しかったから。海が綺麗だったから。
子供たちが私を「おねえちゃん」と呼んでくれたから。
でも、本当は分かっている。
この町が好きだったのは、ここでの日々が——
「…………」
駄犬の横顔を見る。
夕日に照らされて、いつもの無表情が少しだけ柔らかく見える。
網を修繕する不器用な手。子供を肩に乗せる慎重な腕。
魚のスープを「うまい」と言う素朴な声。
十四日間。
たった十四日間で、こんなに——
……やめよう。
考えすぎだ。
この男は駄犬で、荷物持ちで、護衛で、社畜体質の馬鹿だ。
それ以上でも以下でもない。
……はずなのに。
「……駄犬」
「なんだ」
「…………悪くないわね。ここ」
同じ言葉だ。
何度も交わした言葉だ。
でも今日は、少しだけ意味が違う。
「ここ」が指しているのは、この町じゃない。
この崖でも、この夕日でも、この海でもない。
たぶん——
……たぶん、ね。
「ああ。悪くない」
駄犬が答えた。
いつもと同じ声で。
でも、私にはちょっとだけ、温度が高く聞こえた。
気のせいかもしれない。
気のせいで、いい。
……今は、まだ。




