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第24話 ここにいる理由

海辺の町に着いて十日が過ぎた。


驚くほど早かった。

旅を始めてから、十日も同じ場所にいたのは初めてだ。


朝は市場に行く。顔見知りの魚屋ができた。

「兄ちゃん、今日はカレイが安いよ」と声をかけてくる。

名前も知らないのに「兄ちゃん」だ。


昼はエリスの祝福仕事を手伝う。

手伝うといっても、机を運んで、椅子を並べて、子供たちの相手をするだけだ。


夕方は海を見る。


気づけば、生活のリズムができていた。


「……慣れたわね、この町」


エリスが朝食の支度をしながら言った。


宿の厨房を借りて、今日は魚のスープを作っている。

三日前まではパンとチーズだけだったのに、漁師の奥さんに教わってレパートリーが増えた。


「塩加減、見なさい」


木の匙を差し出された。

一口飲む。


「……うまい」


「当然でしょ。三回目だもの。最初は塩を入れすぎたけど」


最初のスープは塩辛くて飲めなかった。

二回目は薄すぎた。三回目で正解に辿り着いた。

この女の学習速度は、料理でも規格外らしい。


「……しかし、お前が料理するようになるとは」


「やればできるって言ったでしょ。やる機会がなかっただけ」


やる機会。

王国では、全てが用意されていた。食事も、衣服も、日用品も。

その代わり、全てが管理されていた。


今は違う。

自分で魚を選び、自分で味をつけ、自分で「これがいい」と決める。


その一つ一つが、この女にとっては初めてのことなのだ。


「……明日は煮魚に挑戦するわ」


「期待してる」


「期待しすぎないで。失敗したらあんたのせいにするから」


理不尽の方向性は変わらない。


---


午後。


漁師のヨルクに誘われて、港の倉庫で網の修繕を手伝った。


ヨルクは五十過ぎの大柄な男で、最初に網を引いた日に魚を吹き飛ばした件を今でも笑い話にしている。


「いやあ、あの時は驚いたよ。魚が空を飛ぶなんてなあ!」


「……すまない」


「謝んな! あれから大漁続きだぞ。兄ちゃんが幸運を運んできたんだ」


幸運ではない。物理だ。


網の修繕は細かい作業で、本来は苦手な分野だ。

だがヨルクが「引っ張りすぎるな、撫でるようにな」と教えてくれたおかげで、三度目の破壊を乗り越えて、なんとか形になった。


「うまいじゃねえか。最初は網ごと引き裂いてたのに」


「……慣れた」


「慣れるもんだな。何事も」


ヨルクが笑った。


「兄ちゃんさ、この町に住まないか。漁師の仕事、向いてると思うぞ」


「……俺が漁師か」


「腕力だけなら十人前だ。力加減さえ覚えりゃ、一人で船を出せるぞ」


住む。

この町に。


「……考えておく」


「おう。いつでも歓迎だからな」


ヨルクが背中を叩いた。

加減を知らない男だった。こちらは痛くもないが、普通の人間なら吹き飛ぶ威力だ。


漁師は、似た者同士なのかもしれない。


---


夕方。


宿に戻ると、エリスが窓辺で髪を梳いていた。

もう潮風を気にしていない。バサバサの銀髪を、毎晩丁寧に梳いて整えている。


「遅い。どこ行ってたの」


「港で網の修繕を手伝ってた」


「網? あんたが? 破かなかった?」


「三回目からは破かなかった」


「二回は破いたのね」


否定できない。


「……漁師に、この町に住まないかって言われた」


エリスの手が止まった。


「…………ふうん」


「ふうん、か」


「ふうん、よ。で、何て答えたの」


「考えておくと」


「そう」


エリスが髪を梳く手を再開した。

いつもと同じ動作。同じリズム。


だが、少しだけ遅い。


「……お前は、どう思う」


「何が」


「ここに住むこと」


エリスが窓の外を見た。

夕日が海を染めている。もう何度も見た景色だ。でも毎日少しずつ違う。


「……悪くないわよ。この町は」


「ああ」


「魚は美味しい。人は穏やか。子供たちは可愛い。温泉はまだ見つかってないけど」


「見つかるかもしれない。ヨルクが、北の崖の下に温かい水が湧く場所があると言ってた」


「本当?」


目が輝いた。温泉への反応だけは毎回全力だ。


「でも」


エリスの目から光が消えた。消えたというより、沈んだ。


「でも、ここにいたら——また来るわよ。追手が」


分かっている。


この町は穏やかだ。人が良い。暮らしやすい。

だが、それはこの町に戦力がないということでもある。


暗殺部隊が来た時、巻き込まれるのは町の人々だ。

ヨルクも。魚屋も。あの子供たちも。


「……分かってる」


「分かってるなら、聞かないで」


声が硬い。

怒っているのではない。悲しんでいるのだ。


この女は、もう知っている。

「終の棲家」は、簡単には見つからないことを。


見つけても、留まれないことを。


「……でも」


エリスが櫛を置いた。


「もう少しだけ。あと少しだけ、ここにいましょう」


「……ああ」


「子供たちに、お星様の作り方を教える約束をしたの。それが終わるまで」


約束。

誰にも強制されていない。自分で交わした約束。


「分かった。それまではいる」


「……ありがと」


二度目だった。

この言葉を聞いたのは。


前回は聞き間違いかもしれなかった。

今回は、はっきり聞こえた。


でも振り向かない。

振り向いたら消えるものがある。この女の中の、壊れやすい何かが。


「……飯、食いに行くか」


「行くわよ。今日は食堂。私のスープは明日に取っておくの」


「昼に全部飲んだだろ」


「美味しかったからよ。文句ある?」


「ない」


立ち上がって、宿を出た。


夕暮れの坂道を、二人で下りていく。


港の灯りが、一つずつ点いていく。

漁師たちの声が聞こえる。子供の笑い声が聞こえる。


この町は良い町だ。


だから——いつか出ていく時が、少しだけ怖い。


怖いと思うほど、ここが好きになっている。


……面倒だ。


でも、今日だけは面倒だと思うのを、やめておく。

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