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第21話 聖女と海と潮風と

海辺の町に着いて三日目。


エリスは宿から一歩も出ていなかった。


正確には、市場と食堂には行く。だが海には近づかない。

窓から眺めるだけだ。


「行かないのか。海」


「行かないわよ。潮風で髪がバサバサになるの。髪の手入れがどれだけ大変か、駄犬には分からないでしょうね」


「分からん」


「でしょうね。あんたの髪は放置しても同じだもんね」


放置しても同じ。褒めてはいない。


だが、窓辺に座るたびに海を見ている。

目が水平線を追っている。波を見ている。


行きたいのだ。

行きたいけど、髪が心配。この女の優先順位は相変わらず謎だ。


「……フードを被ればいいんじゃないか」


「え?」


「ローブのフードを被って、髪を全部中にしまえば潮風は当たらないだろ」


エリスが目を瞬かせた。


三秒の計算。


「……天才なの? 駄犬のくせに」


「普通の発想だろ」


「普通の発想が出てくることが天才なのよ。私は美容のことになると視野が狭くなるの」


自覚はあるのか。


十分後、エリスはフードを目深に被り、銀髪を完全に格納した状態で宿を出た。


---


砂浜は、町の南側にあった。


白い砂。青い海。波が規則的に寄せて返している。

平日の昼間で、人は少ない。漁師が数人、網の手入れをしているだけだ。


エリスが砂浜の入口で立ち止まった。


「……靴が汚れる」


「脱げばいいだろ」


「裸足で砂の上を歩くの? 野蛮ね」


「海に来て靴を脱がない方がおかしい」


「……駄犬が先に脱ぎなさい。私はそれを見てから判断する」


ブーツを脱いだ。靴下も。

砂が足の裏に触れる。温かい。日差しを吸い込んだ砂だ。


「……どう?」


「別に。砂だな」


「感想が薄いわね。もっとこう、感動とかないの」


「ない。砂だ」


エリスが渋々靴を脱いだ。

右足を砂に下ろす。


「…………あ」


声が漏れた。


「……あったかい」


小さな声だった。

素の声だ。フードの下の顔は見えないが、声の温度が変わった。


「砂って、こんなにあったかいの」


「日が当たってるからな」


「知識では知ってたけど……全然違うわね。触ると」


エリスが一歩踏み出した。もう一歩。

砂に足跡がつく。小さな足跡だ。


波打ち際に向かって歩いていく。

おそるおそる。だけど、止まらない。


波が足元に届いた。


「冷たっ……!」


飛び退いた。


「……な、何よこれ。冷たいじゃない!」


「海だからな」


「海は青くて綺麗なものじゃないの!? こんなに冷たいなんて聞いてないわよ!」


誰に聞くんだ。


エリスがフードの下から海を睨んでいる。

海を睨む女。初めて見た。


だが、三十秒後にはもう一度波打ち際に戻っていた。

今度は覚悟していたのか、冷たさに耐えている。足首まで浸かっている。


「…………」


「どうした」


「……面白い。波って、引く時に砂を持っていくのね。足が沈んでいく」


「そうだな」


「なんか……不思議。地面が動いてるみたい」


エリスが足元を見つめている。

波が寄せて、返して、砂が流れて、足が少しずつ埋まっていく。


こんな顔をするのか。

この女にも、こんな顔があるのか。


子供みたいだ。

初めてのものに触れて、驚いて、怖がって、でも離れられなくて。


「……覚えておこう。この顔」


独り言のつもりだった。


「何よ」


「いや、何でもない」


「何でもなくないでしょ。今なんか言ったわよね」


「波の音だ」


「嘘」


嘘だ。でもこれ以上は言わない。


---


午後。


漁師たちが網を引いていた。

大漁らしく、網が重い。人手が足りないようだ。


「おーい、兄ちゃん! 暇なら手伝ってくれないか!」


年配の漁師に声をかけられた。


エリスが波打ち際から戻ってきて、即答した。


「もちろん手伝うわ。この人が」


勝手に引き受けるな。……と思ったが、断る理由もない。


「了解」


網を掴んだ。


漁師たちと一緒に引く。


問題は、力加減だった。


「よいしょ、よいしょ……」


漁師たちが掛け声に合わせて引いている。

合わせなければ。ゆっくり。均等に。漁師たちと同じペースで。


引いた。


網が飛んできた。


「うおっ!?」


漁師三人が網ごと砂浜に引きずられた。

魚が宙を舞った。大量の魚が、放物線を描いて砂浜に降り注いだ。


「……す、すまない」


「に、兄ちゃん……何者だ……?」


漁師たちが砂まみれで呆然としている。


エリスが腹を抱えて笑っていた。


フードが外れている。銀髪が潮風に晒されている。でも気にしていない。笑いすぎて。


「あっはは……! 駄犬、何やってるのよ……! 魚が空飛んでるじゃない……!」


涙が出るほど笑っている。

この女がこんなに笑うのを、初めて見た。


「……髪、出てるぞ」


「え? あっ……!」


慌ててフードを被り直す。だが手遅れだ。すでに潮風を浴びている。


「……あんたのせいよ。面白すぎて忘れてたじゃない」


「俺のせいか」


「全部あんたのせいよ。魚が空を飛ぶのが悪い」


魚は悪くない。俺の腕が悪い。


漁師たちが散らばった魚を拾い集めている。

一人がこちらに来て、大きな鯛を差し出した。


「いやー兄ちゃんすごいな! 一人で網引いたの初めて見たぞ! これ、お礼だ。持ってけ」


「……いいのか」


「もちろんだ! また手伝ってくれよ!」


鯛を受け取った。立派な鯛だ。


エリスが鯛を見て、目を輝かせた。


「焼くわよ。今夜。私が」


「……頼む」


「塩焼きね。あんたには任せないわよ。鯛が炭になるから」


ならないとは言い切れない。


---


夕方。


宿の窓辺に並んで座っていた。

エリスの髪は案の定バサバサになっていたが、本人は不思議と文句を言わなかった。


「……楽しかったわ」


「何が」


「海。砂。魚が飛んだの」


「最後のは事故だろ」


「事故が一番面白かったのよ。あんたの顔。漁師の顔。全部おかしかった」


エリスが窓枠に頬杖をついた。


夕日が海を染めている。昨日と同じ景色。でも、今日の方が色が濃く見える。


「……ねえ駄犬」


「なんだ」


「明日も行きたい。海」


「髪はいいのか」


「……洗えば戻るわよ。たぶん」


たぶん。

この女にしては、ずいぶん譲歩した。


「了解」


「あと、漁師の手伝いは禁止。魚が可哀想だから」


「魚じゃなくて漁師が可哀想だろ」


「それもそうね」


二人で笑った。


声を上げてではない。

静かに、息を吐くような笑い。


こういう時間がある。

王国にいた頃には、なかった時間だ。


二人とも。


「……悪くないわね、ここ」


「ああ」


同じ言葉。

昨日も交わした言葉だ。


でも、毎日少しずつ、重みが増している気がする。


――明日も海に行く。


面倒じゃない。

珍しく、面倒じゃない。

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