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第20話 二つ目の候補地

海が見えた。


街道の曲がり角を抜けた瞬間、視界が開けた。

青い。とにかく青い。空と海の境目が溶けて、どこまでも続いている。


「…………」


エリスが立ち止まっていた。


風が銀髪を攫う。潮の匂いが混じった風。

ローブの裾がはためいて、エリスが片手で押さえた。


「……海」


小さな声だった。


“表”でも”裏”でもない。素の声。

峠のシチュー屋で「美味しい」と言った時と同じ種類の声。


「見たことなかったのか」


「……本でしか。結界の維持中は王都から出られなかったから」


十年間。

この女は十年間、海を見たことがなかった。


紫の瞳が、水平線を映している。

広い。こんなに広い世界があることを、この女はずっと知らなかった。


「……綺麗ね」


「ああ」


「でも髪がベタベタしそう。潮風って最悪よね」


三秒で現実に戻った。

だが、声の温度はまだ柔らかいままだった。


---


海辺の町は、港町だった。


坂の多い町だ。白い壁の建物が斜面に張り付くように並んでいる。

港には漁船が停泊し、市場では朝の水揚げが並んでいる。活気がある。


人が多い。だが、交易路の中継地とは空気が違う。

よそ者に慣れている。旅人が来ても、じろじろ見ない。


「いい町ね」


エリスが市場を見回して言った。


「魚が安い。宿も多い。人の目が穏やか」


観察力が鋭い。この女は三十秒で町の質を見抜く。


「温泉は?」


「まだ探してないわよ。でも、この地形なら地脈が通っていてもおかしくない」


「根拠は」


「勘よ。聖女の勘」


また聖女の勘だ。


宿は港の近くに取った。二階建ての白い建物。窓から海が見える。


部屋に入ると、エリスが真っ先に窓を開けた。


潮風が入ってくる。カーテンが膨らむ。

窓枠に腕を置いて、エリスが海を眺めた。


「……ねえ、駄犬」


「なんだ」


「ここ、いいかもしれない」


二つ目の候補地だ。


温泉郷は壊滅していた。一つ目は消えた。

ここが二つ目。海がある。魚がある。人が穏やかだ。


「……まだ着いたばかりだぞ」


「分かってるわよ。でも第一印象は大事なの」


エリスが振り向いた。

逆光で表情が見えにくい。でも、声が笑っていた。


「しばらくいましょう。ここで」


「……了解」


断る理由がなかった。


---


夕方。


市場で買った魚を、宿の厨房を借りて焼いた。

焼いたのはエリスだ。


「あんたにやらせると魚が炭になるでしょ」


否定できない。


エリスの料理は意外にもまともだった。

パンにチーズを挟むだけだと思っていたが、魚を焼くくらいはできるらしい。

塩加減も悪くない。


「……うまいな」


「当然でしょ。私よ?」


「お前に料理ができるとは思わなかった」


「失礼ね。やらなかっただけよ。やればできるの」


やればできる。

これまでの人生で「やる」機会がなかっただけだ。

王国では何もかもが用意されていた。

その代わり、何もかもが奪われていた。


「……こういうの、初めてかもしれない」


エリスがぽつりと言った。


「自分で買った魚を、自分で焼いて、自分で食べる。……普通のことなのに」


普通のこと。

十年間、普通のことができなかった女の言葉だ。


「……普通は、いいもんだ」


「何よ、急に」


「いや。俺も王国にいた頃は、飯は支給で、寝る時間は決められてて、自分で選ぶことなんかなかった」


「……似たもの同士ね。嫌になるわ」


「まあ、そうだな」


二人で夕飯を食べた。

買ってきたパンと、焼き魚と、市場で貰った果物。


贅沢ではない。

でも、自分で選んで、自分で用意した飯だ。


それだけで、十分だった。


---


食後。


宿の前のベンチに座って、海を見ていた。


夕日が沈んでいく。

水平線がオレンジ色に染まって、海面に光の道が伸びている。


隣にエリスが座っている。

半歩分の距離。肩は触れない。でも、手を伸ばせば届く。


風が凪いでいた。

波の音だけが、規則的に繰り返されている。


「……駄犬」


「なんだ」


「あんたさ、王国にいた頃、何のために戦ってたの」


唐突な質問だった。


「……命令だったから、としか言えないな」


「それだけ?」


「それだけだ。守りたいものがあったわけじゃない。国のためとか民のためとか、言葉では言ってたけど、実感はなかった」


「……今は?」


「今?」


「今は何のために戦ってるの。暗殺部隊とか、魔獣とか」


考えた。


三秒。


「……温泉に行くため」


「は?」


「お前が温泉に行きたいって言うから。そこに辿り着くまで、邪魔を排除してるだけだ」


エリスが口を開きかけて、閉じた。


もう一度開いた。


「……それ、本気で言ってるの」


「本気だ」


「馬鹿じゃないの」


「かもな」


沈黙。


波が三つ寄せて、返した。


「……私のため、とは言わないのね」


「言わない。お前のためじゃない。温泉のためだ」


「…………」


エリスが顔を背けた。

夕日のせいで顔の色は分からない。


「……変な男」


「よく言われる」


「誰に」


「お前に」


「……ふん」


エリスが立ち上がった。


「寝るわ。明日、町を回るんだから。温泉を探すの。あんたも手伝いなさい」


「了解」


エリスが宿に入っていく。

扉の前で、一度だけ振り向いた。


「……ここ」


「うん」


「悪くないわね」


「ああ。悪くない」


エリスが消えた。


一人で、もう少しだけ海を見ていた。


夕日が沈みきって、空が紫に変わる。

星がひとつ、水平線の上に光った。


「悪くない」。


旅の初日に俺が思ったのと、同じ言葉だ。

でも、あの時と重さが違う。


あの時は「屋根があって飯があれば悪くない」だった。

今は——この女がいる場所が「悪くない」だ。


いつの間にか、意味が変わっていた。


温泉のため。

温泉のためだと言った。


嘘じゃない。嘘じゃないんだが——


……まあ、温泉のため、ということにしておこう。


今は、まだ。

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