第19話 宰相の苦悩
◇ 王都アークライト
宰相ヴァルムンド・グレイアスの執務室には、窓がない。
地下二階。石壁に囲まれた部屋。蝋燭の灯りだけが、古い机と山積みの書類を照らしている。
窓がないのは防諜のためだ。音が漏れない。魔力も遮断される。
この部屋で、王国の「裏側」は動いている。
扉が叩かれた。
「入れ」
入ってきたのは、灰色の外套の男。暗殺部隊の連絡員だ。
顔が青い。汗が額に浮いている。
嫌な予感がした。
この仕事を三十年やっていれば、報告者の顔色で結果が分かる。
「……申し上げます。西方面に展開した特務班、八名。全員が戦闘不能」
予感は当たった。
「死者は」
「ゼロです。全員生かされました。ただし、全身の骨と筋肉に魔力障害を受けており、回復には数ヶ月を要すると」
ヴァルムンドは椅子の背に体を預けた。
八人。
宰相直属の暗殺部隊の中でも、対人戦に特化した精鋭を選んだ。
魔力付与の装備を持たせ、先遣の偵察班四人と本隊八人の二段構えで挑ませた。
十二人が、全滅した。
「先遣班の報告では、追放者アルレンの戦闘力は想定を大幅に上回っていると。折れた聖剣の欠片のみで四人を——」
「アルレンではない」
ヴァルムンドは遮った。
「本隊を潰したのは誰だ」
連絡員が唾を飲んだ。
「……聖女エリスです。本隊は追放者を追い詰めましたが、その最中に聖女が介入。魔法詠唱なし、身振りのみで八名を制圧したと」
詠唱なし。
身振りのみ。
ヴァルムンドの指が、机の上で止まった。
「……何と言った。聖女は」
「隊員の証言によると——『私の駄犬に手を出すな』と。そして、『次は宰相府ごと更地にする』と」
沈黙が、部屋を満たした。
蝋燭の炎が揺れた。
ヴァルムンドは目を閉じた。
聖女エリス。
十四歳からこの国の結界を一人で維持し続けた天才。
いや、天才という言葉では足りない。
あの少女の魔力は、魔術師ギルドの全員を束ねても届かない領域にある。
そして今、その力が——あの追放者を守るために使われている。
最悪の展開だ。
「……下がれ」
連絡員が一礼して退出した。
一人になった執務室で、ヴァルムンドは引き出しから古い巻物を取り出した。
羊皮紙。かなり古い。百年では利かない。
文字は古代語で記されている。読める人間は、この国に数人しかいない。
ヴァルムンドは、その数人のうちの一人だった。
巻物の一節を、指でなぞった。
『七つの柱、世界を覆う盾たり。
一つが欠ければ壁に罅が入り、
すべてが折れれば、封じられし者が目を覚ます。
柱の守り手は、己が力を捧げて壁を保つべし。
守り手が去れば、柱は枯れ、壁は崩れ、
封印の向こうから、災厄が這い出る。』
ヴァルムンドは巻物を閉じた。
聖女エリスは、知っているのだろうか。
自分が維持していた結界が、ただの国境防衛ではなく——世界を覆う「七つの柱」の一つであったことを。
そして、その柱が折れた今、何が起きようとしているのかを。
……おそらく、知らない。
知っていれば、辞めなかったはずだ。
あの少女は「民のため」には動かないが、「世界が終わる」と知れば——たぶん、動く。
だからこそ、知らせるわけにはいかない。
知らせれば、聖女は戻ってくるかもしれない。
だが同時に、真実が明るみに出る。
王国が聖女を「道具」として使い続けてきたこと。
結界の本当の意味を、聖女本人に伝えなかったこと。
聖女の犠牲の上に、王国の繁栄が成り立っていたこと。
それが知れ渡れば、王国は内側から崩れる。
ヴァルムンドは、王国を守るために聖女を利用した男だ。
そしてヴァルムンドは、王国を守るために聖女の口を塞がねばならない男だ。
「……面倒な話だ」
独り言が、奇しくもあの追放者と同じ言葉だった。
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扉が蹴り開けられた。
「宰相殿!」
金髪。碧眼。煌びやかな鎧。
新勇者カイルが、胸を張って入ってきた。
「暗殺部隊が敗れたと聞きました! やはり俺が行くべきだったんです!」
ヴァルムンドは額を押さえた。
この男は扉を叩くという概念を持っていないのか。
「カイル。勝手に入るなと何度言えば——」
「些細なことです! それより、次の作戦は俺に任せてください! 今度こそ、あの男を——」
「黙れ」
声が低い。
カイルの口が、物理的に止まった。
「お前では無理だ。相手は追放者アルレンだけではない。聖女エリスが本気で動いている。お前が行けば、五秒で氷漬けにされて終わりだ」
「そ、そんなことは……! 俺は勇者ですよ!? 聖剣を持つ——」
「レプリカだ」
カイルの顔が凍った。
「お前が持っているのは精錬鋼に金メッキを施したレプリカだ。本物の聖剣は折れて、アルレンの腰にある。知らなかったのか」
知らなかったらしい。
カイルの目が泳いでいる。口が開閉している。言葉が出てこない。
ヴァルムンドはため息をついた。
この男を「勇者」に仕立てたのは、自分だ。
見た目が良く、声が通り、民衆を安心させる笑顔を持っている。
実力は二の次だった。必要だったのは「象徴」であり、「戦力」ではない。
その判断は正しかったと、今でも思っている。
だが、象徴は象徴でしかない。実戦の駒にはならない。
「……下がれ、カイル。お前の出番ではない」
「しかし——!」
「下がれと言っている」
カイルが唇を噛んだ。
拳を握り、肩を震わせ——そして、踵を返した。
扉の前で、一度だけ振り向いた。
「……俺は、本物の勇者になります。必ず」
ヴァルムンドは答えなかった。
扉が閉まった。
今度は蹴らなかった。静かに閉じた。
それだけが、あの男の唯一の成長かもしれなかった。
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一人になった執務室で、ヴァルムンドは巻物をもう一度開いた。
『すべてが折れれば、封じられし者が目を覚ます。』
七つの柱のうち、一つが欠けた。
聖女が去ったことで、アークライト王国の結界柱が機能を停止した。
残りは六つ。
他の国の「守り手」たちが、それぞれの柱を維持している——はずだ。
だが、報告が入り始めている。
北方の凍土でも魔獣の出現頻度が上がっている。
西の海域で異常な潮流が観測されている。
南の砂漠で、封じられていたはずの遺跡が露出した。
一つの柱が折れたことで、他の柱にも負荷がかかっている。
ドミノだ。
一つが倒れれば、次が倒れる。
すべてが倒れれば——
ヴァルムンドは巻物を引き出しに戻し、鍵をかけた。
聖女を連れ戻す。
それが最善だ。手段は問わない。
だが、あの追放者が邪魔をする。
しかも聖女自身が、あの男のために力を使い始めている。
「私の駄犬に手を出すな」。
宰相の暗殺部隊を前にして、あの言葉が出るということは——
もう、ただの主従ではない。
ヴァルムンドは蝋燭の炎を見つめた。
「……次の手を打たねばならんな」
だが、どんな手を打てば——
指を弾くだけで空を割る女と、折れた聖剣で飛竜を殴り殺す男を、どうやって止める。
答えは出なかった。
蝋燭の炎が、静かに揺れていた。




