第18話 聖女の本気
朝食を済ませて、町を出た。
西へ向かう。海を目指す。
暗殺部隊は退けたが、宰相が一度で諦めるとは思えない。移動し続けるのが最善だ。
「……昨夜の連中、どのくらいで報告が届くと思う」
「馬を使えば三日で王都。そこから次の部隊を編成して、こちらの位置を特定して……早くて十日。遅ければ二週間」
エリスの計算は正確だ。十年間、宰相府の内側にいた人間の勘が働いている。
「十日か。それまでに距離を稼ぐ」
「そうね。海まで行けば、船で別の大陸に——」
エリスの言葉が途切れた。
足が止まっている。
紫の瞳が、街道の先を見ていた。
瞳の奥で、魔力が波打っている。何かを感知した目だ。
「……嘘でしょ」
「どうした」
「前方。三百歩先の林。八人。武装。魔力付与された装備」
八人。
昨夜は四人だった。倍だ。
「第二波、ってことか」
「違うわ。これは昨夜の連中とは別。たぶん、最初から二手に分かれて待ち伏せしていたの。一手目が偵察で、二手目が本命」
背筋が冷えた。
昨夜倒した四人は、偵察だった。
本命は八人。しかも魔力付与の装備。宰相は最初から本気だった。
「……回り道するか」
「無理よ。西の街道はここしかない。北に逸れたら山脈。南は湿地帯。迂回してる間に追いつかれるわ」
つまり、正面突破しかない。
八人。
四人なら余裕だった。八人でも、全員が昨夜の三人程度の実力なら、時間はかかるが倒せる。
問題は、エリスがいることだ。
一人なら暴れるだけでいい。だが、エリスを守りながら八人を相手にするのは——
「駄犬」
「分かってる。お前はここにいろ。俺が——」
「違う」
エリスの声が硬い。
「八人よ。しかも魔力装備。あんた一人じゃ無傷では済まない」
「済まなくても勝てる」
「勝っても重傷を負ったら意味がないの。次の追手が来た時に動けなくなるでしょ」
正論だ。
だが、他に手がない。
「私も——」
「駄目だ」
遮った。
エリスが目を見開いた。
「……何よ」
「お前は温存しろ。魔力を使いすぎたら、前みたいに動けなくなる」
「前とは状況が違うわ。あの時は飛竜を七匹消し飛ばしたの。人間八人くらい——」
「駄目だ」
二度言った。
自分でも、声が強いと分かっていた。
エリスが黙った。
紫の瞳がこちらを見つめている。怒りか、困惑か、それとも別の何かか。
「……行ってくる」
欠片を抜いて、街道の先に歩き出した。
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林の手前で、向こうから出てきた。
八人。
全員が黒い軽装鎧。顔を布で覆っている。腰に短剣、背中に弓。
昨夜の連中より装備が統一されている。正規の暗殺部隊だ。
先頭の一人が、手を挙げた。
「追放者アルレン。宰相閣下の命により、聖女エリスの身柄を頂く。抵抗すれば——」
「する」
先頭の男が言葉を飲んだ。
「……そうか」
八人が散開した。
扇状に広がる。教科書通りの包囲陣形だ。
だが、教科書通りということは——読める。
踏み込んだ。
正面の二人を割って、包囲の内側に入る。
背後を取らせない。壁を背にして扇の要に立つ。
一人目が斬りかかってきた。短剣。速い。魔力付与で刃が淡く光っている。
弾く。欠片の硬度の前には、魔力付与の短剣でも軽い。
二人目、三人目が同時に来た。左右から。連携している。
左を蹴り飛ばし、右の短剣を素手で掴んだ。
刃が掌を切る。血が滴る。だが、握力で刃を圧し折った。
折れた刃の持ち主が後退する。その隙に、欠片で四人目を叩く。
四人倒した。残り四人。
だが——背後。
弓。
振り向く暇がなかった。
矢が三本、同時に放たれた。
一本は肩甲骨の脇を抜けた。浅い。
一本は腰の鎧の隙間をかすめた。
三本目が——右の脇腹に刺さった。
「っ——」
痛みが走る。
矢じりが肋骨の間に食い込んでいる。深くはない。だが、動くたびに軋む。
魔力付与の矢だ。傷口から、異質な魔力が体内に浸透しようとしている。
毒じゃない。拘束術式だ。体の動きを鈍らせる魔法。
振り払う。自分の魔力で異物を押し出す。だが数秒のタイムロスが生まれた。
その数秒で、残りの四人が距離を詰めてきた。
前方に二人。後方に弓兵が二人。
前の二人が同時に斬りかかる。
欠片で一人を弾き、もう一人の腹に膝を入れた。
だが、脇腹の傷が軋んだ。
一瞬、動きが鈍る。
その隙を、弓兵が逃さなかった。
矢がもう一本、放たれた。
左肩。
今度は深い。
矢が肉に沈み込む感触。腕の感覚が一瞬、遠くなった。
「…………っ」
膝をつきかけた。堪える。
立て。立っていろ。
残り二人。弓兵。
距離がある。欠片では届かない。
弓兵が三本目の矢をつがえた。
今度は——頭を狙っている。
間に合うか。
駆け出そうとした瞬間。
空気が変わった。
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温度が落ちた。
気温ではない。空間そのものの質が変わった。
森が静まり返る。鳥が飛び立つ。虫の音が消える。
弓兵の手が止まった。
矢をつがえたまま、動けなくなっている。
後方から——足音。
規則的で、静かで、冷たい足音。
エリスだった。
銀髪が風もないのに揺れている。
紫の瞳が発光していた。あの飛竜戦の時と同じ——いや、違う。
あの時は「仕方ないわね」だった。
今は違う。
怒っている。
「……言ったわよね」
声が低い。
“表”でも”裏”でもない。もっと深い、もっと冷たい声。
「待ってろって言っただろ——」
「黙りなさい」
遮られた。
エリスがアルレンの横を通り過ぎた。
すれ違いざまに、左肩の矢に指先が触れた。淡い光。矢が溶けるように消え、傷口が塞がった。
歩きながらの無詠唱治癒。呼吸するように自然に。
エリスは弓兵の方に歩いていく。
弓兵が矢を放った。反射的に。恐怖で。
矢がエリスの顔の前で止まった。
空中で静止している。魔力の壁だ。
エリスが指先で矢を摘んだ。折って、捨てた。
「あなたたち」
弓兵の一人が後退しようとした。
足が動かない。地面から紫の光の鎖が巻き付いている。
「私の駄犬に手を出すな」
空気が震えた。
もう一人の弓兵が剣を抜いた。
最後の抵抗。
エリスが右手を振った。
振っただけだ。
紫の衝撃波が弓兵を包んだ。
殺さない。だが、立てなくする。骨と筋肉に直接魔力を叩き込み、全身を痺れさせる。
弓兵が二人とも倒れた。
意識はある。だが、指一本動かせない。
エリスが倒れた弓兵を見下ろした。
「宰相に伝えなさい」
声が凍っている。
「次にこの男に傷をつけたら——」
紫の瞳が、一段と強く光った。
「私が王都まで歩いて行って、宰相府ごと更地にするわ」
冗談ではない。
この女の魔力なら、できる。文字通り。
弓兵が白目を剥いて気絶した。
恐怖で意識が飛んだのだ。
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戦闘が終わった。
暗殺部隊八人、全員が地面に転がっている。
死者はゼロ。だが全員が当分は動けない。
エリスが振り向いた。
「脇腹。見せなさい」
「大したことは——」
「見せなさい」
有無を言わさない声だった。
上着をめくる。右の脇腹に、矢の刺さった痕。血は止まりかけているが、肉が裂けている。
エリスの指先が傷口に触れた。
治癒魔法の光が、傷を塞いでいく。
「……浅いわね。肋骨には届いてない」
「だから大したことはないと——」
「大したことなくないわよ」
声が震えていた。
「あんたが矢を受けた時、私——」
言葉が途切れた。
エリスが唇を噛んでいる。
何かを飲み込もうとしている。
「……何でもない。黙って治療されなさい」
「……ああ」
治癒が終わった。
傷は塞がった。痛みも消えている。
エリスが手を引いた。
指先が微かに震えていた。
「……ねえ、駄犬」
「なんだ」
「さっき私、何て言ったか覚えてる?」
「……『私の駄犬に手を出すな』」
「…………」
沈黙。
耳が、真っ赤だった。
「あれは……所有物の管理よ。駄犬は私の荷物持ちだから。壊されたら困るの。それだけよ」
「ああ」
「本当よ」
「分かった」
「分かったならいいの。……変な意味に取らないでよね」
変な意味。
「私の」と言ったことの、どこが変な意味なのか。
——分かっている。
分かっているけど、言わない。
「……行くか」
「行くわよ。もうこんな森は嫌。海に行くの。早く」
エリスが先に歩き出した。
背中が小さい。
でも、あの背中から放たれた魔力は、八人の暗殺者を一瞬で沈めた。
「私の駄犬」。
所有物の管理。
荷物持ちが壊されたら困る。
——嘘つき。
声が震えていたのを、たぶん本人は気づいていない。
気づいていても、認めないだろう。
それでいい。
今はまだ。




