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第16話 宰相の手紙

海を目指して西へ三日。


次の町は、交易路の中継地だった。

東西南北の街道が交差する、そこそこ大きな町。宿は四軒。市場は毎日開いている。商人が多く、人の出入りが激しい。


「ここなら情報が集まるわね」


エリスが市場を見回して言った。

“表”の顔ではない。観察者の顔だ。


「海辺の温泉がある町を探さないと。商人に聞けば分かるでしょ」


「ああ。俺が聞いてくる」


「当然よ。私が聞くと話が長くなるの。全員が私に見惚れるから」


自信は健在だ。


宿を取り、荷物を下ろし、市場に出た。


商人たちに聞き込みをする。

海辺の温泉。静かな町。魔物被害が少ない場所。


「南西に港町があるよ。温泉があるかは知らんが、海は綺麗だって話だ」


「東の海岸沿いにも温泉が出る村があったはずだが……最近は物騒でな。結界が弱まってから、どこも荒れてる」


結界。

その言葉が出るたびに、奥歯に何か引っかかるものがある。


情報を持ち帰って、宿でエリスに報告した。


「南西の港町か。悪くないわね。距離は?」


「ここから六日ほどだ」


「遠いわね。でも海があるなら許す」


許すのか。何を。


「あと、東の海岸沿いの村は——」


部屋の扉が叩かれた。


二人とも、動きが止まった。


宿の主人の声ではない。

叩き方が違う。均等な間隔。訓練された手つき。


「……エリス」


「分かってる」


エリスが指先を軽く振った。

微かな魔力が扉の向こうを探る。


「一人。武装なし。魔力もほぼゼロ。……ただの使者ね」


使者。


扉を開けた。


立っていたのは、灰色の外套を被った痩せた男だった。

顔色が悪い。長旅をしてきた顔だ。


「……アルレン殿、でしょうか」


名前を知っている。


「誰だ」


「王都からの使者です。お渡しするものがあります」


男が外套の内側から、封蝋された手紙を取り出した。


蝋の紋章を見て、背中が冷えた。


三つの塔と蛇。

宰相ヴァルムンドの紋章だ。


「……渡したぞ。俺の役目はここまでだ」


男は踵を返して、廊下に消えた。足音が速い。逃げるように去っていく。


手紙を見下ろす。

封蝋に触れると、指先に微かな魔力を感じた。


「……開封確認の術式がかけてある」


エリスが横から言った。


「開けた瞬間に、送り主に通知が飛ぶ仕組みよ。王都の宰相府がよく使う手」


「詳しいな」


「十年いたんだから当然でしょ。で、開けるの?」


「……読まないと分からないだろ」


封を切った。


---


手紙の内容は、短かった。


『追放者アルレン、並びに逃亡者エリスへ。


王国は両名の帰還を求める。

応じる場合、過去の罪は不問とし、相応の待遇を約束する。


応じない場合、相応の措置を取る。


この書簡をもって、最後の通告とする。


——宰相ヴァルムンド・グレイアス』


「…………」


「見せなさい」


エリスが手紙を奪い取った。目を通す。三秒。


鼻で笑った。


「“相応の待遇”。笑わせるわね。十年間の無給残業の後に、“待遇を約束”ですって」


「罪の不問、とも書いてある」


「罪? 何の罪よ。私は辞めただけ。あんたは聖剣が勝手に折れただけ。罪なんか最初からないのよ」


正論だ。

だが正論が通る相手なら、手紙ではなく対話で済む。


「“相応の措置”が問題だな」


「暗殺部隊でしょうね。宰相お抱えの」


エリスは平然と言った。

暗殺部隊という単語を、天気予報のように軽く口にする。


「お前、怖くないのか」


「怖い? 暗殺者が? あのね駄犬、私を殺せる人間はこの大陸にほとんどいないわよ」


「ほとんど、か」


「ゼロとは言わないわ。でも、宰相が送ってくる程度の駒では無理」


自信の根拠が明確すぎて反論できない。


「それより気になるのは別のことよ」


エリスが手紙をテーブルに置いた。


「この手紙、あんた宛てよね」


「……そうだな」


「宰相が追いたいのが私たち二人なら、手紙は二通来るか、連名になるはず。でもこれはアルレン宛て。私の名前は”並びに”で付け足されてるだけ」


言われてみれば、確かにそうだ。


「つまり宰相が本当に怖いのは、あんたじゃない」


「……俺じゃない?」


「あんたは追放された元勇者。戦闘力は脅威だけど、政治的には無力でしょ。国に戻る意思もないし、王位を狙うわけでもない」


「そうだな」


「でも私は違う。私は”王国の聖女が逃げた”という事実そのもの。私が口を開けば、王国が聖女を十年間どう扱ったか、結界の維持がどんなものだったか、全部世間に知れ渡る」


エリスの目が冷たくなった。

聖女でも女王でもない。政治の盤面を読む者の目だ。


「宰相が恐れてるのは、私の魔法じゃない。私の”口”よ」


沈黙。


雨上がりの窓の外で、鳥が鳴いていた。

平和な音だ。手紙の内容とは釣り合わない。


「……で、どうする」


「どうもしないわ。帰る気はない。あんたは?」


「あるわけないだろ」


「じゃあ決まりね。この手紙はゴミよ」


エリスが手紙を折り畳んで、テーブルの端に押しやった。捨てはしない。証拠として残すつもりだろう。こういう時の判断が鋭い。


「ただし」


エリスが指を一本立てた。


「“相応の措置”は来るわよ。それも近いうちに。宰相は合理的な男だから、手紙と同時に部隊を出してるはず」


「……つまり、もう来てるかもしれないと」


「この町は交易路の中継地。人の出入りが多い。紛れ込むには最適。私なら、ここに先回りさせるわ」


背筋が冷えた。

この女の読みは、外れたことがない。


「今夜か」


「分からない。明日かもしれない。でも、この町を出る前には来る。間違いなく」


エリスがベッドに腰掛けた。

足をぶらぶらさせている。緊張感がない——ように見える。


だが、指先がローブの裾を握っていた。

微かに。ほんの僅かに。


「……駄犬」


「なんだ」


「今夜は寝ないでいなさい。見張りよ」


「了解」


「私は寝るわ。明日に備えて体力を温存するの」


「お前が寝て俺が起きてるのか」


「当然でしょ。駄犬は番犬なんだから」


番犬。

駄犬から番犬への昇格か降格かは分からないが、役割が明確になった。


「何かあったら起こす」


「当たり前でしょ。起こさなかったら許さないわよ」


エリスが横になった。

毛布を引っ張り上げて、背中を向ける。


「……おやすみ、駄犬」


「……ああ」


おやすみ。

この女がその言葉を口にするのは、初めてだった。


たぶん、明日から面倒なことになる。

宰相直属の暗殺部隊。金ピカとは格が違う相手だ。


欠片に手を触れた。

オリハルコンの冷たい感触が、掌に馴染む。


窓の外を見る。

町の灯りが、夜の中で揺れている。


どこかに、こちらを見ている目がある。

まだ見えない。でも、いる。


「……面倒だな」


いつもの口癖だ。


でも今夜は、その言葉の後に続くものが違った。


——この女には、指一本触れさせない。


面倒とか、そういう話じゃなく。

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