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第15話 温泉郷は遠かった

東の山脈を越えた先に、それはあった。


温泉郷——のはずだった。


斜面に並ぶ木造の建物。湯煙を上げるはずの泉源。旅人を迎える石畳の道。


全部、壊れていた。


建物は半壊し、屋根が地面に落ちている。

石畳はひび割れて草に侵食されている。

泉源からは湯気の代わりに、冷たい水が申し訳程度に滲んでいた。


「…………」


エリスが立ち止まっていた。


表情が読めない。

怒っているのか、悲しんでいるのか、呆れているのか。


「……いつ頃だ」


周囲を見る。

建物の崩れ方。木材の腐り具合。草の成長。


「半年から一年。割と最近だな」


「魔獣ね」


エリスが石畳の端に目を向けた。

爪痕がある。国境の町で見たのと似た、魔力を帯びた破壊の痕。


「結界が弱まって、山から下りてきた魔獣に襲われたんでしょうね。

住民は逃げたみたい。死体も骨もないから」


分析が冷静だ。

冷静すぎるくらいに。


「……エリス」


「何よ」


「残念だったな」


「何が」


「温泉」


エリスが鼻で笑った。


「別に。温泉なんてどこにでもあるわ。ここじゃなきゃ駄目な理由はない」


嘘だ。

百年前の旅行記を見つけてから、この女は毎日「東の温泉郷」の話をしていた。

湯の温度は何度がいいとか、露天がいいとか、硫黄泉と炭酸泉の違いがどうとか。


楽しみにしていたのだ。たぶん、王国を出てから一番。


「……次を探すか」


「当然でしょ。ここで泣いてても湯は湧かないわ」


泣いていない。

でも、声が少しだけ硬い。


---


温泉郷の跡地を通り抜けて、反対側の街道に出た。


道中、エリスは口数が少なかった。

いつもなら「遅い」「水」「肩が凝った」と文句が飛んでくるのに、今日はない。


これはまずい。


エリスが黙っている時は、大体ふたつのパターンだ。

限界まで疲弊しているか、内側で何かを考え込んでいるか。


今日は後者だろう。


壊滅した温泉郷。結界崩壊の影響。自分が維持していた結界が消えたから、あの町は壊れた。


因果を辿れば、エリスの出奔に行き着く。


この女は自分を責めない。「自業自得」「知らない」で切り捨てる。

でも、目の前に結果を見せられた時——目を逸らせるほど鈍くはない。


「……腹、減ったな」


「……は?」


「飯にしないか。道端で」


「こんな山道で?」


「昨日、町で買ったパンがまだある。チーズも」


「……パンとチーズだけ?」


「あとリンゴが二つ」


エリスの眉が動いた。

微かに。ほんの少しだけ。


「……リンゴ、先に寄越しなさい」


口調が戻り始めた。


道端の岩に腰掛けて、遅い昼食にした。


パンは少し硬くなっていたが、チーズはまだいける。リンゴは甘い。


エリスはリンゴを齧りながら、山脈の方を見ていた。


「……ねえ、駄犬」


「なんだ」


「温泉郷、いくつあると思う? この大陸に」


「……知らない。十か二十か」


「もっとあるわよ。地脈が通ってる場所なら、どこでも湧く可能性がある。

あの本にも、ここ以外にいくつか書いてあったし」


「じゃあ次があるだろ」


「当然あるわよ。私はたまたま最初の候補地が外れただけ。

二つ目、三つ目、いくらでも探せばいいの」


強がりではない。

この女は本気でそう思っている。一つ駄目なら次。それでも駄目なら、その次。


折れない。

どんなに理不尽な目に遭っても、泣き言を言わない。


王国で十年間結界を維持し続けた精神がそうさせるのか。

それとも、元々この女がそういう人間なのか。


たぶん、両方だ。


「……お前は強いな」


「当然でしょ。弱かったら十年も持たないわよ」


「そういう意味じゃなくて」


「じゃあどういう意味よ」


「……温泉が壊れてたのに、次を探せるのがすごいって話だ」


エリスがリンゴを齧る手を止めた。


「……何よ、急に。気持ち悪い」


「そうか」


「そうよ。褒められ慣れてないの。やめなさい」


褒められ慣れていない。

聖女として称えられることには慣れていても、人間として褒められることには慣れていない。


「……リンゴ、もう一個あるぞ」


「食べる」


話を変えた。

いつもはエリスがやるやり方だ。核心に近づきすぎたら、別の話題で上書きする。


今日は俺がやった。

追及しても、この女は受け取り方を知らない。だから、リンゴを渡す方がいい。


エリスがリンゴを受け取った。

指先が一瞬だけ触れた。


何も言わなかった。

二人とも。


---


昼食を終えて、街道を歩き出した。


山脈を背に、西へ向かう。

次の町までは一日半。


「……駄犬」


「なんだ」


「次の候補地、海がいいわ」


「海?」


「温泉と海が両方ある場所。贅沢でしょ? でも私は元聖女なんだから、それくらいの贅沢は許されるべきよ」


「自分で許してるだろ、もう」


「当然。私の人生の裁量権は私にあるの」


裁量権。

十年間、それを持てなかった女の言葉だ。


「海の近くの温泉か。あるかもしれないな」


「あるわよ。絶対に。私の運はここから上がるの」


「根拠は」


「勘よ。聖女の勘」


都合のいい時だけ聖女を名乗る。


「……まあ、探してみるか」


「探すの。駄犬。必ず見つけるのよ。温泉があって、静かで、誰にも追われなくて——」


「飯がうまいところだろ」


「……分かってるじゃない」


少しだけ、笑った。


裏の笑みだ。

でも嘲笑じゃない。「こいつ、分かってるじゃない」という、認めた笑い。


温泉郷は壊滅していた。

「終の棲家」の最初の候補は消えた。


でも、二人の足は止まっていない。


次の場所がある。

次の温泉がある。

次の「ここがいいかもしれない」がある。


見つかるまで歩く。

見つからなくても歩く。


隣にこの面倒な女がいるなら——まあ、歩けるだろう。


……次は海か。


悪くない。

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