第14話 雨の日の休戦
雨だった。
朝から降り始めた雨は、昼になっても止む気配がない。
街道はぬかるみ、視界は白い。旅を続けるには最悪の天気だ。
「……動けないな」
「当然でしょ。この雨の中を歩いたら髪が台無しになるわ」
判断基準が髪だ。
幸い、昨夜泊まった宿にもう一泊できた。
小さな宿だ。部屋は一つしか空いておらず、ベッドも一つ。
いつも通りの配置——エリスがベッド、俺が床。
窓の外を見る。
灰色の空から、細い線のような雨が途切れなく落ちている。
やることがない。
「……暇ね」
エリスがベッドに腰掛けて、足をぶらぶらさせていた。
手持ち無沙汰らしい。この女は退屈に弱い。
退屈になると碌でもないことを言い出す。
「駄犬。芸をしなさい」
「犬じゃない」
「駄犬でしょ。芸のひとつやふたつできるでしょ」
「できない」
「つまんないの」
足のぶらぶらが速くなった。
苛立ちが足に出るタイプらしい。
「……カードゲームでも買ってくるか」
「雨の中を?」
「走れば一分だ」
「濡れた駄犬が部屋に戻ってくるの? 獣臭くなるからやめて」
獣扱い。もはや犬ですらない。
結局、エリスが宿の棚から本を拝借してきた。
前の町でもやっていた。勝手に借りる癖がある。返すのかは不明だ。
「……何の本だ」
「旅行記。百年前の冒険者が書いたやつ。温泉の記述があるかもしれないでしょ」
温泉への執念が百年の時を超えた。
エリスが本を読み始めると、部屋が静かになった。
雨の音だけが残る。
規則的で、単調で、眠くなる音だ。
窓辺の椅子に座って、外を見ていた。
灰色の空。灰色の屋根。灰色の石畳。
色のない世界は、不思議と落ち着く。
「……駄犬」
「なんだ」
「この本によると、東の山脈を越えた先に温泉郷があるって」
「百年前の話だろ」
「温泉は百年じゃ枯れないわよ。地脈から湧いてるんだから」
「道が残ってるかは分からんぞ」
「だから行ってみるのよ。旅ってそういうものでしょ」
それはそうだ。
「あと、この冒険者の文章が酷いわね。
『湯の温もりに身を委ね、我が魂は天に昇る心地であった』って。
ポエムかよ」
口調が崩れた。裏の地が出ている。
「……お前だって風呂に入ったらそうなるんじゃないか」
「私はポエムにはならないわよ。『熱い。良い。もう一杯』で終わりよ」
簡潔だ。
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午後。
雨は弱まるどころか、強くなった。
屋根を叩く音が、さっきより重い。
エリスは本を読み続けていたが、いつの間にかページをめくる速度が落ちていた。
「……眠い」
「寝ればいいだろ」
「昼寝は負けた気がするの」
何に負けるのか分からないが、この女なりの矜持があるらしい。
「雨の日に昼寝するのは普通だ」
「普通の人間の話をしてるんじゃないの。私は聖女よ」
元聖女だ。しかも自称の時だけ聖女を名乗る。都合がいい。
エリスは本を胸の上に置いたまま、ベッドに横になった。
「……寝ないわよ。目を閉じてるだけ」
「ああ」
「本当よ。寝てないからね」
「分かった」
三分後。
寝息が聞こえた。
本が胸の上から滑り落ちそうになっている。
立ち上がって、そっと本を取り上げ、テーブルに置いた。
読みかけのページに、紐の栞を挟んでおく。
エリスの寝顔を見る。
――何度か見ているが、毎回思う。
起きている時と、別人だ。
眉間に皺がない。口元が緩んでいる。
「駄犬」も「荷物を持て」も言わない。
銀髪が枕に広がって、雨の薄い光を吸い込んでいる。
呼吸が深い。安心して眠っている顔だ。
王国にいた時、この女はこんな顔で眠れていたのだろうか。
たぶん、眠れていなかった。
結界の維持は二十四時間だ。眠っている間も魔力を供給し続ける。
熟睡なんかできるはずがない。
今は違う。
結界の鎖はない。追手もいない。
雨が外の世界を遮断して、この部屋だけが静かに守られている。
毛布が腰までしかかかっていなかった。
手を伸ばして、肩まで引き上げた。
力加減。
毛布を破かないように。起こさないように。
指先が銀髪に触れた。
一瞬だけ。
「…………」
手を引いた。
窓辺の椅子に戻る。
雨音を聞きながら、目を閉じた。
---
◇
……起きている。
いや、起きてしまった。
本が胸から消えた感触で、薄く目が開いた。
すぐ閉じた。条件反射だ。
王国にいた頃に身についた癖——誰かが近づいたら、寝たふりをする。
でも、攻撃は来なかった。
代わりに、本がテーブルに置かれる音がした。
小さな音。丁寧な音。
そして——毛布が動いた。
肩まで引き上げられる。
ゆっくりと。壊れ物を扱うみたいに。
あの馬鹿みたいな怪力の指が、毛布の端を掴んでいる。
力なんかほとんど入っていない。入れないように必死なのが、布越しに分かる。
……指先が、髪に触れた。
一瞬だけ。
すぐに離れた。
足音が遠ざかる。椅子に座る音。
……なんなのよ。
心臓がうるさい。
寝たふりを続けるのが、急に難しくなった。
王国では、誰もこんなことをしなかった。
結界を維持する「装置」に毛布をかける人間なんかいなかった。
この男は、違う。
瓶をそっと降ろす。足音を消す。毛布をかける。
全部、黙って。全部、何も求めずに。
気持ち悪い——と思おうとした。
前はそれで済んだ。
今日は、済まなかった。
……あったかい。
毛布が、じゃない。
いや、毛布もあったかいけど。
「…………」
寝よう。
今日は雨だし。雨の日に寝るのは普通のことだし。聖女だって寝る。
理由はそれだけだ。
あったかいから寝るんじゃない。
絶対に、違う。
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翌朝。
雨は上がっていた。
雲の切れ間から朝日が差し込んで、屋根の水滴が光っている。
「発つわよ、駄犬」
エリスの声がいつもより明るかった。
「……機嫌いいな」
「別に。普通よ」
普通ではない。朝から「水」の一言で始まるのがこの女の通常運転だ。
荷物をまとめて、宿を出る。
街道の泥はまだ柔らかいが、歩けないほどではない。
エリスが半歩前を歩いている。
いつもは「遅い」と文句を言うのに、今日は振り向かない。
代わりに、歩幅が少しだけ狭い。
置いていかないように。こちらに合わせているように。
「……エリス」
「なに」
「昨日、よく眠れたか」
エリスの足が一瞬止まった。
「……普通よ。雨だったから。雨の日はよく眠れるの」
「そうか」
「そうよ。それだけよ」
それだけ。
でも、耳の先が微かに赤い。
今日は朝日のせいかもしれない。
「ほら、歩きなさい。温泉郷、東の山脈を越えた先にあるかもしれないんだから」
「百年前の本の情報だろ」
「百年だろうが千年だろうが、温泉は枯れないって言ったでしょ。駄犬は記憶力もないの?」
口調はいつも通りだ。
毒舌で、理不尽で、傲慢で。
でも、声がほんの少しだけ柔らかい。
……まあ、気のせいかもしれない。
気のせいでいい。
今はまだ。




