十三話
葵がすくすくと育ち、ついに「たっち(つかまり立ち)」ができるようになった今日この頃。
佐藤家には、新たな、そして決定的な悩みが浮上していた。
「陸……大変なことになったよ……」
防音室でパソコンの画面を見つめる結衣の顔が、蒼白になっていた。
「どうした? また機材の初期化でもしたか?」
「違うの……! 葵ちゃんがね……『言葉』を覚え始めてるの……!」
「え? マジで!? 『ママ』とか『パパ』とか言ったのか!?」
歓喜する陸に、結衣は悲壮感たっぷりに首を振った。
「ううん……昨日ね、おもちゃを落とした葵ちゃんがね……『ぶぉい……』って言ったの……」
「………………は?」
「どうしよう陸ぅぅ!! 葵ちゃんの初めての言葉が、陸の照れ隠しデスボイスになっちゃうよぉぉぉ!!」
「嘘だろ全日本!? 俺のデスボが遺伝……じゃなくて環境汚染してんの!?」
子どもの教育環境として危機感を覚えた二人は、緊急の夫婦会議を開催。
「葵ちゃんの前では絶対にデスボイスおよび配信用語(草、てぇてぇ、事故等)を禁止する」という鉄の掟を制定した。
しかし、その決意を試すかのように、今夜は【チャンネル登録者数350万人突破&夫婦対抗・リアル料理対決配信】が予定されていた。
◇
同日、19時。生配信スタート。
今回はキッチンからの実写手元&3Dアバター合成配信。
お互いに葵ちゃん用の離乳食と、夫婦用の晩御飯を手際よく作る対決だ。
『きたああああ!』
『クッキング配信!』
『陸パパの料理腕前に期待』
『今日も事故る準備はできてます』
「みんなこんカナタ〜! 今日は上品に、静かに美味しい料理を作っていきます!」
「こんルナ〜! 今日の私たちは一味違うよ! エレガントなパパママだからね♪」
コメント欄からは『急に上品になって草』『何か隠してるだろ』と察しの良いツッコミが飛んでくるが、二人は徹底して「おしとやか」を貫いた。
陸は包丁をトントンとリズムよく動かし、見事な手さばきで野菜を刻んでいく。
「ふふん、どうだルナ。俺のこの包丁さばき。まさにプロ級だろ」
「すごーい! 陸……じゃなくてカナタ、かっこいいー!」
順調すぎる展開。
(よし……! このまま上品に料理を完成させれば、デスボイスも出さずに完璧な配信が終わる……!)
陸が勝利を確信し、フライパンで特製ハンバーグを香ばしく焼き上げた、その時だった。
ペタペタ、ペタペタ。
キッチンの入り口から、可愛らしい足音が聞こえてきた。
リビングのベビーサークルを自力で乗り越えた葵ちゃんが、お気に入りの音の鳴るガラガラを手に、つかまり立ちをしながらキッチンへ侵入してきたのだ。
「あ、葵ちゃん!?」
焦る結衣。
「待て待て、ここは火使ってるから危ない!」
陸は慌てて火を消し、葵ちゃんのもとへかがみ込んだ。
画面上のアバターも、焦って下を向くモーションになる。
『葵ちゃんきたああああ!』
『侵入者だ!』
『足音可愛すぎる』
「葵〜、ここは危ないからリビング戻ろうね〜」
陸が優しく抱き上げようとした瞬間——
葵ちゃんが、手に持っていたガラガラを床にポロッと落とした。
そして、転がるガラガラを見つめ、陸の顔をじーっと見上げ——小さな小さな口を「あー」と開けた。
静まり返るキッチン。
静まり返るマイク。
数万人のリスナーが見守る中、葵ちゃんが放った言葉は——
「……ヴォイ♪」
完璧なイントネーション。
可愛すぎる高音の「ミニ・デスボイス」だった。
一瞬の静寂。
コメント欄:
『!?!?!?!?』
『今言ったwwwwww』
『「ヴォイ」って言ったwwwww』
『DNA恐ろしすぎるwwwwww』
『英才教育の成果wwwww』
「あ」
「あ」
陸と結衣の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「つ、伝染してるぅぅぅぅぅ!!」
頭を抱えて叫ぶ結衣。
「俺のせいだぁぁぁぁぁ!! 葵ちゃんごめん!! パパが変な叫び声ばっかり出してるからぁぁぁ!!」
ショックのあまり膝から崩れ落ちる陸。
当の葵ちゃんは、両親の大騒ぎを見て楽しそうに「きゃははっ! ヴォイ! ヴォイ!」と両手を叩いて喜んでいる。
完全に大惨事(?)となったキッチン。
観念した陸は、娘の「初・ヴォイ」を祝うため、そして己の罪を噛み締めるため、魂の咆哮を解き放った。
「ヴォイイイイイイイイイ(娘への謝罪&初・単語記念爆音デスボ)!!」
それに合わせて、葵ちゃんも「ぶぉーいっ♪」と可愛くコール&レスポンス。
『親子デュエットデスボきたあああwww』
『世界一平和なデスボwwww』
『13話連続デスボ達成wwww』
『葵ちゃん天才すぎるwwww』
大爆笑と、愛おしすぎる事故(?)に、リスナー全員が温かい涙を流したのだった。
◇
配信終了後。
すっかりご機嫌で離乳食を食べ終え、すやすやとベッドで眠りについた葵ちゃん。
暗いリビングで、陸と結衣は疲労困憊の体でソファに倒れ込んでいた。
「……ハァ。明日からマジで言葉遣い気をつけるわ……」
陸が心底反省したように呟く。
「ふふっ……でもね、陸」
結衣が陸の肩に寄り添い、クスクスと笑った。
「『ママ』でも『パパ』でもなくて、陸のトレードマークを一番最初に真似したんだよ? 葵ちゃん、やっぱり陸のことが大好きなんだよ」
「……慰めになってねえよ。大きくなって『うちのパパ、デスボイスしか出さない』とか作文に書かれたらどうすんだ」
そう言いながらも、陸の口元は緩みっぱなしだった。
「いいじゃない。世界で一番賑やかで、世界で一番笑い合える家族なんだから」
「……まあな」
陸は結衣の肩を抱き寄せ、寝室から聞こえる小さな寝息に耳を澄ませた。
ハプニングだらけで、事故ばかりで、でもどこまでも愛おしい。
佐藤家のドタバタ育児日記は、これからもたくさんの「笑い」と一緒に続いていく。




