30話 クロゼイユ
最初の頃はリネアにつききりだったアシュリーも、徐々に領主としての仕事に戻るようになった。
でも午前中と午後の散歩は、必ずリネアと共にした。
セバスやクララに聞いた話によると、アシュリーが率先して領内の魔物を倒しに行ったこと、魔穴がふさがりつつあることで魔物は劇的に減ったそうだ。
もう誰かに守られるべき少年はいない。
回復していくにつれ、自分はここにいてもいいのだろうかとリネアは考えるようになった。
今のリネアは館の恩人だと言われ、お客様のような扱いを受けている。
(私ってもともと使用人よね。しかも子守り……)
そんなことを考えながら、今日の午後もアシュリーと庭の散歩をしていると、アシュリーが嬉しそうに口を開いた。
「ねえ、リネア、この先にグロゼイユの実がなっているんだ」
「え? グロゼイユがですか?」
「そうだよ。リネア、こっちだ」
そう言って、アシュリーは自然に手を取った。
まるで彼が子供の頃にリネアが手を引いたように、今度はリネアが彼に手を引かれる。
フワリと体が浮き上がるように軽くなる。
いつもよりびっくりするほど速く走れた。
「アシュリー様、これは……」
アシュリーがおひさまのような無邪気で明るい笑みを見せる。
「風魔法だよ! 息を切らすことなく、速く走れるだろう?」
「はい、とっても気持ちがいいです。アシュリー様もフェンリルになって走っている時はこんな感じだったんですか?」
「うん、風に乗ってどこまでも自由に行けそうで、でも最後はこの館の敷地内に引き戻される」
「アシュリー様はこの館から自由になりたかったのですか?」
「昔はね。でもこの館は僕を放してくれない」
「え? それはどういう?」
リネアがそう言った時、身体に再び重さが戻り、先ほどまで感じていた疾走感が消えていく。
ほんの少し残念に感じたのは束の間で、リネアの目の前には宝石のように透明感のある赤い実が並んでいる。
葡萄の房のようになる赤く美しい実にリネアは魅せられた。
「綺麗……」
それ以外の言葉が出ない。
「ははは、リネアならきっとそう言ってくれると思った!」
「驚きました! 何年もアシュリー様とお散歩をしていたのに、グロゼイユの実がなっているのをはじめて見ました」
「このグロゼイユはリネアが結界に閉じ込められた年に植えたんだ。その後は毎年、冬に挿し木をして増やしてきた。リネアが戻ってきたらきっと喜んでくれると思ってね」
アシュリーの思いにリネアの心が揺れる。
ここまで自分を思ってくれた人がかつていただろうか。
ふとウォルターを思い出す。
そして目の前に立つアシュリーを見る。彼は真っすぐな瞳をリネアに向けた。
(私は……アシュリー様に……)
なぜかリネアの鼓動が早くなる。
アシュリーはリネアから視線を外すと、グロゼイユの実を摘んだ。
「ねえ、リネア、このグロゼイユは特別製でとっても甘いんだ」
「ええ? 甘いグロゼイユなんてあるんですか?」
「ものは試しだ。一口食べてごらんよ」
そう言ってアシュリーはリネアの唇にグロゼイユの実を触れさせた。
リネアは長年の信頼関係から何のためらいもなく口を開く。きっと甘い実だと思って。
グロゼイユの実をきゅっと噛む。
次の瞬間リネアは言葉を失った。
「……! す、すっぱい」
そんなリネアを見て、アシュリーはけらけらと笑った。
アシュリーからこんな意地悪をされたのは初めてで、リネアは涙目になって尋ねた。
「アシュリー様、どうして……こんなことを?」
「そりゃあ、もちろん。リネアが僕との約束を破ろうとしたからね」
難しい表情を作ってアシュリーを見て、リネアは目を見開いた。
「私が約束を破る?」
「リネア。僕が夏季休暇で戻ってきたら、一緒にアプリコットタルトを食べようって約束したじゃないか? 忘れたの?」
リネアはぐっと押し黙る。
「あれ、すっごく怒っていたんだから。セバスとクララに聞いたよ。クラウスとマチルドが、僕が出ていった途端にリネアを追い出そうとしたんだってね」
リネアはハッとして顔を上げる。
もしかしてそのことでクラウスとの関係にひびが入ったのかもしれない。
「クラウス様もマチルド様も、アシュリー様と使用人である私の距離が近いことを心配されていました」
「リネアは彼らを庇うのかい? 僕はこの館から離れる気満々だったリネアのことも怒っているんだけど。二人に出て行けと言われたら、リネアの立場なら出ていかざるを得ないことはわかる。でも僕に知らせることくらいできたよね? セバスやクララはそう勧めなかった?」
彼の言う通りだった。セバスもクララもリネアを引き留めたし、しきりとアシュリーに手紙を書くことを勧めてきた。
「そ、それは、あの、えっと」
アシュリーは声をあらげるわけではないけれど、軽く眉根を寄せている。
あの時はアシュリーが成長し、やがてリネアを忘れていくだろうと思っていた。
「リネアが結界に閉じ込められたと聞いて僕は帰ってきたんだ。まず手紙をくれたのがセバスだった。もうその頃にはセバスもクララも館の者たちも、叔父に仕える気はなかったからね」
「え?」
リネアははじかれたようにアシュリーを見る。
「彼は僕に伝えることを躊躇していたんだ」
そう言うアシュリーの瞳はかげりを帯びていて、その奥にゆらりと怒りの炎がある。そんなアシュリーにリネアは気圧されてしまう。
あらためて、彼はもうあのあどけない子供ではないのだと感じた。
「リネアはクラウスに同情しているの?」
「あの……アシュリー様とマチルド様との板挟みになっていたのではないでしょうか」
アシュリーは聡い。
彼は人の表情を読むことにたけているので、ここでリネアが適当にごまかしても無駄だろう。
本心を隠すことでかえって彼を傷つけてしまうことになる。
「リネアは優しいね。それは違うよ。叔父はマチルドを選んだんだ。ただ僕にどう伝えればマチルドを救えるのかを考えあぐねていたんだよ」
何とも返事のしようがない。
「だから、僕は許せなかった。もちろん館の使用人たちもね。そのうえ、あろうことかマチルドを見逃してくれないかと頼まれたんだ。もちろんそんなことはできない。マチルドはクラウスがどんなに説得しても、実家に魔穴のことを知らせると一点張りだったからね。それもあって修道院行きが決まったんだ。その際、持参金も制限されている。だから、ある程度苦労したはずだ。あのわがままが治っているといいけどね」
皮肉な口調でアシュリーが言う。そんな彼を見るのは初めてだ。
そしてたった十四歳で彼は、多くの決断をしなければならなかった。
「アシュリー様……」
「僕がクラウスを頼りにしたのが間違っていたんだ」
「でも、この家の血が必要なのですよね」
「王家に頼る方法もあったのに、僕は家のために帰ってきてくれた叔父に心を許してしまった。叔父はリネアの事件のあと、僕が王家に報告したらすぐに当主代理の任を解かれた。不適格とみなされたんだ」
アシュリーの話によると、魔穴の管理は王家とヴァルハイト公爵家の問題であり、混乱を避けるため他の貴族を巻き込んではいけないとのことだった。
ということは、クラウスはすでにリネアとマチルドにバラしてしまったも同然だ。
リネアはクラウスに少し同情を覚える。
少なくともリネアはアシュリーのために雇われたのだから。
「それで学校を卒業してからすぐに僕が当主を継いだというわけだ。さあ、辛気くさい話はここまでだ。リネア、そんな心配そうな顔をしないでよ。グロゼイユを摘んで砂糖をいっぱい入れてタルトを作ろう」
「はい」
もういつも通りのアシュリーに戻っていて、彼は明るい笑顔を浮かべている。
その後、二人はグロゼイユの実を摘んで、厨房でタルトを焼いた。
使用人たちにもおすそ分けして、厨房の作業机で紅茶を飲みながら食べた。
ゆったりとした楽しい時間だった。
アシュリーの成長や重苦しい過去の重責を忘れさせるほどに――。




