目覚め1
リネアは透明な檻の中にいた。ここには色彩が存在しない。
意識はぼんやりとして、うまく考えられない。ただぼうっと見ていた。
どれくらい長くこの空間にいるのかわからない。
自分の命がとうに尽きているのかわからない。
「リネア……リネア!」
遠くで子供が呼んでいる声が聞こえてきた。臆病で警戒心が強くて……、そのくせ、いざというときはとても勇敢な少年。
リネアの目の前に銀色の輝く波が現れた。やがてその先に紫に輝く宝石のような美しい瞳。その先には……。
目を凝らすと、黄金に輝くアプリコットの実をつけた古木が見える。
――ああ、そうだ。アシュリー……様。
「リネア!」
耳元で聞き慣れない、低い男性の声が聞こえた。肩を揺さぶられる。
不快に思いながらも、先ほど聞こえてきた子供の声のを思い出す。
(アシュリー様が助けを……求めている? 私が、助けなければ!)
体に熱が戻り、魂が引きずり上げられる感覚があった。
手に感触が戻り、強い力で体が引きずり上げられる。
体がふわりと持ち上がり、リネアははっきりと自分の肉体の存在を感じとった。
「いまだ! 魔物を迎撃しろ!」
男性の勇ましい声が聞こえる。
(誰?)
うっすらと目を開けるが、周りはかすんでいて、はっきりとしない。
「リネア、僕がわかる?」
目の前には美しく整った顔立ちに、額にはらりにかかる銀髪、透明感のある紫色の瞳。
綺麗な男性の顔があった。
しかしそこにはリネアの大切な人、守るべき人の面影があった。
「……アシュリー様?」
リネアはぎゅっと抱きしめられる。
「よかった、リネア。お帰り……」
彼が泣いているのがわかった。
リネアはそっと手を伸ばし、銀色の髪をなでる。
「アシュリー様、泣かないでください。リネアは強いから……大丈夫です。これからもあなたをお守り……しますね」
◇
リネアが救助されてから一週間が過ぎた。
「リネア、ほら口を開けて。しばらくは水分補給と流動食だからね。あ、それからポーション(回復薬)もあるから、これも飲んで。一日一回、必ず飲むんだよ」
「はい……」
リネアの意識も徐々に戻り、はっきりとしてきた。
今はベッドの上に体を起こしている。とはいえ筋力は戻っていないから、背中はたくさんのクッションで支えられていた。
そして目の前に、お粥の乗ったスプーンが差し出される。
リネアはおとなしく口を開いて食べた。
「うん、リネア、いい子だね」
一口食べたら褒められて頭をなでられた。
何かが違うと感じた。
役割が逆転しているのだ。
「アシュリー様、確認したいのですが、今は王国歴何年ですか?」
「532年だよ。ほらリネア、そんなことは後でいいじゃないか。もう一口食べよう」
そう言ってアシュリーが再び、リネアの前にお粥の乗ったスプーンを差し出す。
リネアは仕方なく口を開けてお粥を食べる。
アシュリーは少年ではなく、見目麗しい青年になっていた。
リネアはまだこの状況に慣れないでいる。王国歴からいって彼は十九歳になっているだろう。
「あの、アシュリー様、私は一人で食べられます」
「それはどうかな? 腕の筋肉だってうまく動かせないでしょ? ゆっくりと筋肉をつけていかなくちゃ」
確かに、アシュリーの言う通りで、目覚めた頃はスプーンすらまともに握れないくらい筋力が衰えていた。
そういえば、少し前にトイレに行こうとしてリネアはベッドから見事に落ちた。
トイレの介助をアシュリーが申し出たがリネアは速攻で断り、今はクララがトイレまで支えてくれていた。
とはいえ、だいぶ歩けるようになっている。
「はい、それはもう頑張ります。ところでアシュリー様、私は何がどうなっているのか、いまだにご説明いただいていないのですが」
セバスともクララとも会ったが、二人とも若々しくはあるが、少し年を取っている。
なにより、アシュリーの成長がめざましすぎた。
「しょうがないなあ。リネアはまだ目覚めて一週間しかたっていないのに、知りたがりだね」
「はい、クラウス様とマチルド様はどうなさっているのでしょう。先ほどの王国歴から換算するに私は、五年間眠っていたということですか。アシュリー様もすっかり大きくなられて安心しました」
アシュリーのこんな立派な姿が見られるとは思っていなかったので、感慨深いものがある。
しかし、リネアにとってはほんの少し前の彼はまだ十四歳で背もこれほど高くはなかった。
とてつもない違和感と、彼の成長を見られなかったのが残念だとも感じる。
アシュリーはさぞかし女性にモテるだろうと思われる容姿に育っていた。
一方であれから五年の歳月がたっているということは、リネアはもう二十六歳になっている。
(だいぶ年を取ってしまったわね。ここを出て行った後、職があるかしら……)
リネアがつらつらと考えていると、なぜか目の前のアシュリーの表情が険しくなっていた。
「アシュリー様?」
「あの女の名前、思い出したくもないんだけど」
あの女とはマチルドのことを指しているのだろう。
子供の頃のアシュリーは屈託なくマチルドと話しているように見えて、その実警戒していたことにリネアは気づいていた。
「ではアシュリー様の気持ちの整理がついた時にでもお伺いします」
リネアの返事にアシュリーは不満そうな表情を見せた。
「リネアは失礼だな。僕はもう大人だよ、子ども扱いしないでくれる?」
「確かにアシュリー様は今十九歳ですよね。そして私は二十六歳」
リネアの言葉にアシュリーは吹き出した。
「あははは、リネアが二十六歳だって? 本当にそう思っているの?」
アシュリーにそう言われてリネアはにわかに心配になる。
この部屋には鏡が無くてリネアは自分の姿を見ていなかった。
(も、もしかして私、結界に生気を吸われてもっと年をとっている? いきなりおばあちゃんになっていたら、どうしよう。この筋力の衰えももしかしたら年老いて……)
リネアがあたふたしていると、アシュリーがどこかから手鏡を取り出した。
「ほら見てごらん」
無造作に差し出された手鏡を震える手でリネアは受け取った。
アシュリーを見ると、ほんの少し大人びた笑みを浮かべている。
以前より、かげりを帯びているような気がした。
「アシュリー様、なにかおつらいことでもありましたか?」
アシュリーは驚いたようにリネアを見ると、少しはにかんだような笑みを浮かべる。
「リネアは変わらないね。ほら、早く鏡を見てごらん」
「は、はい」
アシュリーの様子は気になったが、リネアは鏡を覗いた。
するとそこには当時と変わらぬ自分がいた。
いや、当時より少し……。
「あ、あれ? 私」
「リネア、落ち着いて聞いてね。君は少し若返っているよ」
「な……なんで? そ、そんなことって!」
「多分、十七か、十八くらい。ふふふ、僕の方が少しお兄さんだね」
アシュリーがものすごく嬉しそうな顔をする。
「リネアが子供にかえってしまう前にあの結界から出せてよかったよ。君は結界という特殊な空間に密閉されて体が少しずつ退行していったんだ。本来ならば、命を落としたり、あの魔窟に吸い込まれたりしていたかもしれないのに。リネアの持つ強い聖魔法に守られて、あの奇跡のような状態を保てたんだ。ちなみに僕の両親はあの魔窟に吸い込まれて骨だけになって放り出されたけどね」
新たに知る残酷な真実にリネアは息が止まりそうになる。
リネアが落としそうになった手鏡をアシュリーがそっと受け取る。
「やだな。リネア、そんな顔をしないでよ。今回はリネアを救い出せたからよかった」
「ありがとうございます。アシュリー様」
心底ほっとしたように笑うアシュリー。
子供のイメージが強かったので大人になった彼を見ているとどうにも落ち着かない。
声も低くなっている。
それなのに、何の違和感もなく会話が続く。
思えば子供の頃からアシュリーには大人びた部分があった。特にワグナー領へ行った頃から変わった。
「それで、リネアがいなくなってから、五年の歳月がすぎているけど、知りたいのはクラウスとマチルドの事だけ?」
当時、アシュリーはクラウスを「叔父様」と呼んで慕っていた。リネアは、不安な面持ちになる。
(もう、クラウス様を慕ってはいないのかしら)
リネアが館に来た頃には彼らの間には確かな絆があった……。
しかしクラウスがワグナー領へ行ってから、徐々に彼らの関係は変化していった。
「結論から言うと、叔父はワグナー伯爵家の王都のタウンハウスにいる。マチルドは修道院に入ったよ」
「え? マチルド様が修道院に? それはまたどうしてですか?」
「リネア、自分がされたことを忘れたの? 魔物がわいてくる穴に突き落とされたんだよ? それにリネアはここの使用人として働いていたけれど伯爵家の娘――貴族じゃないか。マチルドが罰を受けないわけはないだろう?」
「そんな……、クラウス様との結婚はどうなったんですか?」
「その話は長くなるから、おいおいね」
そう言ってアシュリーはお粥の乗ったスプーンをリネアに差し出す。
リネアはお粥を口に含んで咀嚼してから飲み込むと話題を変えた。
「それであの魔穴はどうなったんですか?」
「ふさがるまであと二、三年というところかな。今は宮廷魔導士が二、三人、地下に常駐している」
「あの穴がふさがるのですか? それに秘密ではなかったんですか? なぜ宮廷魔導士が?」
矢継ぎ早に質問を浴びせるリネアを見て、アシュリーは苦笑した。
「そう、あれは王家の負の遺産なんだ」
「な……なんですって?」
寝耳に水だった。




