魔穴
その後、三日は平穏無事に過ぎた。
リネアは極力マチルドの目につかないように細心の気を配った。たいていは自分の部屋に閉じこもるか、マチルドが「カビ臭い」と言って絶対に足を踏み入れない書庫にこもっていた。
それから、毎朝早くに庭へ出た。アシュリーが好きなタンポポの綿帽子を探し、秘密の地下通路の先にあるアプリコットの古木を見に行くためだ。黄金色の実が実るまでは、まだ数ヶ月ある。
草いきれの匂いとほんのりと湿った土の香りを胸いっぱいに吸い込むと、ぼんやりと幼い頃のアシュリーの姿が脳裏に浮かんだ。
あの頃は、毎日がキラキラと輝いていて楽しかった。
庭で採れた野イチゴやブルーベリーを使って季節ごとの素朴なタルトを焼き、厨房で料理人やセバス、クララ、他の使用人たちも交えて、アシュリーと一緒に食べた。
懐かしく、かけがえのない思い出。
幼いアシュリーの無邪気な笑顔や、不安そうな泣き顔が鮮明に浮かぶ。
それなのにアシュリーは時として、子供らしからぬ気遣いを見せた。
リネアは、そんな彼にいつも胸の痛みを覚えていた。
(ああ……アシュリー様は、無邪気な子供のままではいられないんだわ)
親を早くに亡くしたという過酷な境遇が、嫌でも彼を大人にさせる。
リネアはただの使用人ではあるが、いつの間にかアシュリーにとって姉のような存在になっていた。
期間限定の子守の仕事だと割り切っていたはずなのに、気づけば両手では抱えきれないほどの大きな情が湧いている。
「私は王都へ行って、実家から自由を得て一人で暮らすの。それが長年の夢だったじゃない」
声に出して自分にそう言い聞かせているのに、なぜか涙があふれて止まらなかった。
――ここでアシュリーと過ごした時間が、夢のように愛おしかった。
異変は、四日目の晩に起きた。
ざわざわとする不穏な気配で目が覚めた。
わずかに嫌な動悸がする。
いつもとは違う、ただ事ではない予感に激しい焦りを感じた。
よりによって、今夜はアシュリーもクラウスも不在だ。
彼らは本当に強く、魔物退治ではこれ以上なく頼りになる。
アシュリーに至っては、フェンリルに変化しなくても同等の力を扱えるようになっていた。
戦力不足に頭を悩ませたのは一瞬で、リネアは跳ね起きるとさっと着替えを済ませて、三階の部屋を飛び出した。
二階と一階の踊り場に着いた時、けたたましい金切り声が響いた。
「嫌っ! 館に魔物が、魔物がいるわ! いったい……どうなっているのよ!」
マチルドの声を聞いて、リネアの肝が冷えた。今まで彼女にだけは、地下の秘密がバレたことはなかったからだ。
使用人たちが必死にマチルドを宥める声が聞こえる。
これでクラウスの今までの苦労が水の泡となってしまった。
この際、なぜマチルドにバレたのかの理由は後回しにして、リネアは地下へと急いだ。
だが、向かう先から次々と魔物が現れる。
黒い影のような獣型の魔物――ガルムの群れが、延々とリネアの行く先を阻んだ。
「どうして、クラウス様やアシュリー様がいない時に……!」
魔法が使えない使用人たちは、必死に武器で応戦している。
リネアは迫り来る魔物に聖魔法を叩き込みつつ、地下への階段を駆け下りた。
地下にはすでにクララとセバスがいて、魔物に操られているリビングメイルに苦戦していた。
いつもの余裕はなく、二人とも顔が真っ青だ。
リネアが参戦したことでリビングメイルは片付いたが、魔穴から湧き出るガルムの群れが一向に止まらない。
「リネア様、大変です。今までにないくらい、結界に大きな穴が空いています!」
「どうしてこんなことに!?」
セバスが険しい表情でリネアの質問に答える。
「おそらく、今までクラウス様とアシュリー様の存在自体が、奴らの重石になっていたのでしょう。お二人の不在が長引き、そのせいで魔物が活性化したのでしょう。公爵家の血筋は、魔物を恐れさせ、勢いをそぐのです」
「そんなことが……!」
いくら魔物を倒してもキリがない。
奴らはリネアたちの横をすり抜け、地下から地上へと次々に抜けていく。
「リネア様、結界を閉じるしかありません!」
クララの言葉に頷いたものの、今回ばかりは自信が持てなかった。
ここまで多くの魔物にこの館が見舞われたのは、リネアが来てから初めてのことだった。
しかし、この中で結界を張れるのはリネアしかいない。
(こんなことなら、なぜ館の地下がこんなことになっているのか、きちんと聞いておけばよかったわ)
今さら考えても詮無いことだ。
「わかりました。やってみます。あの、マチルド様にバレてしまったようですが、大丈夫でしょうか?」
その言葉にセバスが眉根を寄せる。
「ええ、どうやら深夜に眠れなくて館を彷徨っていたようです。正確には、厨房で酒を飲んでフラフラとしていたようですが……」
おそらく、リネアの解雇の一件で、彼女なりに不安になっていたのだろう。
リネアはいろいろな雑念を振り切り、前を向いた。
「そうですか。では、私は結界を補修してきます」
その時、地下へと続く階段の上から、切羽詰まった声が聞こえてきた。
「マチルド様! そちらは危険ですので、行ってはいけません!」
「お黙りなさい! 今は私が館の女主人よ! いったい何が起きているのか確認するべきでしょ! 外から魔物が侵入してくるならまだしも、地下から出てくるなんておかしいわ!」
リネアはすぐ近くまで迫ったマチルドの声を聞いてぎょっとした。
「さあリネア様、マチルド様は私どもにお任せください!」
これでセバスとクララは、魔物とマチルドの相手を同時にするしかなくなった。彼らの表情には焦りではなく、どこか諦めの色が混じっていた。
結界の補修に一刻の猶予もない。
リネアは開け放たれた魔法陣の間へ向かって走った。
「ちょっと待って! リネアじゃない! いったいどういうこと!? 説明しなさい! 逃げるなんて卑怯よ!」
リネアは背後からのマチルドの声を振り切り、魔穴のそばに立つ。
結界はいつもより酷い損傷を受けていた。
(アシュリー様がいたら……)
弱気な考えを、ひとまず胸の奥底に押し込んだ。
リネアはいつもの通りに、聖魔法で空中に魔法陣を出現させた。
それを徐々に下へと下ろし、封印を完成させていく。
今夜は何度もこの作業を繰り返さなければならないだろう。
リネアが必死に神経を集中させているというのに、マチルドの騒ぐ声が鼓膜を打つ。
クララとセバスが、リネアの所に行こうとするマチルドを必死に止めていた。
「ここは危険です! マチルド様、どうかお部屋にお戻りください!」
「あなた様は魔法が使えないのです。どうやってこの状況で自分の身を守るのですか!」
セバスが厳しい声でマチルドを諫めている。
「うるさいわね! 私を守るのがあんたたちの仕事でしょ! リネア、説明しなさい!」
マチルドがヒステリックに叫ぶ。
突然、夜中に魔物が屋敷に現れて暴れているのだから、恐慌状態になるのも無理はなかった。
「マチルド様、これ以上はいけません! リネア様は今、必死に結界を守っておられるのです!」
セバスの声が聞こえる。
マチルドを止めつつ、彼も魔物と戦っているはずだ。
それはクララも一緒だろう。
「結界? 冗談でしょ! リネアが魔物を呼び寄せているんでしょ!」
「クララ、ここの魔物は私が防ぎます。どうかマチルド様をお部屋に避難させてください!」
セバスの切迫した声が聞こえてくる。
「承知しました!」
「やめてよ! クララ、使用人の分際で私に触らないで!」
マチルドの声に、気が散りそうになった。
リネアは必死に注意を結界に戻し、再び聖魔法による魔法陣を空中に出現させ、ゆっくりと下ろして蓋をする。
いつもなら二、三度繰り返せば塞がる結界も、今夜ばかりはいつも通りにはいかない。
これで作業も五回目に入る。
リネアは再び神経を集中して、聖魔法による魔法陣を出現させた。
その時、後ろから強い力で両肩を掴まれた。
「いい加減にしなさい! リネア!」
どうやらマチルドは、クララの制止を振り切ってしまったようだ。
セバスもクララも、次々に湧き出る魔物の応戦で完全に手一杯になっている。
だからこそ、リネアは何が何でもこの魔法陣を安定させなければならない。
「このおかしな穴を開けたのはあんたでしょ! この家の人間に自分の有用性を示すための茶番はやめて! おかしいと思ったのよ。アシュリーも使用人も、クラウスまであんたをここに置きたがるから!」
マチルドの妄言は耳に届いていた。
しかし、リネアは完全に魔法陣に集中した。
おそらく、これがこの館での自分の最後の仕事になるのだ。
ゆっくりと魔法陣が結界へと降りていく。
(あと、もう少し……!)
その時、ドンという強い衝撃が背中を激しく打った。
「え……?」
リネアの身体は、展開しかけていた魔法陣とともに、そのまま仄暗い結界の向こうへ――魔穴へと落ちていった。
最後に視界に映ったのは、自分の手を見つめて驚愕に満ちた表情を浮かべる、マチルドの姿だった。
(ああ、そうか……私はマチルド様に、落とされたんだ……)
リネアの意識が暗転していく瞬間、黄金に輝くアプリコットの古木が鮮やかに目に浮かんだ。
『リネア、僕、アプリコットのタルトが食べたい!』
そんな、アシュリーの無邪気な声が幻聴のように聞こえた気がした。
(アシュリー様、どうか、お幸せに……)




